第84話 夏の夜の夢魔

文字数 2,290文字

 寝床の支度をしたエミールは、薄暗い電灯を消した。
 夏の川原に建つ作業小屋を兼ねた住居には、むっとした熱気がこもっているが、網戸一枚にして窓を開ければ、高地特有の風が入ってきて一息つける。
 アルプスからの雪解け水も治まったライン川は夏の休暇シーズンで、水音に混じって若者たちの歓声や花火の音が聞こえてくる。
 河川敷や土手に車を止め、大いに楽しんでいるのだろう。
 自分も遠い昔、あんなふうに仲間たちと肩を組み、手を携えて街中を駆け抜けた時があった。
 同じ楽譜を読み、声を出しては仲間の声に嫉妬し、言い争い、また練習に明け暮れた。
 だが、その後の時の流れが、自分と周囲を変えた。
 歌は、音楽は、宣伝と感化のための道具だ。
 人の心を動かすという芸術の価値はそのまま『道具としての価値』にすり替わった。
 それに気づいた時、彼は音楽の関心を失った。
 アメリカが持ち込んだジャズ、イギリスから来たロック、工場で働くポルトガル人の移民が歌うファド、そして学生たちが歌う反戦歌も、まったく心に響かない。
 朝鮮半島やキューバ、インドシナや中東で無辜の民が死んでいく。
 学生たちは大人たちに反発し、戦いの輪を断ち切れと迫っている。

 ああ、運が悪かったね
 そこで生まれて暮らしていたのが不幸だったね

 エミールはそう漠然と思うだけだ。

 それより自分自身のことが一番大事だ。
 昔の仲間の名前に惹かれて、ヅィンマン先生のレクイエムの演奏会に参加すると返事をしてしまったが、再び音楽に立ち向かえるのか。
 ミリヤナ以外にも生き残った仲間が参加しているかもしれない。
 彼らともし顔を合わせ、正体がばれてしまったら。
 元SDのユダヤ人収容所職員エミール・シュナイダーと見破られてしまったら。
 いったん収まった非ナチ化裁判は、近年また再開し『ナチ・ハンター』と呼ばれる奴らが市民生活に溶け込んだ、移送作戦に関わった元党員、収容所に関わった元職員を追求し裁判にかけているという。
 財産も後ろ盾も、何も持たない自分など、そんな奴らに捕まったら破滅だ。

 思いめぐらせたままベッドに入っても、エミールはろくに眠る事が出来なかった。
 コーヒーはやめているからカフェインのせいではないのに、悪夢にうなされ、安らかな眠りに入る事が出来ないのだ。
 見る夢は決まって一緒だ。
 ベルリン・ツォー駅の近くの古ぼけたアパートの屋根裏部屋で、若い自分はフランス人の恋人マリーと同棲している。
 オペラの練習がうまくいって、ご機嫌に長い階段を上り、最上階の部屋に戻る。
 出番が少なく一足先に練習を終えた、ソプラノのマリーが待っているはずだ。

「ただいまお嬢さん。『何て冷たい手だ。僕に温めさせて』」

 イサーク・ヅィンマン先生を中心とした『演奏会プロジェクト』で練習中の、オペラのアリアを口ずさみながら、彼はドアを開ける。
 そっと、節約のためにともしている蝋燭の炎が消えないように。
 ヒロイン・ミミに抜擢された恋人のマリーが、いつものはにかんだような笑顔で迎えてくれるだろう。

 ドアを開けると、煌々と電気がついている。
 しかも大勢の男たちの歓声も聞こえるではないか。
 何ごとだ。
 入り口で足が止まったエミールの目に飛び込んできたのは、両手で持ち上げられた女の白い尻。
 大勢の軍服姿の男たちに弄ばれるマリーの姿だ。
 破れた粗末な長椅子の上にうつぶせに押さえつけられ、スカートをたくし上げられ、前からも後ろからも突っ込まれている。
 さらに馬乗りになった男たちにむき出しの乳房を揉みしだかれ、尻の穴に銃を突っ込まれてかき混ぜられ、恐怖と苦痛に声も出せない。

「マリー……」

 ズボンをずり下げ、下卑た笑い声を上げていた男たちが、エミールの気配に気づき一斉にこちらを見る。
 その顔は、全員、親衛隊の制服を着た自分……エミール・シュナイダー。

 夢はそこで終わった。

 荒い息を整え月明りで鏡を見ると、映っているのは、後退した生え際に白髪が混じり、たるんだ顎と頬、瞼の下の皮も垂れ下がった小汚い中年男の顔。
 親衛隊の軍服を着て収容所や占領地を闊歩し、部下の『スラブ女への悪戯』を黙認し、ややもすれば面白がっていた若い自分ではない。

 戦争が終わり、エミール・シュナイダーは死んだ。
 周囲を裏切り、知り合いをガス室に送り、恋人を非占領地民見なして強姦し、捨てた。
 今の自分ハンス・エーベルトは、寄せて返す波が引いた後、地面に残されたゴミみたいなものだ。

 分かっている。
 自分は「あれは当時みんなやっていた」と思うことで生きている。
 いま、戦争は終わっている。
 ゼッキンゲンの街の家電屋で、通りがかりに見たテレビでも、ドイツは『戦後』を克服し経済的にも発展を遂げつつあると強調していた。
 その経済界でも、政治の世界でも、医療科学研究分野でも、かつてナチスに協力していた企業や個人が活躍している。

 なぜ、財産も故郷も身分も社会的立場も失った、自分のような弱い人間が、追い詰められ続けなくてはならないのか。
 イスラエルに連行され、裁判で全世界に晒された後処刑されたアドルフ・アイヒマンのように『ユダヤ人問題の最終的解決』計画に直接加わり、指示した側の人間なら責められても当然だが、自分は下っ端の一兵士で、命令されたからやったに過ぎないのだ。
 マリーを姦したのは、あれは、多少強引な『恋人同士のセックス』の範疇だ。

 エミールは、捕まりたくないと強烈に願っていた。
 その反面、楽になりたいとも思っていた。

 次の日、彼は職場に数日間の休暇を申し出、電車に乗った。
 行く先は、西ベルリン。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み