第20話 リュート・ソング
文字数 2,253文字
「オイゲン! あなた! 誰がこんな……」
自分の目の前で、次々と愛する男達が痛めつけられていく。アンナは一瞬悲鳴を上げたがすぐに声を低くして、恋人の体をドアの中に引きずり込んだ。
華奢なフランス娘に見えるが、さすがは農村作業が得意だったという頑健さだ。
ドアが閉めるやイサークも駆けつけ、二人がかりで服を脱がせベッドに運んだ。
長身で筋肉質の男の体は想像以上に重かった。
「お湯を沸かしてくれ。あと清潔な布が何枚も」
イサークの指示で蒼白になりながら湯を沸かし、血と泥と埃にまみれた恋人の体のあちこちを洗い清めた。
明らかにこん棒や鎖で殴打されたとわかる傷が、体の至る所についている。
頭の皮膚も破れ金髪が血で固まっていた。
顔は腫れあがり、大きな青い目は塞がりかけ、唇も別人のように膨らんでいた。
「君、体を動かすよ。痛いだろうけどこらえてくれ」
体の下に手を入れて介助しながら男をうつぶせにさせると、肩や背中に加えて尻からの出血が特にひどい。
こん棒で激しく殴打されたのだろうか。
オイゲンは意識があるのかないのか、アンナとヅィンマンの問いかけにも言葉を返さない。
だが手足や顔の筋肉を時折り動かし、言葉は聞こえているようだった。
「アンナ、布とお湯が足りないからもう少し沸かしてきてくれないか。あとシュナップスかなにか強い酒があったら」
とりあえず傷口の消毒に度数の高い強いアルコールが要る。それと気付けの為だ。
アンナが震えながら台所に向かった隙に、オイゲンが口を開いた。口から血と唾液に混じった泡が漏れる。
「立場が逆になったな…」
「そうだな。労働者たちの報復か?」
死者が出ても構わない激しい路上襲撃で、突撃隊員はすっかり労働者から目の敵にされており、彼らに対する報復も無いわけではなかった。
「違う。親父たちだよ」
「え?」
ヅィンマンは何を言っているのかわからなかった。
「レーム親父と上官だ。俺たちの間じゃよく知られた同性愛者たちだ」
「でもそれと君とは関係ないだろう」
「親父の恋人にやられた。エドムンド・ハイネス閣下だ」
ヅィンマンは混乱して言葉を失っている。
「誤解するな。俺はその趣味はない。ただ奴らの餌になってしまった。それでも」
アンナが陶器の水差しにいっぱいのお湯を持ってきた。ヅィンマンが洗面器の中で水と合わせて布を絞り、アルコールをしみこませて傷を拭いていく。
その痛みに屈強な若者も歯を食いしばった。
「それでもアンナを愛してる。それくらいは俺にも許されてほしい」
ヅィンマンはだまってアンナの肩を叩いた。彼はもう大丈夫だ。
「…分かってるわよ、オイゲン」
アンナは口にシュナップスを含むと、恋人の唇から飲ませた。
ベッドは本来の持ち主に帰され、ヅィンマンは台所の椅子で丸くなって寝る事にした。
アンナはベッドの脇に長椅子を置き、体を横たえている。
熱が出て来たのか、若者は低く呻き続けた。
「アンナ、歌を教えてくれ」
「なあに? 無理しないで寝ていてよ、坊や」
「君がマンドリンを弾きながら舞台で歌っていた、あの歌だよ」
「気に入ったの?」
「うっとりしてた。歌と、君に」
アンナは頷くと恋人の顔に近づいて、囁くように歌い始めた。
Glück, das mir verblieb, rück zu mir, mein treues Lieb.
Abend sinkt im Hag, bist mir Licht und Tag.
Bange pochet Herz an Herz ,Hoffnung schwingt sich himmelwärts.
「どこかで聞き覚えがある歌なんだ。初めて聞いた気がしなかった」
「これはウイーンで人気があり、盛んに上演されたオペラだから、君の周りの人が見に行って憶えて口ずさんだのかもしれないね」
ヅィンマン先生が起き出して呟いた。
既に夜は更けている。
アンナのメゾソプラノの歌声は暖かい湿りを帯び、黒い空気に溶けて行った。
どこにも逃げ場がない、坩堝のような街ベルリン。ドイツ。そして恋人たち。ユダヤ人の自分。
この美しい歌も、やがて人々の心に何の感情ももたらさなくなるだろう。
暴力の前に美や芸術は儚く脆い。
Neig dein blaß Gesicht ,Sterben trennt uns nicht.
Mußt du einmal von mir gehn, glaub, es gibt ein Auferstehn.
何度か耳元でくり返してもらい覚えたのか、オイゲンも腫れあがった唇を開いて口ずさんだ。
音程と調子は怪しいがなかなかいい声だ。
もっともウイーンの神童コルンゴルトが作ったこの音楽は、技術的に大層難しい。
それをすぐ覚えてしまうとは、この青年も音楽を理解する素養があるのかもしれない。
カバレットに入り浸って歌や演奏にヤジを送っていたのは、あながち女や芸術家を冷やかす邪悪な欲望だけではなかったのかもしれない。
オイゲンはアンナの指先を軽く握った。
「一年待ってくれ、アンナ。そうしたら故郷のライプツィヒ管区への移動願を出すよ。そこでお前と暮らすんだ」
アンナは包帯だらけの恋人の胸に顔をうずめた。
「お袋は絶対にお前のことを気にいるよ。一年たったらそうしよう」
一年後。
1934年6月30日。
突撃隊へのヒトラー直々の大粛清が始まった。
「長いナイフの夜」( Nacht der langen Messer)である。
自分の目の前で、次々と愛する男達が痛めつけられていく。アンナは一瞬悲鳴を上げたがすぐに声を低くして、恋人の体をドアの中に引きずり込んだ。
華奢なフランス娘に見えるが、さすがは農村作業が得意だったという頑健さだ。
ドアが閉めるやイサークも駆けつけ、二人がかりで服を脱がせベッドに運んだ。
長身で筋肉質の男の体は想像以上に重かった。
「お湯を沸かしてくれ。あと清潔な布が何枚も」
イサークの指示で蒼白になりながら湯を沸かし、血と泥と埃にまみれた恋人の体のあちこちを洗い清めた。
明らかにこん棒や鎖で殴打されたとわかる傷が、体の至る所についている。
頭の皮膚も破れ金髪が血で固まっていた。
顔は腫れあがり、大きな青い目は塞がりかけ、唇も別人のように膨らんでいた。
「君、体を動かすよ。痛いだろうけどこらえてくれ」
体の下に手を入れて介助しながら男をうつぶせにさせると、肩や背中に加えて尻からの出血が特にひどい。
こん棒で激しく殴打されたのだろうか。
オイゲンは意識があるのかないのか、アンナとヅィンマンの問いかけにも言葉を返さない。
だが手足や顔の筋肉を時折り動かし、言葉は聞こえているようだった。
「アンナ、布とお湯が足りないからもう少し沸かしてきてくれないか。あとシュナップスかなにか強い酒があったら」
とりあえず傷口の消毒に度数の高い強いアルコールが要る。それと気付けの為だ。
アンナが震えながら台所に向かった隙に、オイゲンが口を開いた。口から血と唾液に混じった泡が漏れる。
「立場が逆になったな…」
「そうだな。労働者たちの報復か?」
死者が出ても構わない激しい路上襲撃で、突撃隊員はすっかり労働者から目の敵にされており、彼らに対する報復も無いわけではなかった。
「違う。親父たちだよ」
「え?」
ヅィンマンは何を言っているのかわからなかった。
「レーム親父と上官だ。俺たちの間じゃよく知られた同性愛者たちだ」
「でもそれと君とは関係ないだろう」
「親父の恋人にやられた。エドムンド・ハイネス閣下だ」
ヅィンマンは混乱して言葉を失っている。
「誤解するな。俺はその趣味はない。ただ奴らの餌になってしまった。それでも」
アンナが陶器の水差しにいっぱいのお湯を持ってきた。ヅィンマンが洗面器の中で水と合わせて布を絞り、アルコールをしみこませて傷を拭いていく。
その痛みに屈強な若者も歯を食いしばった。
「それでもアンナを愛してる。それくらいは俺にも許されてほしい」
ヅィンマンはだまってアンナの肩を叩いた。彼はもう大丈夫だ。
「…分かってるわよ、オイゲン」
アンナは口にシュナップスを含むと、恋人の唇から飲ませた。
ベッドは本来の持ち主に帰され、ヅィンマンは台所の椅子で丸くなって寝る事にした。
アンナはベッドの脇に長椅子を置き、体を横たえている。
熱が出て来たのか、若者は低く呻き続けた。
「アンナ、歌を教えてくれ」
「なあに? 無理しないで寝ていてよ、坊や」
「君がマンドリンを弾きながら舞台で歌っていた、あの歌だよ」
「気に入ったの?」
「うっとりしてた。歌と、君に」
アンナは頷くと恋人の顔に近づいて、囁くように歌い始めた。
Glück, das mir verblieb, rück zu mir, mein treues Lieb.
Abend sinkt im Hag, bist mir Licht und Tag.
Bange pochet Herz an Herz ,Hoffnung schwingt sich himmelwärts.
「どこかで聞き覚えがある歌なんだ。初めて聞いた気がしなかった」
「これはウイーンで人気があり、盛んに上演されたオペラだから、君の周りの人が見に行って憶えて口ずさんだのかもしれないね」
ヅィンマン先生が起き出して呟いた。
既に夜は更けている。
アンナのメゾソプラノの歌声は暖かい湿りを帯び、黒い空気に溶けて行った。
どこにも逃げ場がない、坩堝のような街ベルリン。ドイツ。そして恋人たち。ユダヤ人の自分。
この美しい歌も、やがて人々の心に何の感情ももたらさなくなるだろう。
暴力の前に美や芸術は儚く脆い。
Neig dein blaß Gesicht ,Sterben trennt uns nicht.
Mußt du einmal von mir gehn, glaub, es gibt ein Auferstehn.
何度か耳元でくり返してもらい覚えたのか、オイゲンも腫れあがった唇を開いて口ずさんだ。
音程と調子は怪しいがなかなかいい声だ。
もっともウイーンの神童コルンゴルトが作ったこの音楽は、技術的に大層難しい。
それをすぐ覚えてしまうとは、この青年も音楽を理解する素養があるのかもしれない。
カバレットに入り浸って歌や演奏にヤジを送っていたのは、あながち女や芸術家を冷やかす邪悪な欲望だけではなかったのかもしれない。
オイゲンはアンナの指先を軽く握った。
「一年待ってくれ、アンナ。そうしたら故郷のライプツィヒ管区への移動願を出すよ。そこでお前と暮らすんだ」
アンナは包帯だらけの恋人の胸に顔をうずめた。
「お袋は絶対にお前のことを気にいるよ。一年たったらそうしよう」
一年後。
1934年6月30日。
突撃隊へのヒトラー直々の大粛清が始まった。
「長いナイフの夜」( Nacht der langen Messer)である。