第27話:原発事故、油の輸送計画、計画停電

文字数 1,680文字

 しかし、その後、福島第二原発でのメルトダウンや発電建屋の爆発で、大量の放射能が、放出されたりして、福島県では、高レベル放射能のため退去命令が出た地区が、出現。その後、この東京電力福島第二原発事故が、3,5,10年以上も後を引くことになるとは、その当時、予想されなかった。

 その後、東日本大震災に、世界中から莫大な義援金が送られた。さらにボランティが、現地で復旧作業をする姿。有名人芸能人のボランティア活動も積極的に行われた。その他、あまり知られていないが、冬の東北の暖房用、自動車、バイクの燃料用の油が、極端に不足した。それを解決すべく立ち上がった鉄道マン達の努力が、報じられた。

 この様子を知った薄井富一は、まだまだ、日本人も捨てたものじゃないなと、感動した。この話を少し解説してみることにしよう。日本一の規模の製油所である横浜・磯子の日本石油製油所で、貨物列車に大量の油を乗せた。そして最初に北東北へ上越線で新潟へ行き、そこから日本海を北上して青森経由で盛岡まで送った。

ところが、南東北へ油を送るには、東北線、常磐線が、使えない。輸送会議でも議論が続けられ、新潟から磐越西線で、送るしか、他に方法ないと言う結論に達した。しかし、磐越西線は、急勾配と急カーブが連続する国内屈指の難ルート。非電化区間のためディーゼル機関車を投入する必要もあるなど多くの危険が、指摘された。

 そのためDD51ディーゼル機関を運転できるベテラン運転手を全国から探し出し、昔のSL
べテランOBを招集して、プロジェクトチームを組んだ。そして、悪戦苦闘の末、この難しい輸送計画を達成したのだ。成功したとき、運転手は、感激のあまり放心状態であったが、周りを囲む多くの報道陣、地元民から惜しみない拍手が起こった。

 これらの多くの人々の努力と熱意によって、冬の東北に希望の灯がともったのだった。日本人は、世界中を見渡しても、これほど、チームプレーに優れた民族は、いないのではないかと、薄井は、誇りに思った。その後、物資が乏しいときも商店の前に整然と並び、争いもなく買い物をする日本人を見て海外でも信じられないという驚嘆の声が上がった。

 その後も電力不足に対して、計画停電や放送の夜間中止など工夫をして、過ごしした。そうして2011年が終わり2012年を迎えた。この東日本大震災の募金として薄井の太陽光発電のグループ全体で、総額3億円を送った。その後、日本では、電力不足に対して、計画停電や放送の夜間中止など工夫をして過ごした。

 今回の電力不足で、以前にも増して太陽光発電を初めとした自然エネルギーの必要性が話題となった。このため薄井たちが訴えていた大きな倉庫、向上の屋上に太陽光パネルを付けて、最低でも自分たちの使う電力は、その太陽光でまかなうという気運が高まってきた。日本の大手企業、商店、コンビニでも太陽光発電のニーズが、高まってきたのだ。

そのため薄井富一たちは、手分けして、多くの事務所へ出向き、太陽光発電システムの宣伝を工事の交渉を進めた。人手が足りず、中途採用、理工系の学生のアルバイトを募集して、とにかく、できるだけ多くの顧客をまわった。その事業所にあった太陽光発電システムを提案していった。あまりに多くの仕事が舞い込んで、資金が枯渇しそうになった。そこで、クラウドファンディングという新しい投資方法で、事業に投資してくれる人達を募集し始めた。

 これが、想像以上に好評で、資金調達ができ、そこから得られた収入を資金提供してくれた人達に還元する方法で、多くのプロジェクトを展開した。そんな時、大型風力発電に投資してくれないかと、北海道、青森、秋田など海辺の自治体から要請が入った。

 しかし、ノウハウを知らない事とこれ以上リスクを大きくしたくないと言う事で、辞退した。この頃、東京電力福島第1原発では、放射能汚染水の貯蔵タンクで水漏れが相次ぎ、海への流出も判明。汚染水問題が深刻化する中、東京五輪招致で安倍晋三首相は「状況はコントロールされている」と発言。政府が対策の前面に立った。
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