第48話 ヨーロッパという名の橋

文字数 2,459文字

 と、『裏切者』の処刑を仕切っていた男が女たちの前に立ち、吐き捨てた。

「ここで解散だ。街を出るなり戻るなり、どこへでも行け」

 しばらく佇んでいた幽鬼の群れのような女たちは、一人また一人と散っていった。
 街への道を戻るもの、山の中に入るもの(この女は後に谷に身投げした遺体で発見された)、もう動けないのかその場にへなへなと座り込み涙を流すもの。
 アンナは残された赤ん坊のエミリアを抱き、街の外へと続く道を歩き出した。
 男たちがゲラゲラと笑い、讃美歌の一節を茶化して歌った。

「そうして赤ん坊を抱いてると聖母様みたいだぜ」
「エジプトへ逃げる道はそっちかい?」
「鍵十字のヨゼフはいないのか?」

 男たちのしつこく揶揄う声が、体を素通りして行った。
 この場に居て辱めを受けているこの肉体が、自分であって自分でないように感じる。
 この感覚は以前味わったことがある。
 夜のベルリンのキャバレーで、スポットライトを浴びている時。客からの熱い拍手を受けているとき。反対に激しい罵声を浴びせられている時。
 またオペラの登場人物になりきって、その人の人生を「生きて」いる時。
 自分はアンナであって「アンナ・ドゥリック」というアルザス生まれの頑丈な女ではない。

 いつだったか自分がエミールに投げた言葉を思い出す。

「あんたはなぜ歌を歌うの? 国の内外でもてはやされるスターになれるわけでもないのに」

 エミールが何と答えたかは覚えていない。
 ただ、穏やかな、やや困ったような笑みを浮かべたマリーが、彼の傍らに寄り添っていた。
 2人はいたわりあい、すずめのように貧しかったが、愛し合っていた。
 エミールが数年後に残忍な暴力男に豹変するとは想像もできなかった。
 その頃から『うまく演じていた』と言う事なのだろうか。自分というものを演じ切る事だけができなかったマリーが、愚かで悲しすぎただけなのだろうか。

「そうじゃない。マリーは演じる事から降りたのよ」

 アンナは体の底から震えた。風の匂いが変ったようだ。
 自分は今、自分の人生を『演じている』のだと、体の底から熱く感じた。
 今薄い靴の底を踏みしめて歩いている砂利道は、楽屋から舞台に続くそでの通路だ。

 Glück, das mir verblieb,
 rück zu mir, mein treues Lieb.
 Abend sinkt im Hag
 bist mir Licht und Tag.
 Bange pochet Herz an Herz
 Hoffnung schwingt sich himmelwärts.

 ベルリンで最後にマリーが歌った、マリエッタのアリアが口を突いて出た。
 作品の名前は、確か『死の都』
 確かに現在、この世界が死の都だ。
 配役が告げられた時は
『なぜ享楽的な二面性のある女の役が、幼気なマリーに?』
と思ったものだが、ベルリンのガラコンサートでのアンコールで、ナチの捕り手たちを前にしてのエミールとの二重唱。
 あれを聞いて背筋が凍った。
 そこに小さい頃から知っている、小心者で自信が無くて、自分自身の体も心も傷つけてしまうマリーはいなかった。
 敵わないと思ったが、でも今なら、全てを失いマリーとエミールの娘を抱いている今なら、巧く演じられるような気がする。
 マリーであってマリエッタ、驕慢であって、貞淑な妻、興味を引かれた金持ち男の死んだ妻になり替わろうとする女に。

 街を外れてあてどもなくアンナは歩いた。
 隣町に行こうか、もっと遠くの街まで行こうか。
 山に逃げ、誰かの山小屋にでも転がり込んでほとぼりを冷ますことも考えたが、赤ん坊のエミリアを抱いた身には無理だ。
 やはり自宅に戻って、息をひそめて暮らすしかないのだろうか。
 しかし命の危険もあるし、今家が荒らされていないとは限らない。
 今や周囲は全て敵になった。食べものを買いに行くのも、井戸に水をくみに行くのも、安全ではないのだ。

「アンナ」

 道のむこうから歩いてきた、背の高い修道士が話しかけてきた。
 浅黒く陽に焼けた顔に一面そばかすが散っている。
 ドイツなまりのフランス語だ。彼も世俗においてはドイツ人と言われたりフランス人に変ったり、振り回された人種なのだろうか。

「アンナ・ドゥリック ? 」

 アンナは緩慢にうなずいた。
 頭巾のついたコーヒーのような濃い茶色のごわごわとした修道服に、三つの結び目のある縄の帯を締めている。
 修道士は土と埃にまみれた手をアンナに差し伸べた。

「君を知っている。僕の世俗の名前はオイゲン・ザックハイム。今はフランス風にウジェーヌと名乗っている」

 アンナは驚いて修道士の顔を見つめた。
 オイゲン。ナチスが政権を握って間もなくの『レーム一揆』で行方不明になった、あの年下の恋人。
 よく見ると、青い目といたずら坊主のようなまなざしに面影がある。そして若々しい声にも記憶は掻き立てられる。
 オイゲンは粗末な布靴を脱ぎ、アンナの足に履かせた。
 そしてエミリアを抱き上げた。

「僕らがこの世界で生きていけるか分からないが、行こう」

 マリーの産んだ赤ん坊を抱き、オイゲンとアンナは街を出た。
 ライン川添いの道を休み休み歩き、破壊された教会に寝泊まりしながら2人は進んだ。
 やがて大きな街に出た。
 ドイツとの国境だ。
 エミリアを抱いた2人は夜の闇に紛れて橋を渡った。
 橋の名は『ヨーロッパ』
 二人が渡った後、橋はドイツ軍によって爆破された。
 1944年11月27日のことである。

 ドイツ軍撤退後、現地で髪をそられた人々は2万人にのぼると言われている。
 大半は女性であったため、ドイツ人・わけても軍人との性的関係に原因を求めがちだが、必ずしもそうではない。
 ドイツ人と接する職場で働く人、社会的に目立つ地位についていた人、ドイツの占領政策のための施設(宿舎での下働きも含む)が多かったのである。

 フランスに残った『髪を刈られた女性達』は逮捕され、粛清裁判にかけられ多くは公民権剥奪などの処置を受けたという。
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