第1話:熱血科学者の結婚と子供誕生

文字数 1,584文字

 薄井淳一は、1932年6月生まれ。父が、学校の先生をしていた。太平洋戦争が、激しくなると、北関東の父の実家に疎開した。薄井淳一は、すでに、この5歳には新聞を読み、近くでは、神童と言われた。子供時代の成績は抜群、正義感が強く、学校での実験で透明な液体が化学変化で黄色くなるのに感動した。

 地元トップの高校を抜群の成績で卒業し、1944年に東大工学部化学科に合格し、1948年に卒業。大手化学企業に3年間勤務後、再びに東京大学大学院工学系研究科に戻り、応用化学専攻博士課程を修了。大手化学企業勤務時代、その企業の製品の製造過程で使われた水銀の廃棄にかかわっていた。

 そのため水俣病の有機水銀説に衝撃を受け、大学院生時代から水俣に足を運び、合化労連の機関紙に簡便竹刀「かんべんしない」のペンネームで連載した記事で、水俣病の問題を取り上げた。正義感の強い性格で、黙って、いられなかった。1959年、同じ会社の玉島君江と結婚。
その後、東大の助手となった。

 1960年7月、君江さんが長男の薄井富一を出産し産休で落ち着いた生活を始めた。しかし1965年が、新潟水俣病が発生。薄井淳一は、たまらず、実名で水俣病告発を開始した。そのため東大での出世の道は閉ざされ「万年助手」になった。当時、科学技術者の多くが、公害企業や行政側に立った「御用学者」の活動をしていると猛烈に批判した。

 薄井富一は、公害被害者の立場に立った視点を提唱し新潟水俣病の民事訴訟では弁護補佐人として水俣病の解明に尽力するなどの活動を展開した。1960年代後半、東大闘争の最も激しかった時期、WHO研究員としてヨーロッパに留学。帰国した1970年から公害の研究・調査結果を市民に直接、日本国民に伝えた。

 また全国の公害問題の報告を現場から聞く場として、公開自主講座「公害原論」を東京大学工学部82番教室で、夜間に開講。以後15年にわたって「公害原論」講座を続けた。そこで、公害問題に関する住民運動などをリードした。こうした活動は大学当局にとっては、非公認の活動であり、無視されていた。

 しかし、大学の外部からは、同じ時期に、都市工学科の助手だった中山純子と共に「東大工学科の良心」とみなされる事もあった。1974年の第10回参議院議員通常選挙に三里塚闘争の指導者である戸村一作が出馬すると小田実・浅田光輝らとともに「三里塚闘争と戸村一作氏に連帯する会」を発足させた。

 1976年、長男の薄井富一は、東京の中学を首席で卒業、日比谷高校に合格。薄井富一も父譲りの性格で、きつく、熱い人で、最後までやり通す根性の持ち主であり、父を誇りに思っていた。1979年、東京大学工学部化学科に入学。しかし、母に、父の様にはならないでと、説得されて1983年、武田薬品の研究助手となった。

 薄井富一は、自宅から自転車で東京駅へ行き、藤沢の武田薬品まで、約1時間かけて通い始めた。その後、母が、希望していたように平凡な社会人生活を過ごすために貯金をして、固い生活を始めた。しかし、あまりも味気ないので、何か刺激が欲しいと感じだした。そんな頃、同じ職場の横浜国大出身の吉村百合さんと親しくなっていた。

 その後、研究所の若手の友人達から厚木、大山へのトライブに誘われた。もちろん吉村百合さんと一緒で、男女2人ずつ4名で藤沢の研究所に朝10時過ぎに集合。池田益男の車に分乗し国道467号線を北上し大和から国道246号線に入り西に向かった。

 昼過ぎ、大山ケーブル駅近くの駐車場に車を止め車内で、買ってきた飲み物とおにぎり菓子パンとフライドチキンなどを食べた。そして、徒歩10分程の大山ケーブル駅からケーブルカーで、大山山頂駅に到着。そこから少し歩くと、立派な大山阿夫利神社下社があり、多くの写真を撮った。その後大山阿夫利神社本社に向け出発。
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