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文字数 2,340文字
――とは言え、すぐに動くかと言えばそんなことはなかったりして。
私が考える、反撃のために必要なものを全て揃えたその翌日。
土曜日はただぼんやりと過ごすことに決めていた。
反撃をする前の、英気を養うために行う最後の休憩というやつである。
……まぁ、明日以降の私が生きているかどうかわからなかったからというのも理由のひとつではあるけれども。
そんな風にのんびりと過ごして、日付が変わった翌日。
日曜日。
夜の八時を回ったあたりで、私は外着に着替えて家を出た。
金曜から土曜にかけて、深夜に刷った数百部の紙束を入れた鞄を持って、夜道を走る。
携帯の画面に表示した地図を元に、手近な家から順序よく紙束をポストに入れていく。
学区全部を回るのは流石に無理だが、可能な限り広い範囲を回るように心がけて、根気強く走り続ける。
――そうして、用意した資料が鞄の中から完全に無くなったのは、夜の十時を回ったあたりだった。
「……あー、きっつい」
家に辿り着いたのは十一時ちょっと前になった頃である。
外出時間は計四時間ほどになるわけだが――実質フルマラソンでもしていたようなものだ。へとへとだった。
「茜ちゃん、こんな時間までどこに行ってたの?」
玄関に座り込んで、靴を脱ぎながら息を整えていると、背後から声がかかった。母の声だった。
首を動かして後ろを見ると、母の心配そうな、ただちょっと怒っているような顔が見えた。
私はあははと小さく笑ってから、母に答える。
「ちょっと走ってきたんだ。最近運動不足だったから」
「……こんな時間にやらなくてもいいんじゃない?」
「人が居ると恥ずかしいからさ。どうしても夜になっちゃうんだよ。
……でもまぁ確かに、今日は流石に遅くなりすぎた。久々だから時間の感覚忘れちゃってたんだよ。おかげでもうへとへと。
次からは気をつけるから、今回は大目に見てくれるとうれしいなぁ」
「……茜ちゃんは女の子なんだから、気をつけないとダメよ」
「うん、わかってる。ごめんなさい」
「わかってるならいいけど。――とりあえず、早くお風呂に入っちゃいなさい」
「わかった。一度部屋に戻って着替えを取ってくるよ」
言って、自分の部屋に戻る。
証拠写真、映像と音声の各データが入ったUSBメモリ、今日配った記事と関わった人間のリストをそれぞれ三つずつ用意して、それぞれを一セットにまとめて封筒に入れる。
そして、それらを机の上に重ねて置いた後で、用意しておいたメモを別な封筒に入れて、資料を入れた封筒の上に重ねた。
最後に用意した封筒は両親宛の伝言だ。
「……やらなくてもよさそうなのはわかってるんだけどなぁ」
そう呟いてから吐息を吐くと、下着の替えと寝巻きを出し、机の引き出しからメスを持ち出して風呂場に向かった。
「今からお風呂入るねー」
リビングに居るだろう母にそう告げて、脱衣所に入り。
汗だらけの外着と下着を脱いで脱衣カゴに投げ入れてから、風呂場に入る。
給湯器の電源を入れて、シャワーのハンドルを開く。お湯が出たのを確認してから、頭から被った。
「…………」
ざあざあと頭に当たったお湯が体のあちこちに流れていく感覚をただ無心に味わいながら、大きく息を吐く。
シャワーのハンドルを閉めてお湯を止める。
そして、持って入ったメスの刃を眺めた。
……本当にやっていいの? やれば後戻りは出来ないよ?
弱気の虫がまたぞろ頭をもたげて、そう告げる。
――知るか、クソッタレ。
頭を過ぎった言葉にそう返して、奥歯を噛んで、感情を噛み殺しながらメスの刃を手首に走らせた。
ちくりと痛みが走る。
「――っ」
痛みに遅れて、赤い雫がふつふつと湧いてくるのが見えた。
足りない。これじゃただのためらい傷だ。
もう一度メスを振る。足りない。振る。足りない。足りない。振る。まだ足りない。もっと、もっと傷が要る。
もっと、もっと――!
そうやって何度もメスを振った結果として、やがて雫は筋となり束となって溢れ出した。
流れ出る血の勢いが思ったより凄くて、再び弱気の虫が頭の中で呟いた。
……もういいんじゃない?
――まだ足りない。これじゃ、ただの自傷だ。
メスを慎重に構えて、手首の皮を大きく切る。
切った皮に指を入れて、傷口を開いた。
……痛い。痛い。痛い。痛い!
がんがんと頭に痛みが走る。涙が出る。歯を食いしばる。開いた口端からよだれが垂れる。
それでも続ける。
血でよく見えない手首の中をかき回して、筋繊維を避けて、押し広げて、動脈に触れる。
「うぇ、あぐ……っ!」
痛みが積み重なって限界を超えて、吐いた。膝から床に崩れる。かろうじて吐いたものが傷にかかるのは防いだ。代わりに顔や口の周りがべったりと汚れたけど。
構わない。だから風呂場を選んだのだ。
傷口からいったん指を離して、メスをまた握る。刃を慎重に潜り込ませて刺した。
溢れる血の量が更にに増える。
どくどくと、鼓動にあわせて流れている血を見て笑う。
――何やってんだろ、私。
痛みか後悔か絶望か。理由はわからないけれど、いつのまにやら流れていた涙で視界がぼやけていた。
アホなのはわかっているし、自分でやったことではあるが――やっぱり死ぬかもしれない行為は怖いと、そう思ってしまって。
反射的に二の腕の付け根を握った。
それでも流れる血の量は変わらない。
このまま死ぬ? 怖い。寒い。力が抜ける。怖い。怖い。意識が遠のく。
――怖い。
「――ああホントに、バカだよなぁ私」
意識が飛んだ。