第71話 アプフェル・クーヘンの匂い

文字数 1,916文字

「坊主、おめかししてどこに行くんだ?」

 ホテル・カイザーヴィルヘルム一階にオフィスを構えるナチの党職員が、ニコラスに話しかける。
 ユダヤ人であることを完全に隠した彼は、ナチの青年たちの小さなマスコットでもあるのだ。
 隊員たちは愉快そうに、彼『で』遊び、一緒にスポーツやゲームに誘ったりもした。
 小さな兄弟や息子たちを故郷に置いてきた兵士も多いと聞くから、小さなサイズのホテルの制服を着て、くるくると立ち働くリトアニア人(で通している)ニコラス少年は、彼らの絶好の愛玩具なのだろう。
 今ニコラスは、中産階級の子弟のようなかっちりとした仕立てのウールの上着とズボン、シャツにタイをしめて、ロビーの隅に立っている。

「ゲアハルトさんの家に行くんです。お休みに遊びにおいでって、ご両親からお誘いを受けたので」

 彼は目上相手に喋る時、仕事中のような大人びた言葉遣いが抜けない。
 それが一番落ちつくのだろう。自分の身と心を護るため。

「そうか、じゃ、おばさんやおじさんにうんと遊んでもらうといいぞ」
「美味しいものをいっぱい作ってもらって、食べさせてもらえ」

 ナチの兵士たちは少年の短髪の頭をくりくりと撫で、背中をポンポンと叩いた。
 このささやかに身だしなみを整えた少年を、心底かわいいと思っているのだ。
 彼らが同じ時に小突き回し、追い立て処刑する、小さなユダヤ人やパルチザンの子供に対する態度と、何という違いだろう。
 どちらも「子供」という事には変わりないのに。
 僕にはぼんやりとわかる。
 人はその本質を見ないで、血肉の上の皮膚や髪や、その人の背負った空気を見つめ、判断するのだ。
 こいつは俺たちの好意をうけるに値するか、踏みにじりいたぶっていい相手かと。
 ベルリンでも東プロイセンでも、そうした人間の多面的な顔は、いくつも見てきた。

「待たせたなニコラス。さあ行こう」

 僕は従業員通路から、さもあわてたように駆け寄った。
 手には日用品や着替えを詰め込んだ鞄と、まだ暖かく湿った紙包みを下げた。

「これはなに? いい匂いがするんだけど」

 ニコラスは一瞬無防備な子供の顔になり、鼻をひくつかせた。

「厨房のルータが焼いてくれた、リンゴのお菓子だよ。これを両親へのお土産にって」
「素敵だね。正真正銘、ホテルカイザー・ヴィルヘルム印ってことだよ」

 僕らは街へ出て、手をつなぎ、ゆっくりと石畳を歩いた。
 街を巡る運河に大小さまざまな船が行き交う。
 僕らのホテルの専従船のように買い出しに行った帰りとみられる、肉や魚、野菜を一杯に積んだ船、作業員を載せて郊外へ向かう交通船、花売りや果物を売る小舟、人々が憩うボート。
 薄い水色に澄んだ空には、ケーニヒスベルク城の尖塔。
 そしてその根元に広がる褐色の煉瓦の旧市街。

 本来僕は、ケーニヒスベルク市中にあるアパートから通うはずだった。
 ベルリンへの留学を許してくれた両親は、ドイツでSAと揉めゲシュタポにしょっ引かれたという僕の武勇伝を聞き、たいそう心配した。
 そして家から通える範囲でという条件つきで仕事を探させた。
 それで親の御眼鏡にかなったのが、老舗の風格あるホテル・カイザー・ヴィルヘルムのフロントマンだ。
 夜勤の日以外は朝家を出て、深夜になろうが帰宅をし、老いた両親に顔を見せて寝る。
 その厳格なるパターンが、このところ崩れ始めていた。
 一階のナチの事務所で、人々の出入りが激しくなり、僕らホテル側に対しても夜通しの事務手続きや交通機関への問い合わせを求めるようになってきたのだ。
 鉄道の駅や郵便局、船の会社。
 そんなところへ幾度も使いに出され、ボーイたちは不満顔だった。
 大量の荷物(それが何かは知らない)を軍用車に積む作業も深夜に行われ、当然ながらホテルの人間が最後の戸締りまで待っていなければならない。
 女性達にそんなことをやらせるわけにはいかないので、マネージャーもどきの僕が連勤し、泊まりこんで対応にあたる事態になったわけだ。

 こんな時に

「どうしたんですか」
「なにかあったのですか」
「どこに行かれるのですか」

などと絶対に聞いてはいけない。
 スパイ行為とみなされて、最悪処刑されても文句は言えないのだ。
 ナチの理不尽な、不条理なやり方にだいぶ慣れたとはいえ、首都から離れ海と森に囲まれた、のんびりとした東プロシアのことだ。
 口を滑らせた若者や女性達に、不運な犠牲者を出さないとも限らない。
 そんな物々しい夜の移動騒ぎも一段落し、一階のナチの事務所も大分小規模になった。
 こうして僕も一息つかせてもらうべく、一泊二日の休暇をもらい、街の反対側にある実家に帰ることになったのだ。

 小僧のニコラスを連れて。
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