第24話 陽気な未亡人

文字数 3,532文字

 ナチス突撃隊の首領エルンスト・レームとその仲間が処刑されたベルリンでは、この機に乗じて『反ナチス』潰しが活発化していたが、オイゲンのアパートに匿われていたイサーク・ヅィンマンは、家主の移動と同時に、海外の音楽家仲間の手引きでドイツ脱出に成功していた。
 スイスで開催される『ジュネーブ国際音楽コンクール』参加の権利を得て、渡瑞する事が出来たのだ。
 大学側はヅィンマンの教員としての権利を守るどころか、そのまま登録を抹消したので、自動的に解雇となった。だがそれは当時よくある処遇である。
 学内に警察(ゲシュタポ)やナチス親衛隊員が公然と出入りし、様子を探るようであったが、大学も学生や教員を保護しようとはしなかった。

「アンナ、もうあまり飲まない方が良いぞ」

 カバレットの楽屋に入ってきた支配人は、ドレッサーの前に並んだ幾つもの酒瓶を眺めた。

「いいじゃない。お酒を飲むとね、体がかあっと熱くなって声が滑らかに出るのよ」
「声に良いとも思えんがね。最近の君の歌を聞く限り」
「あんたとの役立たずのセックスじゃ体が温まらないから、これを飲むしかないんじゃないの」

 髪に巻いたカーラーを外しながら煙草に伸ばす手を、支配人は遮った。

「役立たずで悪かったね。でも酒か煙草かどちらかは辞めろ。客からも、あいつの声がひどすぎるって苦情が来始めている」
「おや。いよいよあたしの行くところが無くなるってことかしら」
「君を放り出しはしないけど、さらにひどくなったら前座に回ってもらうかもね」
 そう言いつつも、支配人は熱いお茶のカップを置いて行った。

「くそ男! 」

 ブラシで髪をときカールをほぐす手をとめ、アンナは毒づいた。

「アンナ、花が届いているぜ」

 劇場の下働きの男が、一抱えもある大きな花束を運んできた。
 くすんだ色のシックな包装紙に青いリボンが鮮やかだ。

「薔薇じゃねえんだ。こういうのもありなんだな」
「でもいい匂い」

 スイートピーだ。
 アンナは小さな蝶々のような可憐な花に顔をうずめた。とびきり新鮮なのだろう。花粉が肩やむき出しの胸元についたが、気にしない。
 下働きにチップを払い、特大のジョッキを店から持ってこさせ、スイートピーの花束を入れた。
 カードがついている。
『H・Оshima』
宛名を読むとドイツ人の名前ではないようだ。

「がっしりとしたアジア人だったぞ」

 シンノじゃないわ。彼はほっそりと華奢なタイプ。キムでもないわよね。長身でがっしりしているけど、彼だったらきちんと名前を書くはずよ。

「その人は?」
「今日のお前の歌を楽しみにしているってよ」

 そう……アンナは立ち上がると、水差しから汲んだ水で顔を洗い、先ほどの熱い茶を一気に飲んだ。
 小さく声を出してみる。
 中音域から高音に切り替わるチェンジポイントが引っかかる。
 酒で喉が荒れているのだろうか。

「お茶をもう一杯持ってきて。 はちみつをたっぷり入れて」

 やっとやる気になったか。
 その声を聞きつけた支配人は、下働きの小娘にお茶を命じ、ついでに熱いお湯で絞った布も持ってくるように頼んだ。
 熱い布を当てて顔のむくみを取り、はちみつ茶を飲んで喉を滑らかにしたアンナは、気合いを入れてメイクをし始めた。

 客の歓声と共にステージに現われた花形歌手アンナ・ドゥリックの姿は、ここ数日見られないほどに艶やかだった。
 その宵のメインとなる演目は、フランツ・レハールの「 Die lustige Witwe」日本や西欧圏では「メリー・ウィドウ」と呼ばれるウィーン・オペレッタの名作である。
 バルカン半島の小国モンテネグロを模した架空の国の、裕福な美貌の未亡人に扮したアンナは、序奏に乗り艶やかなワルツを舞うと、一転民族調のドレスをまとい、故郷を思う歌「ヴィリアの歌」を歌いあげた。
 観客席から称賛のため息とどよめきが漏れた。
 足しげく通う客なら誰もが気付くとおり、彼女はここしばらくしわがれた声で、それは荒んだ唄を歌っていたのだ。
 馴染み客やスタッフは、彼女の恋人がナチに粛清されたからだと囁いた。
 だがそんな噂をよそに、しきりと拍手と視線を送る日本人の一団があった。
 一際背筋がピンと伸びがっしりとした男が、彼女の歌に合わせて正確にリズムを取っている。
 彼だ。間違いない。

 弦楽器の繊細な前奏が鳴り、座付きのテノール歌手との今日一番の見せ場が始まった。
 主人公ハンナ・グラヴァリと些細な事で別れてしまった元恋人、大使館書記官のダニロ伯爵との愛の二重唱である。
「 Lippen schweigen」
 唇は語らずとも、2人の間には愛が通じている。
 握った手と手が語っている。
 愛しています、愛していますと。

 優しく甘い恋心を歌いあげる感傷的なナンバー。
 テノールと手を組み、顔を寄せ瞳を見つめ合って歌うアンナは、ちらりと日本人たちのテーブルを見た。
 先ほど指でリズムを取っていた男の唇が動いていた。
 ドイツ語で、声を出さずに歌っている。
 語らずとも激しく訴える恋心。組んだ手、絡めた指で貴女の心が分かる。私の心も激しく叫んでいる。

 アンナは確信した。あの人が、花束の男だわ、と。

 終演後、男が再び楽屋に来るかとアンナは待ったが、日本人は現れなかった。
 受付で予約名簿を確認すると、名前があった。
「hirosi oshima」

その後も足しげく劇場に客としてやってきた日本人は、パリッとした仕立てのよいスーツを着こなしソフト帽を被り、礼儀正しくキルシュ酒と食事と舞台を楽しんだ。
恋人と後ろ盾を失ったアンナは、独逸国在勤帝国大使館附陸軍武官をパトロンに得た。その名を「大島浩」
大日本帝国陸軍少将である。

大島という男は筋金入りの「ドイツ愛好家」だった。
彼は美濃国岩村藩士出身、陸軍大臣・貴族院勅選議員を歴任した大島健一の長男として生まれた。
父の大島健一は、第一次世界大戦後の徳島県鳴門市で青島のドイツ兵収容所を開設した人物である。その坂東俘虜収容所こそ、日本におけるベートーベン第九交響曲の全曲初演の場だ。
幼くして在日ドイツ人家庭に預けられた息子の浩が、強烈なドイツ音楽びいき、特にワグナー音楽の信奉者になったのは当然の成り行きと言えた。
ただ、硬質のドイツ管弦楽偏狭かと思いきや、意外にも軽妙なオペレッタの愛好家でもあった。
美男美女が舞台上で恋愛模様を演じ、切なく歌い上げるオペレッタは重厚なオペラとは客層も違うし、演奏される場も違う。
豪放磊落で明るく、人を疑わない素直な性格だったと言われる大島浩の、情緒的な一面が、このロマンチックな喜歌劇を好んだのかもしれない。

夫人同伴の歌劇場でのオペラ鑑賞には、正装で臨んだ大島だが、オペレッタは違う。
歌を楽しむのはカバレットやヴァリエテであり、きちんと音楽教育を受けた歌手だけではなく女優が歌う事が多い。
 そんな場にも大島はきちんと帽子と仕立ての良いシャツ、三つ揃いのスーツ、コートにステッキで出入りをした。
アンナの出演するカバレットに足繁く出入りするうちに、すっかり上得意客となった大島は、やがて慇懃に

「お送りしましょう」

と専用車に誘うようになった。
時には車を降りて彼女と腕を組みながら、夜のシュプレー河畔を散歩と洒落こむ夜もあった。
耳も目も肥えた大島は、店で歌われるオペレッタの名曲をあらかた覚えていたのか、川のさざ波の音に載せて愛の歌を口ずさむ機会も一度や二度ではない。
甘美な「メリー・ウィドウ」の『唇は語らずとも』、「微笑みの国」の情熱的な男声の名曲『君こそ我がすべて』。
アンナが艶やかに声を重ねると、大島は歩みを止め、貴婦人にするように彼女の手の甲に口づけた。
貴族的、騎士道的な仕草は1930年代には既に時代遅れなのかもしれないが、後ろ盾を失ったアンナに安心とときめきを与えた。
だが、彼はけして彼女の肉体を求めることはなかったし、唇への接吻もなかった。
愛妻家として有名な大島の、彼なりのけじめなのかもしれない。

何度も二人きりで会ううちに、アンナは成功裏に終わった仲間とのオペラの公演や、中挫している演奏会の話を彼に聞かせた。

「あなたと同じ、日本人の仲間もいるのよ。バイオリニストのシンノとか、素敵なバリトンのキムとか」

ほほう、と大島は微笑んだ。

「彼らも私と同じく、紳士であることを望みますよ」
「二人とも立派な紳士よ。いつだったか、私たちの指揮者先生がSAのならず者に襲われた時、いくら叩きのめされても守ろうと戦ってくれたもの」
「貴女の先生に? それは勇敢な振る舞いだ。貴女は無事でしたか?」
「ええ。私もユダヤ人のその先生も無事でしたわ」

それは良かった、とアンナの手を握る大島の目が、鋭く輝いた。
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