第66話 北の海へ

文字数 3,114文字

 ハインツの死を聞いてまもなく、僕はベルリン脱出の準備にかかった。
 日本の旅券、大使館発行の通行証、そしていざという時に備え、ハインツがくれた『パンツァーファウスト』誌の関係者の名刺(これは逆効果かも知れない)を手に下宿を引き払い、通信社の上司の家に転がり込んだ。
 上司は、僕が当局からにらまれそうな案件に入れ込んでいると知っていたようだが、何も言わなかったし衣食住を提供してくれた。
 迷惑かけて申し訳ないが、これでひとまず安心した。
 ちょうどそのころ、ハインツが最後に印刷した幼いユダヤ人姉妹の通行証が、組織の事務局から渡された。
 僕が彼女たちを連れ、鉄道でデンマークに移動する、という算段だ。
 デンマークは既にナチの占領下にあったが、監視の目を盗んで中立国スウェーデンにユダヤ人を逃がす漁師たちが存在したし、逃亡先の首都のストックホルムには日本大使館もある。

 数日後、荷物を持った僕は、指示された通り郊外のハンナの実家に行った。
 年老いた彼女の両親と一緒にいたのは、茶色い髪にリボンを結び、きちんと仕立てたコートを着た青い目のユダヤ人姉妹だった。
 紹介によると姉は12歳、妹は10歳。
 匿われるユダヤ人の子供は女の子が多い。
 男の子はユダヤ教の習慣にのっとり幼い時期に割礼をするので、体を検められたら怪しまれるためだ。
 ハンナの両親はとても穏やかな人で、子供たちが生粋のドイツ人ではなく追われる身のユダヤ人と知っていたようだが、それでも優しく面倒をみてたっぷりの愛情を注いでいた。
 姉妹も「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼んでたいそう懐いていたが、自分達の立場と境遇は充分に理解していた。
 突然現れた東洋人の僕に紹介されて戸惑っていたが、ふたりとも凛とした冷静な目をこちらに向けた。
 握手をしたその小さな手は指先も荒れて固かった。幼い身にどれだけの苦労を背負って来たのだろう。

「それじゃシンノ、この子達を頼むよ。君自身も充分気を付けて」

 僕は驚いた。キムも当然一緒に行くものと思っていたが、それは違うという。
 彼はベルリンに残る道を選んだ。

「僕は残るよ。ハンナたちと最後までここにいる。いざとなったら大使館に逃げ込むさ」
「しかし君、中立国のスエーデンまで行けば大使館もしっかりしているし、それこそ安心だ。戦争が終わったら真っ先に国に帰れるだろうし」
「その、僕が帰る国はどこだ? 朝鮮か? 本土か?」
「どちらでもいいじゃないか。どっちも君の国『日本』だよ」

 キムは一際鋭い光の目で僕を観た。

「お前のそういうところだよ。僕に同行の意思をなくさせるのは」

 なぜだ。君は日本人じゃないか。現に日本大使館の恩恵を受けているし、「japan」と捺印された日本の旅券で保護もされる。

「ともかく僕はここに残るよ。自分で行きたいと決めてやって来た町、ベルリンにね」

 それっきり彼はハンナの家の奥の部屋へ行ってしまい、姿を見せなかった。

 僕は子供二人を連れ、国際列車の留まるベルリンの駅から列車に乗った。
 目指すのはドイツの北に位置する披占領国デンマークだ。
 この国は国内のユダヤ系住民を官民挙げて隣国のスエーデンに逃がした実績があり、今も占領ドイツ兵の目を盗んで密出国させているという。
 ベーレン・メーレン保護領に存在する収容所、テレジエンシュタットに圧力をかけて、自国から移送されたユダヤ人のアウシュヴィッツ送りを阻止していると聞いた。

 ひなびた駅で何度か乗り換え、列車は北へと進んだ。
 途中地域の警察が身分証のチェックに車内を回って来た。
 日本人の男とドイツ人の少女2人と言う我々グループに疑わしい目を向けてはきたが、日本政府発行の通信社員の身分証と、PKの通行証、そして『お嬢さんたちをコペンハーゲンにいるお父さんたちの基に送り届ける』という僕の台詞は効いた。
 PK((Propagandakompanieプロパガンダカンパニー)の名前は、それ以上の彼らの疑念をシャットアウトするのに、大変有効なのだ。

「よい旅を」

と警察官たちは愛想よく言って、去っていった。
 だが彼らが行くと姉妹たちは小刻みに震え、僕の上着に隠れるように身を寄せてきた。

 うとうと眠ったり、持ってきたパンをかじったり、本を読んだり日本の話をしたり。長い時間を子供らと過ごし、列車は北ドイツの国境線を越え、デンマークに入った。
 大勢の客に紛れて列車を降りると、人ごみに紛れてにらみを利かせるゲシュタポや現地協力員たちの姿が目に入った。
 ここはドイツによる非占領地だ。油断はできない。
 子供らと両手をつなぎ、辺りを見回していると、本部からの申し渡し通り、迎えの男女が近づいてきた。
 日本人はこういうときよく目立つ。
 ユダヤ人の逃亡を助ける組織のメンバーである彼らは、愛想よく

「お迎えに来ました、お嬢さんたち」

と話しかけ、

「お父様がお待ちです。ホテルへどうぞ」

と荷物を持ってくれた。
 もちろん方便だ。子供たちはナチスの宣伝中隊の父親に会いに来た、というストーリーを組んであるのだ。

 僕らはデンマークの組織の車に乗り、堂々と海岸近くのコテージに向かった。
 ここで「いかにも観光に来たドイツ人姉妹と日本人家庭教師」としてふるまい、夜になったら行動を開始するのだ。
 興奮を押さえながら、ニシンと豆スープの夕食をとり、コテージの管理人一家が整えてくれたベッドで少し休んだ。

 デンマークは元々、ヨーロッパの中においてユダヤ人差別の少ない国の一つだった。
 人種や宗教は違っても「同じデンマーク国民」として同じ教育を受け、一緒に遊び、職場でも同等だ。
 1940年4月のドイツによる占領下でもその精神は発揮され、披占領国でほとんど唯一、国を挙げてナチスからユダヤ人を逃がした国である。
 占領下とは言えデンマーク国民による陸軍と政府は存続を許され、役人や公務員もそのまま職に就いていた。ただしユダヤ人はドイツ本国同様徐々に権利と財産を搾取されていった。

 1943年、連合国の反撃が伝わると、呼応する形でデンマーク国内の労働者による破壊工作とストライキが起こり、全土に拡大したが、占領したナチスは他の土地のような大虐殺と言う手段には訴えなかった。
 1943年8月29日、占領ドイツ軍がより厳しい対抵抗活動の要求を突きつけると、デンマーク政府は抗議の総辞職を決行した。
 政権を引き継いだ占領軍政権がまず行おうとしたのは、他のヨーロッパ地域同様の「ユダヤ人問題における最終的解決」すなわち絶滅収容所や強制収容所への移送だった。
 同年9月28日、ナチスの政策に反対の意思を持つドイツ人外交官ゲオルグ・フェルディナンド・ドゥクウイツは、密かに自分が知りえたユダヤ人移送の情報をデンマークの地下抵抗組織に伝えた。
 デンマーク人たちは直ちに反応し、対向活動を始めた。
 当時デンマークに住んでいたユダヤ人は約8千人。
 そのほとんどの人々に声をかけ逃亡の手助けを始めたのだ。デンマーク人警官、役人、駅やバスなどの公共交通機関の職員も協力し、鉄道や車、歩いて海岸沿いに移動させた。
 普通の人々が自宅や病院、学校、教会を隠れ家として提供しユダヤ人脱出行に協力をしたおかげで、わずか3週間足らずでユダヤ人とその親戚約79000人近くが海岸線に移動した。
 そして漁師や船員たちがヨットやボート、漁船を使ってデンマークの海岸に彼らを運んだのだ。
 官民をあげての類を観ないユダヤ人脱出劇は戦後称えられることになる。
 ナチスの占領後期になっても脱出の手助けはぽつぽつと続けられ、僕たちが頼ったのはまさしく彼らの実行力だった。
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