第9話 風見の旗

文字数 3,150文字

「次はムゼッタ、アルチンドーロの前でわがままを言いながら拗ねて見せる。そして元恋人のマルチェッロに見せつけるように可愛く歌う。大事な場面だ。いけそうかな?」
「そんなにいっぺんには対応できないわ。でもやってみる」

 ラ。ボエームオペラプロジェクトの稽古場になっているビヤホールに、ヅィンマン先生の弾んだ声が響いた。

 年が明けた1933年1月。オペラ「ラ・ボエーム」演奏会計画は着実に進んでいた。
 最後まで探し続けた主要キャスト、歌姫・ムゼッタ役に、本物の酒場の歌姫アンナが見いだされ、その美貌と美声にヅィンマン先生も男声歌手たちもすっかり魅了されていた。
 もっとも職場での知り合いかつ冷静な日本人、シンノは別だが。
 こいつは美しい女性に興味がないのか、目のまえに裸の美女が横たわっていてもそのまま通り過ぎるんじゃないか。

「東洋じゃブッダという、絶世の美女の妻と可愛い子を捨てて教えに従ったブッキョーの創始者がいるらしい。あいつもそんな人種なんじゃないのか」

 そうプロジェクトの男性陣に噂されている男だった。

 歌手たちが揃い、オペラ『ラ・ボエーム』計画はつつがなく進んでいるように見えた。
 みな苦しい生活ながら、時間を捻出し決められた稽古の日には出席するし、他の歌手のパートを覚えて、やむを得ず欠席したキャストの分まで歌い演じる事さえあった。
 もっとも唯一のテノールであるロドルフォ役のエミールは、休まれるとピアノのシンノしか高音の出る代役がいなかった。
 だが既に動きのついた『立ち稽古』の段階に入っているので、シンノがピアノを弾きながら歌うのでは稽古にならない。その時は何でも屋の演出助手・ミリヤナがロドルフォの動きを演じた。

 一番多く休むのは酒場の舞台を優先するアンナだった。
「カバレットの仕事が入っているから」の一言もしくは連絡なしで、彼女は実によく稽古を休んだ。
 だがその少ない出席にも関わらず、他の演者の動きを読み、完璧に演技を付けられるのが彼女の強みだった。
 そして何度でも同じ動きが出来る記憶力の良さと、他の演者がどうアドリブで動こうと、そつなく合わせられる勘の良さも持っている。
 美声と音大生顔負けの歌唱テクニックに、フランス人離れした完璧なドイツ語の発音とアクセント。
 彼女は間違いなく、このメンバーの中で群を抜いた天賦の才の持ち主だった。
 だがそれが面白くないメンバーもいる。

 毎回真面目に練習に出席しているのに、それが当たり前のように指揮者にも他の演者にも注目してもらえない、真摯で情熱を持っているのは分かるが今一つパッとしない歌い手というのはいるのだ。
 反対にアンナのように出番も練習の回数は少なくとも、華やかに輝き他のキャストを食ってしまう魅力の者も、いる。それは見た目の美醜に寄らない。
 努力だけではどうにもならない引力。それが「華」というものだ。ムゼッタ役のアンナには残酷なほどにその「華」が備わっていた。

 ただその「華」の存在は、ユニットに不協和音を与える。
 たまに出るだけなのに、歌も演技も立ち位置のとり方も完璧なのが、また癪に障るのだ。
 稽古が進み演技がついて通しの段階に入っても、アンナの多忙はかわらず練習への出席もむしろ減っていった。
 だが大事な場面の稽古には(シンノのカバーもあるのだろうが) 欠かさず出席し、完璧に仕上げる。
 結果、指導者のもとに生徒たちの不満と怨嗟の声が数多く寄せられ、ただでさえ苦悩の多いユダヤ人のヅィンマン先生が頭を抱える羽目になった。

「忙しいっていうだけじゃないのよ。アンナは恋をしているのよ」
「誰? マルチェッロ役のイヴァンかい? だとしたら武骨な彼には釣り合わないぞ」
「違うわよ。イヴァンは優しくていい人だけど」

 ベッドの自分の腕の中で、裸のマリーが微笑みかけると、エミールは嫉妬に駆られてふるいつきたくなる。
 まして他の男の名前が好意的に出てくると、もういけない。
 エミールとマリーは同棲し、夫婦同然の生活をしていた。
 稽古場でもアパートの外でも、公然の恋人として人目をはばかることなく振る舞っている。
 その二人快く思わないメンバーも当然多く、それもまたヅィンマン先生の頭痛の種だ。

「覚えているかしら。アンナをスカウトしに行った夜、カバレットで酔って彼女に絡んだ金髪の突撃隊員がいたでしょう」
「ああ思い出したよ。やたら喧嘩っ早くて、アンナを手籠めにしそうになってた奴だろう」

 エミールは、思い出したくもない、という風に顔をしかめた。

「その突撃隊の坊やよ。アンナのお相手は。あの後熱烈にアプローチされたんですって」

 エミールは余りに意外な成り行きに仰天した。
 よりにもよって衆目の前で自分を辱めようとした、脳みそが筋肉で出来ていそうな、乱暴で芸術や美への理解も関心もなさそうな男。
 アンナほどの「いいおんな」がそんなごろつきの筋肉馬鹿とねんごろになるとは。

 待てよ。

「でもマリー、あまり覚えていないんだけど、奴はかなり若そうだったよ。少年と言ってもいいくらいのだったけど」
「そうね。私もよく知らないけどアンナによると17歳だって」
「17歳!? 彼女よりずいぶん年下じゃないか」
「フランスにいる弟と同じ年よって笑ってたわ」

 エミールは目がくらくらして瞼を冷たい指で押さえた。

「若いけどすごく男らしくて強くて、私を守ってくれるのよ、突撃隊のお仲間にも紹介してくれて、レディーとして扱ってくれるのよって自慢してたわ」
「そりゃそうだろう。強いっていうのは間違いないだろう。後ろ盾も大きいし、お仲間だってそこら中にうようよいるし」

 人殺しだって暗殺だって、襲撃だって何でもやる無法者集団、ならず者の集まりだぞ。

「そんなに嫌わないであげて。アンナは幸せなんだから。その彼、オイゲンっていうんだけど、ハイネスという上官のお気に入りで可愛がられているみたいよ」
「将来有望株ってところか。血まみれの王子様だな、アンナにとっては」
「共産党員も社会党員も一緒よ。広場や大通りで列を組んで大声を上げたり、暴れたり人を殺したり大けがさせたりするのは」

 静かなマリーの声がやけに冷たく響いたので、エミールはぎょっとした。


「ああ本当だよ。アンナは突撃隊のアイドルさ。おかげで毎晩のように連中が来て酒を飲んでいくから、店主はホクホクだよ。彼女に褒められようと随分行儀も良くなったしね」

 カバレットでバンド活動をしている仲間の日本人・シンノがうなずいた。
 ベルリンのウンターデンリンデンのカフェ。木枯らしが吹きすさぶ1月の半ばだ。
 店外のテラス席は北風に舞い上がる土埃と落ち葉にすすけている。
 エミールは大学の授業の後、演奏活動に行く前のシンノを強引に誘い、マリーの話が本当か聞きだしていた。

「まじかよ。それはつまり、アンナにとっては身の安全と仕事の保証のためってことか」
「いや、真面目に惚れてるみたいだぜ。最初は男のごり押しだったけど、彼女もまんざらでもなかったようで、今はどっちも同じくらい好き合っているんじゃないかな」

 すました顔でコーヒーをすするシンノは、仕立てのよいコートの襟を立て、顔を寄せるようにとエミールを手招きした。

「ただひとつ気になる事があってな。アンナの恋人の上官上司の名前は聞いたかい?」
「ああ。血まみれのエドムンド君、だろ?」
「その通り。問題っていうのが、そいつは同性愛で有名なレーム親方の…情人なんだ」

 エミールは危うくコーヒーを吹きそうになった。
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