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文字数 3,103文字
案の定と言うべきか、課題を片付けるのには手間取った。
しかし、思った以上に時間を使ってしまったせいで焦ってしまって、予習を進めるのにもまた手間取り――結局、終わらせようと思ったものを全部は終えられないまま、タイムアップが訪れたのは完全に想定外だった。
タイムアップとはすなわち、完全下校時刻のことであり――図書室の閉室時間になってしまったということでもある。
この時間になると、カウンターにいる司書が図書室内を歩き回って残っている人間を追い出そうとしてくる。とりあえず直接的に出て行けと怒鳴られることはなかったけれど、無言の圧力というのは言葉以上に強制力があるものだ
残っているのが誰であろうと、司書は分け隔てなく視線を寄越す。
はよ出て行け、と。
その視線に追い立てられるように、急いで荷物をまとめて図書室を出た。
顔見知りとか言ったのは誰だ。――私か。
どうやら向こうからの認識だと、そこまでは至っていないらしかった。
まぁ、それがわかったところで悲しむことなど何も無いのだが。
「これからは会釈なしで入れるかな」
気遣いをする相手が減るのはいいことだ。
そして、それだけの話である。
●
さて、いつもなら図書室から直接下駄箱に向かうのだが、今日は事情が違った。
と言っても、大した用事があるわけでもなく、単に教室に忘れ物をしただけである。
学生生活を続けていればよくあることだ。
同時に、しない方がいいことでもあるのだけれど――やってしまったものは仕方が無い。
今回忘れたものは、国語の教科書だった。
正直予習の必要性をほぼ感じない教科ではあるけれど、復習をするためにはノートだけだと非効率に過ぎる。加えて、今日は予定していた作業量を終えられていない。それには当然、国語の内容も含まれているのだから、取りに戻る以外に選択肢はなかった。
図書館から自分の教室への移動は特に問題なかった。
この短い距離で問題があるほうがおかしいのだが。あえて問題と表現するべきことがあるとすれば、それは教室の扉の鍵が閉まっているかどうかという点だけだろう。
私の学校ではクラスの戸締りは宿直の教員が行うことになっていて、鍵の管理はその教員が行うわけだけれど。
その宿直は一人でやっているわけもなく、持ち回りでやっているわけだから、鍵が閉まるタイミングもまちまちなのだ。正直、どのタイミングで鍵を閉められるのかは予想がつかなかった。
はてさて、今日はどうだろうか。
そんな風に考えながら、辿り着いた教室の扉に手をかける。
「……お、開いた」
今日はどうやら、まだ戸締り前であったらしく、教室には容易に入ることができた。もし鍵がかかっていれば教科書を取るのは難しかったのだが、簡単に解決してよかったよかった。
教室に入り、電気を点ける。
眩しさに一瞬目がくらんだものの、すぐに慣れて視界がはっきりしてくる。視界が明瞭になったところで自分の席に向かい、机の中を漁った。
置き勉――教科書類等を自分の席や教室のあちこちに置いたままにしておくことだ――はしない主義であるため、机の中はすっかすかで、だから、探し物はすぐに見つかった。
てーれってれー。佐藤茜は国語の教科書を手に入れた。
「……面白くないな」
溜息を吐いて、自嘲の笑みも付け足しながら、教科書を自分の鞄に詰める。
そして、念のために、更なる忘れ物がないことを確認するために、机の周囲を再度見て回る。
……うん、大丈夫。問題なし。
そう結論付けてから席を離れて、電気を消してから教室を出る。
目が明るさに慣れたせいかもしれないが――廊下に落ちる暗闇は、教室に来る前よりもいっそう濃くなっている気がした。
目の前にある薄暗闇に不気味さを感じてしまってほんの少しだけ不安が過ぎったものの、気のせいだろうと、そう断じてから歩き出す。
明るい場所に目が慣れた後で暗いところに行けば、そう感じるのも当たり前なのだ。
……舞台としては、確かに整っているのかもしれないけどね。
学校という場所。
放課後という状況。
そして、逢魔が時という時間。
確かに、物語であれば何かが起こっても不思議ではない環境ではある、かもしれない。
しかし、それは現実では有り得ないことだ。
今日は思ったとおりに事が運ばなくて疲れているから、そんなことを考えてしまったのだろうと――そう考えたと同時に。
「……っ!?」
肌がぞわぁっと粟立った。
直感が忠告を寄越す。なにかいる、と。
私は思わず周囲に視線を巡らせる。
……なに? なにが見てるの?
わからない。教師だろうか。
でも教師だったらこんな風には――身の危険を感じるような視線を向けてきたりはしないのではないか。
……本当に何かいるの? 気のせいじゃないの?
わからない、わからない。
だって、暗いし、どこから見ているのかだってわかりはしないんだ。――本当かどうかなんてわかるもんか!
「…………」
こわい。こわい。こわい、こわい、こわい。なにこれ、なんだこれ。
ああもう、誰か居るならさっさと出てきてよ。それで安心させてよ。でも、変質者とかが居るんだったら勘弁してほしいですマジで。
なぜだか全く消えてくれない不安と焦燥感に、耐え切れなくなった思考が暴走し出してそんなことを考えたところで。
脇腹の辺りに衝撃を感じた。
――最初に感じたのは熱。
熱い。なにこれ。え?
――次に感じたのは、中身が触られる壮絶な違和感。吐き気。気持ち悪さ。
やだ、やだ、何これ、何なんだこれ!
――次に感じたのは、中身が外に引っ張られそうにな――
その決定的な何かを感じた瞬間。
頭の中が真っ白になった私は、私に突き刺さったそれを、自分の手がどうなるかも厭わずに携帯していたピアノ線を巻きつけて切断した。
よくわからない何かが出した理解できない音が聞こえたところで、ふっと正気が戻ってくる。
意識が沸騰して真っ白になったときには感じなかった腹部と手の痛みが認識できるようになってしまって、その痛みに思わず泣いた。腹部は特に熱くて、痛くて、泣き叫んでいた。もう痛すぎて訳がわからなくなりそうだった。
おなかをさわる。べっちゃりと手がぬれる感触があった。
それがいったい何なのかは考えたくなかったけれど。
身体に段々と力が入らなくなっていく感覚と、意識が薄く後ろに引っ張られるような感覚は確かにあって。
ああ、このままだと死んでしまうんだって、そう思ってしまった――まさにそのときに。
「大丈夫か!? 助けに――」
そんな風に、自分に呼びかけるような声が聞こえた。
それが幻聴なのかそうでないのか、私にはもう判断する気力も残っていなかったけれど。
ただ、一言目があまりにも論外だったのでぶち切れた。
「これを見て大丈夫に見えるか!? だったらその両目は節穴だから眼科に行け! でもその前にとりあえずどっちからでもいいからなんとかして!!」
「――わ、わかりました!」
「ああ、でも……」
叫びに返答があった気はしたけれど、もう考える力は残ってない。
……どうせならこっちからどうにかして欲しいなぁ。
死にたくないんだ。死にたくない、死にたくない、死にたくない。
「しにたくない」
「……死なせませんよ。死んでもらっても困りますから」
そしてそんな誰かの声を聞いた直後に、私の意識は落ちた。
しかし、思った以上に時間を使ってしまったせいで焦ってしまって、予習を進めるのにもまた手間取り――結局、終わらせようと思ったものを全部は終えられないまま、タイムアップが訪れたのは完全に想定外だった。
タイムアップとはすなわち、完全下校時刻のことであり――図書室の閉室時間になってしまったということでもある。
この時間になると、カウンターにいる司書が図書室内を歩き回って残っている人間を追い出そうとしてくる。とりあえず直接的に出て行けと怒鳴られることはなかったけれど、無言の圧力というのは言葉以上に強制力があるものだ
残っているのが誰であろうと、司書は分け隔てなく視線を寄越す。
はよ出て行け、と。
その視線に追い立てられるように、急いで荷物をまとめて図書室を出た。
顔見知りとか言ったのは誰だ。――私か。
どうやら向こうからの認識だと、そこまでは至っていないらしかった。
まぁ、それがわかったところで悲しむことなど何も無いのだが。
「これからは会釈なしで入れるかな」
気遣いをする相手が減るのはいいことだ。
そして、それだけの話である。
●
さて、いつもなら図書室から直接下駄箱に向かうのだが、今日は事情が違った。
と言っても、大した用事があるわけでもなく、単に教室に忘れ物をしただけである。
学生生活を続けていればよくあることだ。
同時に、しない方がいいことでもあるのだけれど――やってしまったものは仕方が無い。
今回忘れたものは、国語の教科書だった。
正直予習の必要性をほぼ感じない教科ではあるけれど、復習をするためにはノートだけだと非効率に過ぎる。加えて、今日は予定していた作業量を終えられていない。それには当然、国語の内容も含まれているのだから、取りに戻る以外に選択肢はなかった。
図書館から自分の教室への移動は特に問題なかった。
この短い距離で問題があるほうがおかしいのだが。あえて問題と表現するべきことがあるとすれば、それは教室の扉の鍵が閉まっているかどうかという点だけだろう。
私の学校ではクラスの戸締りは宿直の教員が行うことになっていて、鍵の管理はその教員が行うわけだけれど。
その宿直は一人でやっているわけもなく、持ち回りでやっているわけだから、鍵が閉まるタイミングもまちまちなのだ。正直、どのタイミングで鍵を閉められるのかは予想がつかなかった。
はてさて、今日はどうだろうか。
そんな風に考えながら、辿り着いた教室の扉に手をかける。
「……お、開いた」
今日はどうやら、まだ戸締り前であったらしく、教室には容易に入ることができた。もし鍵がかかっていれば教科書を取るのは難しかったのだが、簡単に解決してよかったよかった。
教室に入り、電気を点ける。
眩しさに一瞬目がくらんだものの、すぐに慣れて視界がはっきりしてくる。視界が明瞭になったところで自分の席に向かい、机の中を漁った。
置き勉――教科書類等を自分の席や教室のあちこちに置いたままにしておくことだ――はしない主義であるため、机の中はすっかすかで、だから、探し物はすぐに見つかった。
てーれってれー。佐藤茜は国語の教科書を手に入れた。
「……面白くないな」
溜息を吐いて、自嘲の笑みも付け足しながら、教科書を自分の鞄に詰める。
そして、念のために、更なる忘れ物がないことを確認するために、机の周囲を再度見て回る。
……うん、大丈夫。問題なし。
そう結論付けてから席を離れて、電気を消してから教室を出る。
目が明るさに慣れたせいかもしれないが――廊下に落ちる暗闇は、教室に来る前よりもいっそう濃くなっている気がした。
目の前にある薄暗闇に不気味さを感じてしまってほんの少しだけ不安が過ぎったものの、気のせいだろうと、そう断じてから歩き出す。
明るい場所に目が慣れた後で暗いところに行けば、そう感じるのも当たり前なのだ。
……舞台としては、確かに整っているのかもしれないけどね。
学校という場所。
放課後という状況。
そして、逢魔が時という時間。
確かに、物語であれば何かが起こっても不思議ではない環境ではある、かもしれない。
しかし、それは現実では有り得ないことだ。
今日は思ったとおりに事が運ばなくて疲れているから、そんなことを考えてしまったのだろうと――そう考えたと同時に。
「……っ!?」
肌がぞわぁっと粟立った。
直感が忠告を寄越す。なにかいる、と。
私は思わず周囲に視線を巡らせる。
……なに? なにが見てるの?
わからない。教師だろうか。
でも教師だったらこんな風には――身の危険を感じるような視線を向けてきたりはしないのではないか。
……本当に何かいるの? 気のせいじゃないの?
わからない、わからない。
だって、暗いし、どこから見ているのかだってわかりはしないんだ。――本当かどうかなんてわかるもんか!
「…………」
こわい。こわい。こわい、こわい、こわい。なにこれ、なんだこれ。
ああもう、誰か居るならさっさと出てきてよ。それで安心させてよ。でも、変質者とかが居るんだったら勘弁してほしいですマジで。
なぜだか全く消えてくれない不安と焦燥感に、耐え切れなくなった思考が暴走し出してそんなことを考えたところで。
脇腹の辺りに衝撃を感じた。
――最初に感じたのは熱。
熱い。なにこれ。え?
――次に感じたのは、中身が触られる壮絶な違和感。吐き気。気持ち悪さ。
やだ、やだ、何これ、何なんだこれ!
――次に感じたのは、中身が外に引っ張られそうにな――
その決定的な何かを感じた瞬間。
頭の中が真っ白になった私は、私に突き刺さったそれを、自分の手がどうなるかも厭わずに携帯していたピアノ線を巻きつけて切断した。
よくわからない何かが出した理解できない音が聞こえたところで、ふっと正気が戻ってくる。
意識が沸騰して真っ白になったときには感じなかった腹部と手の痛みが認識できるようになってしまって、その痛みに思わず泣いた。腹部は特に熱くて、痛くて、泣き叫んでいた。もう痛すぎて訳がわからなくなりそうだった。
おなかをさわる。べっちゃりと手がぬれる感触があった。
それがいったい何なのかは考えたくなかったけれど。
身体に段々と力が入らなくなっていく感覚と、意識が薄く後ろに引っ張られるような感覚は確かにあって。
ああ、このままだと死んでしまうんだって、そう思ってしまった――まさにそのときに。
「大丈夫か!? 助けに――」
そんな風に、自分に呼びかけるような声が聞こえた。
それが幻聴なのかそうでないのか、私にはもう判断する気力も残っていなかったけれど。
ただ、一言目があまりにも論外だったのでぶち切れた。
「これを見て大丈夫に見えるか!? だったらその両目は節穴だから眼科に行け! でもその前にとりあえずどっちからでもいいからなんとかして!!」
「――わ、わかりました!」
「ああ、でも……」
叫びに返答があった気はしたけれど、もう考える力は残ってない。
……どうせならこっちからどうにかして欲しいなぁ。
死にたくないんだ。死にたくない、死にたくない、死にたくない。
「しにたくない」
「……死なせませんよ。死んでもらっても困りますから」
そしてそんな誰かの声を聞いた直後に、私の意識は落ちた。