第6話:天皇崩御と薄井夢子誕生

文字数 1,621文字

 年号も昭和から平成と改名された。。4月28日の夕方には帰ると電話が入り、父、薄井淳一が、19時に、東京の自宅に帰ってきた。帰ってくると、乳母車を載せて、車で皇居近くへ両親と百合さんを送ってた。

 その後、自宅に車を置き富一も合流し皇居を散歩した。その後、家族で、皇居を散策した時、百合さんが体調が悪いと言った。そこで、タクシーで家に帰り、途中、母と一緒に産婦人科で診てもらうと、妊娠と分かった。その後、父は、5月5日に沖縄に戻った。

予定日は、1987年11月6日。その晩、祝賀会をして男たちは、新しい命に乾杯した。しかし、母は、百合さんの体調を心配して、飲み会の席に入らなかった。そして、百合さんの面倒を見てくれた。翌朝、母が、息子の富市に、仕事が終わったらすぐ家に帰って来て、百合さんの家事を手伝いなさいと言明され、富一も軽く了解と答えた。

 その他、6月、江副浩正リクルート元会長が政界に、未公開株譲渡を巡る贈収賄事件で逮捕・起訴された。7月には、国民的、大歌手の美空ひばりさんも陛下の後を追うように亡くなった。9月には、東京で、「地球環境保全に関する東京会議」が始まった。また、11月、海外では、東西に分断されていたベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが、再び、統一ドイツとなった。

 11月4日に、近所の産婦人科病院に入院して、女の赤ちゃんを産んだ。その後、自分の夢をかなえて欲しいと、薄井夢子と名付けた。大事をとって百合さんは、11月末まで産休を取った。この年、父が、冬休みをとって、東京に帰ってきた。1989年、忘年会と夢子誕生を兼ねたパーティーを12月29日に開催し夢子の誕生を祝した。

 そして正月を迎え、家族全員で初詣に出かけ、夢子の無事出産のお礼を言い、子供たちの健やかな成長と家内安全を願った。富一は、ちゃっかり、株での成功も願った。1990年1月4日、大発会の日の早朝、証券会社の義理の父からの電話で三井物産、1株、2千円で売りと言われた。そこで、全株を2千円で売りを指示し、売れたと午前中に電話が入った。

 その結果、税引き後利益5450万円となり残金合計5600万円となった。しかし、この話は、家族の誰にも話さないでいた。1月7日の朝、羽田空港へ行き那覇行きの飛行機で沖縄大学に帰り仕事を始めた。しかし、この年、幸一が、風邪をひき、39度、近い熱を出し、インフルエンザかもしれないと隔離部屋に入れて食事を差し入れた。

 近くの小児科医院にかかり苦い薬を処方してもらい飲んで運よく3日休んで、熱が下がった。この頃、幸一は、父の持ってるラジオ、ステレオを聞いたりしても音楽を聴くよりもメカに興味を持った。ラジオ、カセットレコーダー、ステレオは、どうして音が出るのかなど素朴だが難しい質問を父にした。それに対し、富一は、面倒がらず絵を描いて音が鳴る仕組みを教えた。

 洋楽を聞いては、日本語に訳してとか、多くの事柄に興味をした。そして3月になり近くの公立幼稚園に申し込んで4月から送り迎えのバスに乗って通いだした。お便り帳には、富一君は、なんにでも興味を持ってわかるまで教えてと言う好奇心旺盛が子供さんですと書いてあった。

 子供も大きくなってくるので、富一は、車を買い替える時、6人が楽に乗れ荷物も運べるハイエースを6月に購入。夏休み、父が沖縄から帰ってくると奥多摩のキャンプ場へ家族全員6人で買いそろえたキャンプ道具を持って出かけた。この時、子供たちは、大喜びし、はしゃいだ。その他、江ノ島に、海水浴に連れていき、泳ぎを教えた。

 すると幸一も夢子も夢中で、両親に補助してもらい一生懸命に泳いだ。帰りは、子供たちも両親も熟睡。奥さんだけが、富一の額の汗を冷たいタオルで拭いてくれた。そして、8月16日、父が、また、沖縄に帰っていった。涼しくなり、やがて、寒さがやって来て12月を迎え、今年は、富一家族と、母が、沖縄旅行へ行くことにした。
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