第49話 再びベルリンへ

文字数 2,140文字

「お兄さん上海にいたんだって?」
「ええ、まあ」
「日本の金持ちの子弟だって言うじゃないか。一度この国から呼び戻されたんだろう? なぜ故国に居つかなかったの?」

 フランス北部の港町からベルリンに向かう列車の中、僕は隣りの席の新聞記者と親しくなった。
 ベルリンに向かう最中だという彼は、車両内を巡回するナチの警察や地元警察相手に、流暢なフランス語とドイツ語で応対していた。
 僕はといえば数年ぶりのドイツ語、しかもベルリンと大いに違うアクセントや言い回しにとまどっていた。
 おまけにフランス語と来たら、学生当時から大の苦手。しどろもどろもいいところだ。

「クラシック音楽に専念していれば、僕にも居場所は在ったかも知れないんですがね、そうじゃない音楽にベルリンで触れてしまいまして」
「退廃音楽ってやつかな、もしかして」
「そう名付けられているんでしょうか。ジャズやブルース、キャバレーソングなんかですよ。そっちにどっぷりはまってしまいまして」
「そりゃまったく正しい親不孝だ」

 記者氏は薄く笑った。ジャズと聞いてぴんとくるあたり、彼も親不孝な嗜好を持っているのかもしれない。

「男が楽器で食べていくって言っても、今時分はとても無理でしょう。国内の交響楽団は既に席が一杯だし、放送楽団なんてなおさらだ。あとは戸山の陸軍軍楽隊か横須賀の海軍しか残っていない」
「でも君、それらに行くのは絶対に嫌なんでしょう」

 記者は笑顔で決めつけにかかったが、間違っていない。

「まあそんなこんなで、仕送り受けながら、上海で楽団に参加していたわけです。せめても本土と距離を置きたかった」

 でもその頃僕が抱いた思惑は、結果的に大外れだった。
 日本は中華民国との戦いの最中で、西洋の、ましてや米国由来の大衆音楽など、上海であっても「もってのほか」だったのだ。
 やがて僕らは昼食をとりはじめた。
 記者氏のものは途中の乗継駅で買った硬いパンと臭う石鹸のようなチーズと、薄い妙な香りのするコーヒーもどきだ。チコリという植物の根らしい。
 僕は出立先のホテルで作ってもらった、ジャンボンという上質のハムやチーズを挟んだカスクート・サンドが妙に恥ずかしかった。

「君、面白い漢だね。ベルリンは詳しいの?」
「ええまあ。学生時代に何年もいましたから」
「実は君を見込んで頼みがある」
「間謀のお誘いでしたらお断りですよ」

 記者は今度こそ声を立てて笑った。

「違う違う。ベルリンでの僕の協力者になってほしいんだ。街で流行っていることや囁かれていることなんかを教えてほしいわけだ。なにせベルリン支局を開設だなんて言っても、支局員は一人だけだからね」

 僕は少し考えた。
 所属名を尋ねれば、政財界に出入りする親戚たちから聞いた事のある通信社である。
 そこが時局柄、同盟先のベルリンに支局を開設したいというので、今目の前にいる食えない顔の紳士が派遣されたという事だ。
 ただし彼はドイツでの滞在経験が皆無、情報収集の点でも現地の助手を必要としている。
 偶々であった僕が適任ではないかと、ひらめいたというわけだ。

「面白そうですけど問題があります」
「なんだい。予算の範囲内で報酬も払うよ」
「僕は若い頃、ゲシュタポに引っ張られそうになって大島大使に目をつけられたことがあるんですよ」
「既に危機の場数まで踏んでいるとは。それでこそヒューミントだよ。ますます適任だ」

 記者はベルリンに着いたらビールをたらふく奢ってあげるよと笑った。
 もっとも、心行くまで楽しめるだけのビールが、今も提供されているかは疑問だが。

 こうして僕は、日本の某通信社ベルリン支局の、民間人協力者となった。
 別にしげしげと大使館や施設に出入りして情報収集するわけではない。
 週末に人々がどうやって過ごしているのか、若い女性たちの銃後の働きはどうか、少年たちのふるまいはどうかなど、彼らが知りたいのはドイツ人たちのより身近な出来事だ。
 ただし、ロマやドイツの植民地のアフリカから来たコーヒー色の肌の青年たち、それにユダヤ人が街からすっかり姿を消したことや、傷痍軍人が増えたことなど、いくつもの触れてはいけない暗黙の事柄はあった。
 僕はヅィンマン先生を思った。
 彼が僕らに託した『生きる価値のある命のためのレクイエム』。
 その楽譜は日本の東京の実家に置いてきている。
 青山の脳病院の裏手にある屋敷だから、恐らく大丈夫だろう。
 前回僕に同行しベルリンで世話を焼いてくれた「爺や」は今回連れてこなかった。
 歳をとって長旅や異国での暮らしに耐えられないと思ったし、僕の大事な蔵書や楽器、楽譜の管理を任せたいと思ったからだ。

 数年ぶりに戻ったベルリンの街は、夏なのに妙にガランとして空気さえひんやりとしていた。
 若者は出征し、アーリア人たるドイツ人だけで立ち行かなくなった工業・商業・農業の働き手にと、他の国から連れて来た固有のワッペンを着けた若者たちが目立つ。
 マリーやアンナ達のようなフランスからの出稼ぎ者も多い。

 僕は市街地の中心部近くに部屋を借りた。
 でも、エミールたちが通う大学があり、練習やら食事やらを謳歌したアレクサンダー広場やウンターデンリンデン通りのまわりは避けた。

 今、僕の仲間は誰もいない。
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