第15話 1933年1月 祭りの夜
文字数 2,859文字
ドイツ大統領ヒンデンブルクには嫌いな男がいた。
政界では『ちょび髭の伍長』(本当は上等兵) とやや軽んじて呼ばれるオーストリア生まれの男。アドルフ・ヒトラー。ナチス党党首である。
しかし政治家たちの中には、彼と彼の率いる『ごろつきたちの集団』ナチス党を、政権に闘争を仕掛ける社会党や共産主義の防波堤として使おうという意見もあった。
ヒンデンブルクは再三、ヒトラーを首相にした方がいいと意見されてきた。
老宰相にとって、ヒトラーは何をするかわからないごろつきの中でも特に危ない男であり、彼に母なるドイツの政権を任せるなどとんでもない事だった。
だが、そこで押し切ることができるほど彼は「生きて」はいなかった。
1933年1月28日。
政治の舵取りに失敗したシュライヒャーが首相を辞任した。
野党農村同盟やドイツ国家人民党から、外国との輸入関税に対する弱腰な態度を非難され、あげく市中での闘争を宣言され白旗を上げたのである。
二日後の1月30日。
フォン・パーペンがヒンデンブルク大統領を説得にあたった。ナチス党主のヒトラーを首相に祭り上げようというのだ。
老ヒンデンブルクは最後まで抵抗した。
だがフォン・パーペンはヒトラーをそこまで恐れるヒンデンブルクの意図を分かりかねた。
ミュンヘンで気勢を上げたならず者集団のトップ。少し権力を与えてやれば満足して野党過激派と潰し合いをしてくれるだろう。
政治の手腕なんて鼻から期待していない。
左派つぶしの戦闘要員として、自分の監視の下で働かせればよい。
「自分が副首相に着きますから」
フォン・パーペンはヒトラーとその仲間たちを猛獣使いのように御していけると思み、ヒンデンブルクの説得を続けた。
ついにヒンデンブルクは折れ、ヒトラーとナチス党の首脳陣が官邸に呼ばれた。
オーストリア生まれのちょび髭の貧相な男。アドルフ・ヒシラーはドイツの第〇〇代首相に指名された。
フォン・パーペンが副首相。他にもシュライヒャー内閣時代の閣僚が大勢を占め、ナチ党からは内務大臣としてヴィルヘルム・フリック、無所任大臣のヘルマン・ゲーリングとヒトラー含め3人だけの入閣であったし、一応保守連立政権で、6月までは続いた。
だがこの時すでに、悪名高き『全権委任法』を国会で通すことを認めさせていた。
たった3人だけの入閣。
だがナチス党員や彼等のシンパの市民たちにとってはついに待ち望んだ政権奪取であった。
ここまでくれば、あとはどうにでもやれる。
彼等はお祭り騒ぎのごとく湧きに湧いた。西はティアガルデンからシャルロッテンブルク、東はブランデンブルク門からアレクサンダー広場の先まで、ウンターデンリンデンは人々で埋まった。
ラジオからは繰り返し、興奮したアナウンサーが「新しい時代が来る」と叫び、ナチスシンパでもない一般の人々でさえ、これで多少なりとも生活が楽になるのではないかと希望を抱いた。
だが社会党()や共産党()、労働組合などいわゆる左派寄りの市民、さらにユダヤ人たちは、これから一層苛酷になる暴力の時代を予感した。
日が暮れたのち、首相官邸のバルコニーにヒトラーはじめ入閣したナチス党幹部、ヴィルヘルム・フリック、ヘルマン・ゲーリングが姿を現し、集まった支持者の熱狂的な歓呼の声に応えた。
夜になってもブランデンブルク門を中心に、ナチス党や関連組織の若者たち、突撃隊員によるたいまつ行列が道幅いっぱいに行なわれた。
列は長く、どこまでも長く、延々続いた。
歩道はナチス式敬礼(元はイタリア首相ベニト・ムッソリーニが国内に広めたローマ式敬礼だが)をする、シンパの市民で埋まった。
一般の市民はその熱狂的な列の外で、不安や不吉な興奮を覚えながら、それらを眺めていた。
22時半。
シャルロッテンブルク地区の南にある共産党の拠点に向かい、興奮した同地区の突撃隊員たちが挑発的なデモ行進を行った。
隊員たちは過激な雄たけびをあげ共産党員を罵り、嘲りの仕草を繰り返した。
激高して拠点となっている建物に侵入しようとするもの、窓やドアを破壊しようとする隊員たちもいる。
その沸騰寸前の隊列の警備に着いたのが地元の警察官、36歳のヨーゼフ・ツァウリッツであった。
ベルリナーシュトラッセ(ベルリナー通り)からウォールシュトラッセに入った、古い建物の真下に行列が差し掛かった時、鈍い音がシュプレキコールの間から聞こえた。
行列にぴったりついて歩いていたツァウリッツは、突然胸を押さえて倒れた。
警官の制服に空いた孔から、みるみる真黒な血が街路に流れ出した。
小さな銃声と共に、自分の前後左右の突撃隊員が、声を上げながら一瞬隊列を崩した。
続けて鈍い銃声がもう一発。
そして列の中から悲鳴と怒声。
何が起こったのか。襲撃されたのか。どこからか狙われていたのか、隊列のどこかで反対派と揉みあいでも起こって偶発的な発砲があったのか。
散り散りになりかけた若い隊員たちはすぐに一点めがけ駆け寄った。走る仲間たちの中で、突撃隊員オイゲン・ザックハイムは帽子を取り落としそうになった。
「撃たれたぞ」
「誰か医者を呼べ」
「隊長もやられた!」
もみくちゃにされ壁に押し付けられそうになり、仲間の腕や肘が当たるのを避けるため、顔を左右に振った。
その瞬間、建物の間の細い隙間に、入り込んだ人影が目に入った。
自分達の制服とよく似た茶色い服、長いブーツ。その上から黒っぽいコートを着こんだ男が体を横にして闇に紛れて立っている。
手に光るものが握られている。
それは、拳銃ではないか?
ハッと気がつき、男の立つ建物の隙間に自分も入りこみ、オイゲンは近づこうとした。
少しも怖くはなかった。
彼の姿を認めると、男は素早く顔を背け、消えた。
急いで近づき、同じ隙間に飛び込むと、怒声を上げて集まってくる応援の突撃隊ややじうま、地元の保安警察の人波しかいない。
逃げられてしまったか。
オイゲンは急いで撃たれた警官の元に戻った。
その夜、警官ヨゼーフ・ツァウリッツと、彼の近くに居た突撃隊指導者ハンス・マイコフスキーの二人が胸や腹部を撃たれ、ウエストエンド病院に担ぎ込まれた。
詰めかけたナチスの党員たちの圧力もあり、医師たちは全力で二人を救おうと手を尽くしたが、翌31日ツァウリッツとマイコフスキーは絶命した。
「帰還する突撃隊小隊、共産主義者の待ち伏せに合う」
「卑怯な闇討ちで隊員と有閑な景観が死亡」
ナチスの息のかかった新聞は、二人の死亡を大々的に取り上げた。
宣伝担当のゲッベルスは大々的なプロパガンダを企てた。
正当な方法で政権を委譲されたナチス党が、ならず者の共産主義者どもから狙われ死者まで出た。
これはドイツという国と体勢に対する非道なる犯罪行為である。
そして2月頭、二人の国葬を執り行うと宣伝した。
地元警官とSA(突撃隊)員。この二人はナチスによる暴力の、プロパガンダに利用された最初期の人達となったのである。
政界では『ちょび髭の伍長』(本当は上等兵) とやや軽んじて呼ばれるオーストリア生まれの男。アドルフ・ヒトラー。ナチス党党首である。
しかし政治家たちの中には、彼と彼の率いる『ごろつきたちの集団』ナチス党を、政権に闘争を仕掛ける社会党や共産主義の防波堤として使おうという意見もあった。
ヒンデンブルクは再三、ヒトラーを首相にした方がいいと意見されてきた。
老宰相にとって、ヒトラーは何をするかわからないごろつきの中でも特に危ない男であり、彼に母なるドイツの政権を任せるなどとんでもない事だった。
だが、そこで押し切ることができるほど彼は「生きて」はいなかった。
1933年1月28日。
政治の舵取りに失敗したシュライヒャーが首相を辞任した。
野党農村同盟やドイツ国家人民党から、外国との輸入関税に対する弱腰な態度を非難され、あげく市中での闘争を宣言され白旗を上げたのである。
二日後の1月30日。
フォン・パーペンがヒンデンブルク大統領を説得にあたった。ナチス党主のヒトラーを首相に祭り上げようというのだ。
老ヒンデンブルクは最後まで抵抗した。
だがフォン・パーペンはヒトラーをそこまで恐れるヒンデンブルクの意図を分かりかねた。
ミュンヘンで気勢を上げたならず者集団のトップ。少し権力を与えてやれば満足して野党過激派と潰し合いをしてくれるだろう。
政治の手腕なんて鼻から期待していない。
左派つぶしの戦闘要員として、自分の監視の下で働かせればよい。
「自分が副首相に着きますから」
フォン・パーペンはヒトラーとその仲間たちを猛獣使いのように御していけると思み、ヒンデンブルクの説得を続けた。
ついにヒンデンブルクは折れ、ヒトラーとナチス党の首脳陣が官邸に呼ばれた。
オーストリア生まれのちょび髭の貧相な男。アドルフ・ヒシラーはドイツの第〇〇代首相に指名された。
フォン・パーペンが副首相。他にもシュライヒャー内閣時代の閣僚が大勢を占め、ナチ党からは内務大臣としてヴィルヘルム・フリック、無所任大臣のヘルマン・ゲーリングとヒトラー含め3人だけの入閣であったし、一応保守連立政権で、6月までは続いた。
だがこの時すでに、悪名高き『全権委任法』を国会で通すことを認めさせていた。
たった3人だけの入閣。
だがナチス党員や彼等のシンパの市民たちにとってはついに待ち望んだ政権奪取であった。
ここまでくれば、あとはどうにでもやれる。
彼等はお祭り騒ぎのごとく湧きに湧いた。西はティアガルデンからシャルロッテンブルク、東はブランデンブルク門からアレクサンダー広場の先まで、ウンターデンリンデンは人々で埋まった。
ラジオからは繰り返し、興奮したアナウンサーが「新しい時代が来る」と叫び、ナチスシンパでもない一般の人々でさえ、これで多少なりとも生活が楽になるのではないかと希望を抱いた。
だが社会党()や共産党()、労働組合などいわゆる左派寄りの市民、さらにユダヤ人たちは、これから一層苛酷になる暴力の時代を予感した。
日が暮れたのち、首相官邸のバルコニーにヒトラーはじめ入閣したナチス党幹部、ヴィルヘルム・フリック、ヘルマン・ゲーリングが姿を現し、集まった支持者の熱狂的な歓呼の声に応えた。
夜になってもブランデンブルク門を中心に、ナチス党や関連組織の若者たち、突撃隊員によるたいまつ行列が道幅いっぱいに行なわれた。
列は長く、どこまでも長く、延々続いた。
歩道はナチス式敬礼(元はイタリア首相ベニト・ムッソリーニが国内に広めたローマ式敬礼だが)をする、シンパの市民で埋まった。
一般の市民はその熱狂的な列の外で、不安や不吉な興奮を覚えながら、それらを眺めていた。
22時半。
シャルロッテンブルク地区の南にある共産党の拠点に向かい、興奮した同地区の突撃隊員たちが挑発的なデモ行進を行った。
隊員たちは過激な雄たけびをあげ共産党員を罵り、嘲りの仕草を繰り返した。
激高して拠点となっている建物に侵入しようとするもの、窓やドアを破壊しようとする隊員たちもいる。
その沸騰寸前の隊列の警備に着いたのが地元の警察官、36歳のヨーゼフ・ツァウリッツであった。
ベルリナーシュトラッセ(ベルリナー通り)からウォールシュトラッセに入った、古い建物の真下に行列が差し掛かった時、鈍い音がシュプレキコールの間から聞こえた。
行列にぴったりついて歩いていたツァウリッツは、突然胸を押さえて倒れた。
警官の制服に空いた孔から、みるみる真黒な血が街路に流れ出した。
小さな銃声と共に、自分の前後左右の突撃隊員が、声を上げながら一瞬隊列を崩した。
続けて鈍い銃声がもう一発。
そして列の中から悲鳴と怒声。
何が起こったのか。襲撃されたのか。どこからか狙われていたのか、隊列のどこかで反対派と揉みあいでも起こって偶発的な発砲があったのか。
散り散りになりかけた若い隊員たちはすぐに一点めがけ駆け寄った。走る仲間たちの中で、突撃隊員オイゲン・ザックハイムは帽子を取り落としそうになった。
「撃たれたぞ」
「誰か医者を呼べ」
「隊長もやられた!」
もみくちゃにされ壁に押し付けられそうになり、仲間の腕や肘が当たるのを避けるため、顔を左右に振った。
その瞬間、建物の間の細い隙間に、入り込んだ人影が目に入った。
自分達の制服とよく似た茶色い服、長いブーツ。その上から黒っぽいコートを着こんだ男が体を横にして闇に紛れて立っている。
手に光るものが握られている。
それは、拳銃ではないか?
ハッと気がつき、男の立つ建物の隙間に自分も入りこみ、オイゲンは近づこうとした。
少しも怖くはなかった。
彼の姿を認めると、男は素早く顔を背け、消えた。
急いで近づき、同じ隙間に飛び込むと、怒声を上げて集まってくる応援の突撃隊ややじうま、地元の保安警察の人波しかいない。
逃げられてしまったか。
オイゲンは急いで撃たれた警官の元に戻った。
その夜、警官ヨゼーフ・ツァウリッツと、彼の近くに居た突撃隊指導者ハンス・マイコフスキーの二人が胸や腹部を撃たれ、ウエストエンド病院に担ぎ込まれた。
詰めかけたナチスの党員たちの圧力もあり、医師たちは全力で二人を救おうと手を尽くしたが、翌31日ツァウリッツとマイコフスキーは絶命した。
「帰還する突撃隊小隊、共産主義者の待ち伏せに合う」
「卑怯な闇討ちで隊員と有閑な景観が死亡」
ナチスの息のかかった新聞は、二人の死亡を大々的に取り上げた。
宣伝担当のゲッベルスは大々的なプロパガンダを企てた。
正当な方法で政権を委譲されたナチス党が、ならず者の共産主義者どもから狙われ死者まで出た。
これはドイツという国と体勢に対する非道なる犯罪行為である。
そして2月頭、二人の国葬を執り行うと宣伝した。
地元警官とSA(突撃隊)員。この二人はナチスによる暴力の、プロパガンダに利用された最初期の人達となったのである。