第32話 クリスマスのプレゼント1

文字数 2,040文字

「肩と乗馬ズボンの裾に埃が残っているよ」

 エミール・シュナイダーは棘のある声を上げた。
 薄茶の髪の痩せた女が、びくりと肩を震わせる。

「君は服のブラシかけも満足に出来ないのかい?」
「ごめんなさい。すぐやり直すわ」
「ボタンの糸が緩くなっているのも、直しておくように言ったよね」
「ごめんなさい。すぐ……」

 すぐに、すぐに、すぐに……!
 エミールは言葉尻を捉え、苦い思いで繰り返した。
 急いで、迅速に。
 従順な言葉だけは出てくるが、彼女マリーの家事は緩慢で、無駄な動きばかりが目につく。

「君がすぐやるのは、服を脱いで裸になることと、男を咥えこむことくらいなんだね」

 エミールは制服の手入れ具合をチェックし終わると、シャツを脱いだ。
 洗濯して、明日まで乾かして、しわひとつない状態にしなくてはならない。
 なのにこの、恋人のマリーの家事能力の低さと言ったらなんだ。
 せっかくナチ党員、しかも親衛隊員になったのに、現在の自分にふさわしい女とはとても思えない。
 今もあわてた不用意なブラッシングで、黒い制服にもっと埃をつけてしまい、しかも床に落としている。
 エミールはマリーのおどおどした手つきを見ながら舌打ちをした。
 なんでこんな下等な女と一緒にいるんだろう。
 肉体か?
 お前は、自分に対して罪の意識を抱いたまま、どんなに無茶なことをされても歯を食いしばって苦しそうに堪える、か細い女を攻め立てる事が楽しいのか?

「そうかもしれないな」

 エミールは長靴を脱いで履きなれた室内履きに替えた。
 靴の革も金具もピカピカにしておかないと。ベルトもボタンも徽章もだ。
 なのにこの、目の前の恋人は手際悪く、ますます状況をひどくしている。

「で、僕が口に入れるものは無いのかい? マダム」

 うろたえながらお湯を沸かし、コーヒーを入れてケーキを切る、機嫌をうかがうようなマリーの仕草を苦い思いで見つめた。

 マダムなんて呼びかけはしたが、彼女がそんな立場になれないのはとうに分かっている。
 親衛隊員はアーリア人、しかも北方系の女としか結婚できないのだ。
 祖母がマルセイユで生まれの南方系、父親もアルメニア系の移民のマリーは、フランス人という以上に結婚に対する障壁が高いのだ。
 これが北方フランス人やフラマン人だったら話はまた別なのだが。
 金髪碧眼、白い肌、健康で素朴な心と労働に耐えうる頑健な肉体。
 それが親衛隊員にふさわしい『理想的なゲルマン娘』だ。

 エミールにとってマリーは、ゆがんだ愛憎と性欲をぶつけられる無報酬の家政婦に他ならない。

 彼は幾度となく、上官や同僚から、貧相なフランス女となんか別れろと忠告された。
 ゲルマン人としての子孫を作れる女、結婚という形にとらわれずに子種を欲しがる女、理想的なドイツの妻、そして母になれる女をいくらでもあてがってやる。
 そう勧められた。
 そのたびにエミールは曖昧な笑みを浮かべてはぐらかし、ずるずるとマリーとの同棲を続けていた。
 別れるつもりはない。いつでも手を伸ばしてスカートをめくり上げ、下着を下ろして突っ込む。
 前の穴と後ろの穴でさんざん欲望を放出すると、床に倒れた女を蹴って転がす。
 だが普段は礼儀正しく、一緒にレコードを聞いたり、服を買うのに付き合ってやる。
 抱きたいときに抱き、罵りたいときに罵倒し、気が向いたら慰める。
 こんな便利な『穴』はない。
 愛してなんかいない。
 心の繋がりなんて求めていない。
 女が自分にそれを期待しているのは痛いほどわかる。
 マリーは自分にべったりだ。
 見離されたら自殺しかねないくらい頼り切っている。

「捨てないで、エミール。私が悪かったの」

 理由なく怒鳴られて、長時間直立不動で大声で罵られても、殴られて鼻血を出しても、髪をつかんで床に引き倒されても、服を裂かれて犯されても、彼女はエミールに寄りかかった。
 エミールもまた、上官がわざわざ家に来て他の女との交際を勧めても、別れなかった。
 ただ冷たく

『自分はただ一人の魂の女を探しているんです。それはこいつじゃありません』

 とマリーの面前で微笑んだ。
 彼女はただ青白い顔を俯けて、別の部屋の隅で膝を抱えている。
 誰のことなのか。
 それはエミール自身にもわからない。

 1941年待降節。
 エミール・シュナイダー国家保安本部曹長は、チェコの首都プラハに赴任の辞令を受けた。
『ユダヤ人移民中央局( Zentralstelle für jüdische Auswanderung in Prag)』への移動を命じられたのだ。
 この部署はチェコとモラビア地方を統治するベーメン・メーレン保護領を掌握する、国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒの管轄下にあった。
 上官クラスは妻子と共に赴任するのだが、エミールは当然のように一人で行った。
 マリーを気にかける時間がないこともないが、ベルリンで反社会勢力のユダヤ人たちと音楽活動をしてきた彼は、自分の身体と立場の保全を図るのに精いっぱいだ。
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