第19話 美しい五月に(Im wunderschönen Monat Mai )
文字数 2,410文字
窓辺に青い菫の花が咲いている。
出窓に濃いグリーンのカーテンがかけられベッドにそそぐ日光を遮っていた。
時折り、取り換えた水差しを持ってくるアンナの足音が、静かな室内に響く。
けして広くはないがきちんと整えられた室内、掃除の行き届いた床やたたんで物入れにしまわれた清潔な洗濯もの。
ヅィンマンが運び込まれたアンナとオイゲンの「愛の巣」は、荒っぽい突撃隊員のねぐらからは想像できないほど、質素できちんと整えられた『ドイツ家庭らしい』部屋だった。
「治るまでいていいぞ。どうせ外は危ないし、俺もアンナも結構留守にするから、あんた一人くらい留守番猫が増えたと思っておくさ」
憎まれ口を忘れない若者は青い目を片方つむり、カバレットに出勤するアンナとキスを交わした。
「迎えに行こうか」
「そうね。11時ころにお願いするわ」
姉さん女房を送り出す若い夫婦といった風情だ。
実際「総統の仕事が落ち着いたら、俺は党に届け出を出して彼女と結婚するつもりだ」と照れながら漏らしていた。
演奏会の帰り道暴徒の襲撃を受けたイサーク・ヅィンマン助教授は、打撲の痛みがひくまで恋人同士の部屋に同居させてもらう羽目になった。
アンナは以前と変わらず夕方から深夜にかけて数軒のカバレットを掛け持ち出演していたし、オイゲンも下位ではあったが指導者として新たな突撃隊志願者の教育を担当していたので、二人とヅィンマンの想像以上に忙しかった。
突撃隊志願者はナチスが政権を取って以来爆発的なスピードで増えていた。
慌ただしい合間を縫って食事をし寛ぎ、ヅィンマンという闖入者がいないかのように愛を交わし合う若い男と女との生活は気恥ずかしくもあり、微笑ましくもあった。
「なるべく早く治して家に戻るようにするよ」
「ここが一番安全だと思うけどな」
「いや、独り身にとっては熱いスープ鉢の隅っこに居させてもらうのは辛すぎてね」
三人で笑っても折れたあばらに響くことは少なくなった。
ヅィンマンはそろそろ、出て来たままにしてきた家や、中に残してきた書きかけの楽譜や論文が心配になってきた。
数日後、オイゲンは上官に呼び出された。
「お前は何をしたんだ?」
と言いたげな直属上官(家に帰れば白い大きな犬と3人の大きなリボンをつけた娘に囲まれる父親だ) に送り出された先は、 シュレージエン副大管区指導者、 突撃隊上級集団「I」指導者エドムンド・ハイネス突撃隊大将のオフィスだった。
ベルリン・ブランデンブル大管区の建物は立派で、何人もの高位の突撃隊員が行き来している。
自分のような下っ端の隊員が大管区指導者本人に呼び出されることなど、万が一でもありえない。
だがその万が一だったら?
心当たりはある。
自分とアンナの『愛の巣』にかくまっている、恋人の師匠イサーク・ヅィンマンだ。
嗅ぎつけられたかと内心びくびくしながら精一杯胸を張り、オイゲン・ザックハイム突撃隊員は広い通路に立っていた。
ようやく執務室に呼ばれ目を上げると、金髪に青い目、ぬっぺりとした『少女面の』大管区指導者エドムンド・ハイネスが立っていた。
「さて手短に言おう。君は先日ベルリン警察に呼ばれて行ったそうだな」
オイゲンは思い出した。
アンナの本番の前、ベルリンの地区警察に呼ばれて警察庁舎に行ったのだ。
だが『そこで何を聞かれた?』とは尋ねられなかった。
口を開こうとすると先回りして
「君は1月30日夜の警官と我らの同士の射殺事件について、何か見なかったかと尋ねられたね」
「はい……」
若者の背を冷たい汗が伝った。
「そういう事はすぐに報告しないとな……なぜ隠していたんだね?」
「申し訳ありません。ついうっかり」
まあいい、と手で制しながらハイネスは立ち上がった。顔が小いのでよけい背が高く見える。
途端にオイゲンの左右から、屈強なボディガードの突撃隊員が近づき彼の腕を締め上げ、廊下に連れ出した。
弁解も懇願も意味を為さないことは分かっていた。小突かれながら下りる地下に通じる階段は、既に血と脂が黒くこびりついている。
「私もすぐ行くから、準備だけしておけ」
何をされるかは明白だった。
地下には自分達が好き勝手に連行したユダヤ人やデモの参加者、共産主義者などが詰問部屋に押し込められていた。
みな痩せこけ、破れた服から赤黒い傷口が覗き、生気のない亡霊のような目で『引き立てられていく突撃隊員』を見ている。
すぐに、オイゲンの放り込まれた房からも叫び声が聞こえてきた。
アパートのドアの外で何かが投げつけられたような音がして、アンナは立ち上がった。
歌手契約をしているカバレットのユダヤ人経営者が行方不明で営業停止になり、仕事も空いた彼女は、ベーコンの欠片の入った青豆のスープを煮ていた。
ずっと年下の恋人オイゲンはまだ突撃隊の事務所から帰って来ないし、ヅィンマン先生は体も大分回復し台所のテーブルで書き物をしている。
男2人との心穏やかな同居。だがアンナにはわかっていた。これが嵐の前の束の間の『凪』だという事も。
窓の外ではかつての労働者や組合のデモの声にかわり、ヒトラーユーゲントや恋人の属する突撃隊員たちの歌や掛け声が、ひっきりなしに聞こえている。
嵐は既に始まっているのだ。
「なにか、聞こえたね」
夢中で楽譜を書きなぐっていたヅィンマン先生も顔を上げた。表の物音にはお互い耳ざとくなってしまった。
「はい。でもあの一回だけで……」
確かにドスンと大きな物音が聞こえた。だがそれだけで、突撃隊や民間組織のドアを蹴る音や罵声が続かない。不気味なほど沈黙が続いている。
「私が見てきます。先生は隠れていてください」
アンナが立ち上がってドアの外をうかがう。低いうめき声と息遣いが聞こえる。嫌な予感がする。
ドアを思いきり開けるとそこに全身殴打の痕があり、頭から血を流したオイゲン・ザックハイムが倒れ込んでいた。
出窓に濃いグリーンのカーテンがかけられベッドにそそぐ日光を遮っていた。
時折り、取り換えた水差しを持ってくるアンナの足音が、静かな室内に響く。
けして広くはないがきちんと整えられた室内、掃除の行き届いた床やたたんで物入れにしまわれた清潔な洗濯もの。
ヅィンマンが運び込まれたアンナとオイゲンの「愛の巣」は、荒っぽい突撃隊員のねぐらからは想像できないほど、質素できちんと整えられた『ドイツ家庭らしい』部屋だった。
「治るまでいていいぞ。どうせ外は危ないし、俺もアンナも結構留守にするから、あんた一人くらい留守番猫が増えたと思っておくさ」
憎まれ口を忘れない若者は青い目を片方つむり、カバレットに出勤するアンナとキスを交わした。
「迎えに行こうか」
「そうね。11時ころにお願いするわ」
姉さん女房を送り出す若い夫婦といった風情だ。
実際「総統の仕事が落ち着いたら、俺は党に届け出を出して彼女と結婚するつもりだ」と照れながら漏らしていた。
演奏会の帰り道暴徒の襲撃を受けたイサーク・ヅィンマン助教授は、打撲の痛みがひくまで恋人同士の部屋に同居させてもらう羽目になった。
アンナは以前と変わらず夕方から深夜にかけて数軒のカバレットを掛け持ち出演していたし、オイゲンも下位ではあったが指導者として新たな突撃隊志願者の教育を担当していたので、二人とヅィンマンの想像以上に忙しかった。
突撃隊志願者はナチスが政権を取って以来爆発的なスピードで増えていた。
慌ただしい合間を縫って食事をし寛ぎ、ヅィンマンという闖入者がいないかのように愛を交わし合う若い男と女との生活は気恥ずかしくもあり、微笑ましくもあった。
「なるべく早く治して家に戻るようにするよ」
「ここが一番安全だと思うけどな」
「いや、独り身にとっては熱いスープ鉢の隅っこに居させてもらうのは辛すぎてね」
三人で笑っても折れたあばらに響くことは少なくなった。
ヅィンマンはそろそろ、出て来たままにしてきた家や、中に残してきた書きかけの楽譜や論文が心配になってきた。
数日後、オイゲンは上官に呼び出された。
「お前は何をしたんだ?」
と言いたげな直属上官(家に帰れば白い大きな犬と3人の大きなリボンをつけた娘に囲まれる父親だ) に送り出された先は、 シュレージエン副大管区指導者、 突撃隊上級集団「I」指導者エドムンド・ハイネス突撃隊大将のオフィスだった。
ベルリン・ブランデンブル大管区の建物は立派で、何人もの高位の突撃隊員が行き来している。
自分のような下っ端の隊員が大管区指導者本人に呼び出されることなど、万が一でもありえない。
だがその万が一だったら?
心当たりはある。
自分とアンナの『愛の巣』にかくまっている、恋人の師匠イサーク・ヅィンマンだ。
嗅ぎつけられたかと内心びくびくしながら精一杯胸を張り、オイゲン・ザックハイム突撃隊員は広い通路に立っていた。
ようやく執務室に呼ばれ目を上げると、金髪に青い目、ぬっぺりとした『少女面の』大管区指導者エドムンド・ハイネスが立っていた。
「さて手短に言おう。君は先日ベルリン警察に呼ばれて行ったそうだな」
オイゲンは思い出した。
アンナの本番の前、ベルリンの地区警察に呼ばれて警察庁舎に行ったのだ。
だが『そこで何を聞かれた?』とは尋ねられなかった。
口を開こうとすると先回りして
「君は1月30日夜の警官と我らの同士の射殺事件について、何か見なかったかと尋ねられたね」
「はい……」
若者の背を冷たい汗が伝った。
「そういう事はすぐに報告しないとな……なぜ隠していたんだね?」
「申し訳ありません。ついうっかり」
まあいい、と手で制しながらハイネスは立ち上がった。顔が小いのでよけい背が高く見える。
途端にオイゲンの左右から、屈強なボディガードの突撃隊員が近づき彼の腕を締め上げ、廊下に連れ出した。
弁解も懇願も意味を為さないことは分かっていた。小突かれながら下りる地下に通じる階段は、既に血と脂が黒くこびりついている。
「私もすぐ行くから、準備だけしておけ」
何をされるかは明白だった。
地下には自分達が好き勝手に連行したユダヤ人やデモの参加者、共産主義者などが詰問部屋に押し込められていた。
みな痩せこけ、破れた服から赤黒い傷口が覗き、生気のない亡霊のような目で『引き立てられていく突撃隊員』を見ている。
すぐに、オイゲンの放り込まれた房からも叫び声が聞こえてきた。
アパートのドアの外で何かが投げつけられたような音がして、アンナは立ち上がった。
歌手契約をしているカバレットのユダヤ人経営者が行方不明で営業停止になり、仕事も空いた彼女は、ベーコンの欠片の入った青豆のスープを煮ていた。
ずっと年下の恋人オイゲンはまだ突撃隊の事務所から帰って来ないし、ヅィンマン先生は体も大分回復し台所のテーブルで書き物をしている。
男2人との心穏やかな同居。だがアンナにはわかっていた。これが嵐の前の束の間の『凪』だという事も。
窓の外ではかつての労働者や組合のデモの声にかわり、ヒトラーユーゲントや恋人の属する突撃隊員たちの歌や掛け声が、ひっきりなしに聞こえている。
嵐は既に始まっているのだ。
「なにか、聞こえたね」
夢中で楽譜を書きなぐっていたヅィンマン先生も顔を上げた。表の物音にはお互い耳ざとくなってしまった。
「はい。でもあの一回だけで……」
確かにドスンと大きな物音が聞こえた。だがそれだけで、突撃隊や民間組織のドアを蹴る音や罵声が続かない。不気味なほど沈黙が続いている。
「私が見てきます。先生は隠れていてください」
アンナが立ち上がってドアの外をうかがう。低いうめき声と息遣いが聞こえる。嫌な予感がする。
ドアを思いきり開けるとそこに全身殴打の痕があり、頭から血を流したオイゲン・ザックハイムが倒れ込んでいた。