第5話:東大から沖縄大学へ

文字数 1,622文字

 しかし、対面に、こだわる東京大学では、薄井淳一君の個人的な人気に対する風当たりも強いと聞いていると言い、こっちに来て、自由に研究をしないかと言われた。それを聞いて、本当にありがたい、言葉をかけていただき誠に恐縮ですと告げた。少し、お時間をいただいて、検討させてくださいと伝えた。

 いつ頃までに、結論が出るかと聞かれ、明後日には、お電話させていただきますと答えた。わかった、吉報を待っているよと言われた。その話を薄井淳一は、大学から帰っ来て、家族を集めてした。すると、奥さんが構わないけど、富一の長男と、また生まれてくるだろう子供の面倒を見なければならないから単身で、行って欲しいと告げた。

 それは、わかっていると言うと、それならOKよと、言われた。1986年4月、父は、沖縄大学に移動し、沖縄大学法経学部教授に就任し学生を教えることになった。沖縄の環境問題をはじめとして世界的な環境問題に取り組むとともに公害論の授業を担当した。息子の富一は、東京にいるより自由にやって良いと言われる上司の元の方が仕事がやりやすかった。

 これで沖縄行きが、決定。そして薄井は、1986年、21年間にわたった東大助手の職を辞した。3月31日、東大での退職金2千万円が支給され、父が、富一に、奥さんのお父さんの勤める証券会社で、株投資始めたいのかと聞くので、その通りと答えた。すると年利5%で1千万円貸すから増やしてみないかと言われ、お言葉に甘え、口座番号を教えた。

 1986年4月1日、朝の飛行機で那覇に飛び14時に到着したと連絡が入った。そして4月27日の夜に東京に帰ってくると父から電話が入り、夜19時過ぎに、帰ってきた。今、沖縄大学の職員寮に安い家賃で住んでると言った。数日後、証券会社から1千万円が入金されたと連絡が入った。

 8月15日金曜、早朝、証券会社から電話が入り、三井物産が上げ上げはじめで買いと言われ、290円で5千株、買いを指示。その晩145万円で買え残金が55万円となったと連絡が入った。すぐに、この情報を父の耳にも入れた。父は、夏休み中、赤ん坊の幸一を抱っこして、可愛がってくれた。5月6日昼までいて、沖縄に帰っていった。

 その年の7月末にも、再び、帰って来て8月20日まで休んで、沖縄へ帰った。その冬12月20日、2泊で、富一夫妻と母と幸一の4人で沖縄へ行った。母が、沖縄は、暖かいと喜んで、昼間は、ホテルで日向ぼっこして、昼寝をして休養していた。幸一は、初めて、プールに入っても、怖がらずに、気持ちよさそうにしていた。

 この幸一の笑顔みると、疲れが吹き飛ぶと祖父の淳一は、大喜びした。帰る時、寂しくなるから、空港まで送らないと淳一が述べた。それを察知したのか、幸一が、別れたくないという顔で、淳一の顔を見るので不憫になって空港まで送ってくれた。手を振るときには、祖父の目には、大粒の涙が流れていた。

 それを見ていた奥さんと富一夫妻ももらい泣きしハンカチで、しきりに涙を流した。しかし、飛行機が飛び立って、少しして、きれいなスチュワーデスさんが、幸一を見て、なんて、可愛いのでしょうと言い、頭をなでてくれると満面の笑みになった。その姿を見て、母の百合さんが、幸一って、変わり身が早いと言うと、笑いを誘った。

 そして、スチュワーデスさんが、かわるがわる、幸一の所に来ると、愛想を振りまき、まるでスター気分でいるのを見て、この子、もしかして、相当なプレイボーイになるかもと言うと笑いを誘った。沖縄から帰ってくると、東京の寒さが身に染みた。この年、年末、淳一は、仕事が溜まっていると言うので、帰ってこられず1987年を迎えた。

 新年のあいさつの電話をすると、5月の連休には、帰ると話していた。その後、1月7日、昭和天皇の逝去の知らせが日本中を駆け巡った。その天皇の逝去に対し喪に服して静かな正月となり、自粛ムードで、多くの行事が中止となった。
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