第35話 復活祭の鈴

文字数 3,266文字

 壁につくるカーテンの影がだんだん淡くなってくる。
 この春は曇り空が多く日差しが弱いのだ。
 北国ドイツも4月の下旬ともなれば、陽光の明るい汗ばむ日も多いのに、今年はいつまでも肌寒い。

 1943年4月ベルリン。
 ソプラノのフランス娘、マリーは小柄な背を丸め、窓辺の花の鉢植えに水をやろうと小さな如雨露を構えた。
 クリスマスに愛を交わした後、恋人のエミールが赴任地に旅立ち、もう4カ月になる。
 その間二・三度、事務報告のような短い手紙が届いただけで、あとは全く音沙汰がない。
 手紙の差出地はプラハとなっていた。
 ボヘミアの美しい古都で、本で調べてみると、モーツァルトのオペラを世界初演した立派な歌劇場や、大作曲家ゆかりの音楽大学、有名な管弦楽団もある。
 モルダウという大河も流れているという。
 その川のほとりで、エミールはまだ音楽を続けているのだろうか。
 軍服が身体に馴染み、鍵十字や制帽に光る骸骨の帽章が彼の一部になるにつれ、エミールは音楽を捨てて行った。
 甘く高く張りのあったテノール声は、人を脅し怒鳴りつけるか、マリーに命令や皮肉を浴びせる声に替わった。
 でも、彼はまだ音楽を捨ててはいない。
 マリーには確信があった。
 夜のベッドや昼のソファで彼女の肉体を貪りながら、耳元で甘い一節を囁く声を聞き逃さなかった。
 駿馬の乗り手のように荒い息と共に体を離し、ベッドに転がり、まどろみながら愛の歌を口ずさむこともある。
 そんな恋人の体温は、震えが来るほどに愛おしい。

 冬から春、聖夜から顕現日、そして四旬節に至るまで、マリーは彼が出て行ったアパートで、ひとり待ち続けた。
 今年、1943年の復活徹夜祭は4月24日の夜、御復活は25日だ。
 キリスト教の典礼歴において、『復活』はキリストが生まれたクリスマスより更に特別な意味を持つ。
 キリストが十字架にかけて殺されたとされる「受難」の日に向けて、聖水曜日、聖木曜日、聖金曜日と、土曜の夜に行なわれる復活徹夜祭。
 この期間は聖週間の中でも「聖なる四日間」と呼ばれ、キリストの苦しみ、聖母の哀しみに心を寄せおのれの一年を振り返るという期間だ。
 マルティン・ルターがカトリック教会に反旗を翻し、いわゆる『宗教改革』の先駆けとなった国の一つであっても、フランス人のマリーが毎週通う事の出来るカトリック教会が多くあった。
 ナチスは宗教の持つ特別な権威や権力を否定したが、国民に棄教を促すようなことには積極的でなかった。
 もっともエミールのように親衛隊に入るものは、入隊の際に宗教を捨てる宣誓をしなければならないが。

 4月24日の『復活の聖なる夜』が近づくにつれ、寒いベルリンの街も一気に春めいた。
 街の公園や川辺、郊外の森には春の花が咲き乱れた。
 スミレ、野ばら、キンポウゲ。中でも人目を引くのは『金の鈴』(ゴールド・グレークシェン)と呼ばれるレンギョウである。
 低い幹から細く真っ直ぐな枝をいくつも伸ばし、その枝にびっしりと房状に、黄色い小花を咲かせる。
 小さな蝶のような花の姿は春を迎えるに誠にふさわしく、別名「復活祭の鈴」(オースター・グロックヒェン)と呼ばれていた。

 聖週間の後半は、特に大事な『過ぎ越しの聖なる三日間』で構成されている。
 イエスが最後の晩餐を催し弟子たちの足を足を洗った日を記念する『洗足の聖木曜日』、イエスの逮捕と十字架の死を記念する『聖金曜日』。
 そこから土曜日没後の『復活の徹夜祭』までは、年間唯一ミサが行われない日である。
 祭壇の飾りや布も取り払われ、イエスと言う光が失われた暗い世界を暗示する寒々しい教会。
 その世界から復活の大燭台に灯をともし、光あふれる復活の典礼まで、世界は闇に包まれているのだ。

 4月24日夕方。
 マリーは復活祭に向けた食事の準備をしていた。
 彼女の故郷で復活祭のご馳走とされる、新鮮な子羊肉やウサギ肉は手に入らなかったが、ベーコンや卵、春の柔かいほうれん草は手に入る。
 豚のひき肉も買えた。
 これで茹で卵を作り、殻に絵を描いて何個もイースター・エッグを作ろう。残りはベシャメルソースとほうれん草のソテーと合わせて、春のグラタンにしよう。
 殻をむいた茹で卵をひき肉で包んで焼いた料理もいいかもしれない。
 編み込みのパンやイースター・ケーキも買ってきたい。
 親友アンナもイースターのお昼に尋ねてくるはず。
 恋人エミールが遠くチェコに赴任し離れているのは寂しいが、彼の不在のせいで少しのびのびとした気分になれるのもまた確かだ。

 調理の準備を簡単に済ませ、教会に行こうと身支度を整えていると、玄関のベルが鳴った。
 跳んで行ったがすぐに開けるのはためらわれた。ここのところ東部から移送されてきた労働者が増え、ベルリンは落ちつかないのだ。
 ドアの傍で様子をうかがっていると、イライラした調子で二回目のベルが鳴り、拳骨で力いっぱい叩く音、長靴でいらいらと蹴りつける音も続いた。
 あわててドアを開けると、冷たい目をした仏頂面のエミールが立っていた。

「お、お帰りなさい……」
「すぐに開けてくれないなんて、随分用心深いんだね、マドモワゼル」

 男の汗と酸敗した脂臭い体臭がむっと匂った。
 愛する男の体の濃い匂い。それは大層愛しいはずなのに、マリーの胸は生暖かいざわめきが生じた。

「短い休暇を貰ったので、ボヘミヤから戻って来たのさ。君の顔を見るために」
「おかえりなさい。疲れたでしょう。お食事はどうします?」
「うん。少し腹が減ったかな。道中ろくな物がなかったから」

 それは嘘だった。ナチスの軍人は一般市民よりはずっといいものを食べる事が出来たから。
 道中の食事でも、それは変らなかった。レストランではカツレツも出た。

「じゃあこの度はまとまったお休みを頂けたの?」

 恋人の帰還は嬉しいはずなのに、マリーは心落ち着かず、胸騒ぎを押さえられない。

「今教会に出かけるところだったの。軽いお食事をしたら、あなたも一緒にどう?」

 エミールの明るい色の瞳がスッとそばめられた。

「君は僕が会社の事務員にでも就職したと思っているのかい?」
「え?」

 またたく間に女の顔は、見るのも気の毒なほど歪んでいった。
 醜い。実に醜い。
 俺が恋したフランス娘は、こんなに貧相で人の顔色を窺い、すぐに動揺する「芯」のない女だったのか。
 プラハやテレジンで見るボヘミア女の方がよほどましではないか。

「いい加減お前のマスターの職業を覚えろ !」

 エミールはテーブルかけを引き抜いて怒鳴った。
 テーブル上のカップや花瓶、ミモザの花が音を立てて転がる。
 マリーが耳と頭を押さえてしゃがみ込んだ。
 震える女の手首をつかみ、立たせた。

「僕は栄光ある親衛隊だ。分かるね。入隊した時点で僕たちは信仰なんぞ捨てるのが決まりだ。これからも僕についてきたかったら、君もその偽善に過ぎない信仰を捨てろ」

 離してエミール。
 恋人が弱々しい声で訴えた。

「せめてイースターの前の日の、夕飯の支度はさせて。卵とほうれん草とチーズが手に入ったのよ。貴方にも食べてほしいの」

 手を放すと、マリーは小走りに台所に逃れた。
 バターと小麦粉と牛乳を煮込んだベシャメルソースに、たっぷりのグリュイエールチーズを削りいれる。
 とろりと溶けたチーズをよくソースに混ぜ込めば、グラタンによく合うソース・モルネーの出来上がりだ。
 あとは茹でたほうれん草をバターでいため、酢と沸騰した湯に割りいれて半茹でにしたポーチド・エッグを載せてソースをかけ、オーブンで焼けば出来上がりだ。
 スライスしたバターつきパンと、きゅうりの酢漬けと、香草を振り入れたブイヨンを添えれば、きっとエミールも気にいるだろう。
 イライラとすごんで見せたのは、きっとお腹が空いて疲れているからだ。
 あとできっと私の体を求めてくるに違いない。
 優しい丁寧な愛し方は、ここしばらく彼から受けたことがない。
 けど、彼が求めてくるのだから……

「私は今とても幸せよ」

 マリーは口角を上げた。
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