第1話 @The END

文字数 14,297文字



 破壊されつつある世界を救おうとする人類の努力は失敗した
 夜明け前がもっとも暗い
 その時、少年と少女の出会いが新宇宙を産み出す

第1話 @The END



 赤い、赤い、その夜は赤き月。

 新宿のビル風が来栖(クルス)ミカのロングツインテールの黒髪をもてあそぶ。髪の毛の中に、白い卵型の顔が見え隠れしている。
 紺のブレザーの制服姿のミカは、都庁隣の高層ホテルの屋上で仰向けになったまま大の字で眠り続けている。
 やがて髪の毛にくすぐられ、ミカは眼を覚ます。
 二〇一二年十一月十五日の、午後十時四十分だった。
 強い風が心地よかった。地上の光の反射で白く輝いた雲が、夜空を猛スピードで滑空していく。真っ赤な満月が摩天楼街の渓谷に浮かんでいる。ミカは仰向けのまま、顔を横に向け、隣のゴシック建築の都庁のツインタワーに目をやる。ビル全体的がボウッと青味がかった白色光の炎に包まれていた。ライトアップとは違うと分かる。ビル全体が、ミカが今まで見た事がない輝きで発光していた。照らされているのではない。船乗りが目撃するという夜霧の海の発光現象、セントヱルモの火に似ていた。ミカはそのままじっと空を見上げた。赤い月と青白く輝く摩天楼。今夜の新宿の景色は普段と違う。
 台風が過ぎた直後で、カラッとした空気は肌に心地よく感じる。昼間のしけった空気はみんな台風が持っていった。雲の動きは早く、ときおり赤い満月が見え隠れする。まるで生き物のように変化していく雲は、地上からの光に照らされて白く輝いている。その形は見れば見るほどどんどん変容する。ミカは飽きずにいつまでも景色を見上げている。
 西新宿の摩天楼街は、新宿駅前と違って人通りが少ない。いつも静寂が支配している。ここはミカのお気に入りの、世界で一番美しい場所だ。夜の都庁は、ミカにとっての聖地。以前から、ミカはよく都庁の隣のこのホテルの屋上に侵入して、都庁舎を見上げていた。どんなに辛い事があってもこの場所に来ると忘れることができた。最悪な出来事の直後でも、ここに来れば他とは違う空気を感じられ、悩んでいた事がどうでもいいつまらない出来事のように次第に小さくなって消えてしまうのだった。夜の摩天楼街は、いつでもミカを迎え入れ、優しく抱いてくれる。
 ミカは上体を起こして、制服のミニスカートを押さえ、体育座りをする。真っ赤で巨大な満月をじっと見る。まるで血のような赤さだ。ルビーの中でも、もっとも色が濃く、最上級と言われるピジョンブラッドの色。ビルに切り取られた夜空に、煌々と輝く血のように赤い満月が雲間に現れては隠れる様は、次第に月の方が滑るようにダンスしているように見えていった。ミカはしばらく赤い月が織りなすダイナミックな夜空のスペクタクルを眺めていた。新宿のカラスが鳴きながら群れをなしてルビー色の満月を横切っていく。
 ミカは、どこか奇妙な今夜の新宿副都心の夜景を、ただ目に映った映像として観察した。その意味するところは考えない。憔悴しきった自分の心を、その華奢な体で抱き止めているだけで精いっぱいだったためだ。
 空を見上げたあどけない横顔に、強烈な意思が宿るアーモンド型のくっきり二重の瞳がかすかに濡れ、口を開けば引かない、自己主張の強さを象徴する小さな唇はしっかりと結ばれたまま。白目が、青いほどに白い。後ろ髪のあるタイプのツインテールが風で柔らかくそよぎ、左側寄りで分けられた前髪は、少しおでこが出ている。
 自分の自慢であり、誇りだった腰まである黒いロングツインテール。
 大嫌い。
 ずっと気に入っていたアーモンドアイズ。
 大嫌い。
 幼さを体現した自分の顔。
 大嫌い。
 華奢な体つき。
 みんな嫌い。
 来栖ミカは大人の服が似合わない。何よりアニメキャラみたいな可愛くて高い自分の声が、大大、大っ嫌い。ミカの全ては今や、コンプレックスに反転し、自分の誇りの全てが、ミカを苦しめさいなんでいる。そう、全部、何もかも自分の子供っぽさの表れであり、それが許せない。
 何もかも、どうでもいい。全ての物事に対して立ち向かおうという、気力が失せきった。生きる意味さえもはやない。
 昼間、学校の音楽ホールを飛び出してから、どこをほっつき歩いたのか。そんなこと、まるで思い出せない。家には帰らず、制服姿のまま、最終的に電車を乗り継いで夜の新宿に辿り着いたらしい。ここへ来るまでに、人込みにドサドサと体をぶつけながら歩いていると、次々とカップルが眼に飛び込んできて、その都度ミカの胸に鋼鉄製の杭がグサグサ突き刺さった感覚が、未だに残っている。都庁の隣のホテルの屋上に忍び込み、いつの間にか眠ったらしい。そして今、さまよい続けるミカの視線は、ホテルの屋上から都庁を眺めている。
 ミカは周囲に林立する高層ビル群に抱かれて、うずくまった。夜の新宿摩天楼街だけが、今の来栖ミカを支えているのだろう。
 ミカは立ち上がり、屋上の縁に立った。下界の路上を行き来する車や人が小さく見えた。下から吹き上げるビル風が制服のスカートを舞いあげるのを押さえて、再びピジョンブラッドの満月にピントを合わせた。
 鮮血を掛けたように真っ赤に染まった満月。
ミカは口を結んだ無表情で、縁に立ったまま、ゆっくりと両手を水平に広げた。まるで、空を飛んでいるみたいに。

 背後の屋上の重い扉が開く、ゴン、という金属性の低い音が聞こえた。
「ミカちゃん」
 愛染(アイゼン)ユキヱの声がする。ミカがギョっとして振り向くと後ろに幼馴染の同級生が立っていた。肩までの髪を無作為に後ろで二つに束ね、前髪でいつも顔を隠している来栖ミカの幼馴染みだ。白いタートルネックのサマーセーターに、赤いチェックのスカートを履いて、いつもの丸い眼鏡を掛けている。眼鏡の向こうには、はっきりした眉と目じりが少々上がった大きな目がある。だが、どうにもあか抜けない。
 ミカはずっと、ユキヱからの着信音を無視し続けていた。携帯のGPSを使ったナビゲーション機能で追ってきたことに気付いた。ユキヱは、ミカが新宿のホテルの屋上がお気に入りの場所である事を知っている。ここに居るのを見つけられる可能性はあった。それなのに、すっかり電源を切るのを忘れていた。
「死ぬつもり? ミカちゃん、人生最大のショックを受けてるのは凄く分かるけど」
 ユキヱはその愛らしい大きな目を不安げにキョロキョロと動かしながら、ミカに語りかける。
 ユキヱから見ると、ミカは今にも飛び下りそうだ。だから、ユキヱが必死になって説得しようとするのは当然だろう。だが、ミカは自殺するつもりはなかった。ただ新宿の街を見下ろしていただけだ。もっともこれでは誤解されても仕方がないかもしれないが。ミカは、あたかも自殺しようとしている格好の自分をユキヱに見られたことが恥ずかしかった。ミカはムッとした顔でユキヱに向き合い、ユキヱを睨んで強い語調で叫んだ。
「もう、ほっといてくれないかなぁ。なんで、こんなところまで……。呼んでないでしょ!」
 ミカはユキヱに見つかってしまった忌ま忌ましさを瞳に込めて、ソプラノで叫ぶ。
「初恋だったからショックなんだろうけど。それは分かるよ。でも失恋なんてさ、誰でもある事じゃん。これからのミカちゃんの人生で、この経験超えてまた好きな人に出会うしかないんじゃん? うちの学校にだって沢山、男の子居るし。その中からもっといい人探したら? ね、ミカちゃん、死ぬのなんか止めて」
 ユキヱの言葉にミカの怒りが蓄積されていく。ユキヱは少しずつミカとの距離を埋めながら、会話を続けようとしている。
 何が……なにが沢山の男から捜せだよぉ。冗談じゃないよ!
 黒木先生に比べたら、男子高生なんてガキすぎて恋愛の到底対象じゃない……どいつもこいつもくだらなくて馬鹿みたいで。包容力ないし、大人じゃないし。恋愛の対象なんてとうてい考えらんない。思考回路が幼稚すぎて、ガキの会話なんかに、つき合ってらんない! 黒木先生じゃない男なんて、ありえない。でもどうしようもない。もう……、終わったんだから。全てが終わったのだから。



歌え!
歌え「天才」・来栖ミカ、多摩音大付属高校のために。歌え!!

 ミカは喉が潰れるほど歌った。血が出るくらいに。けど、喉が潰れることは許されない。無論、自分の意思でやめることは許されない。ミカ個人の意思など関係ないのだ。
 クルスミカは多摩音楽大学付属高校の看板なのだから。ソプラノのミカは国内の様々なコンクールにひっぱり出され、そして優勝した。「天才」ミカに与えられた役割、それは勝ち続けること。高校の実績や名誉、関係者の様々な思惑のため、その歌声を要求される。他人より音楽以外の学業を制限され、歌の練習に明け暮れる毎日。色々なところで歌わされた。ずっと、歌って歌って歌い続けてきた。
 それは同時にミカが全校生徒の憧れであると共に、たくさんの嫉妬を引き受けてきた日々でもあった。ちやほやされる一方で、あふれるほど他人の嫉妬や憎しみを引き受けた。そして敏感なミカは、相手から嫉妬の感情が渦巻いているのをストレートに感じ取る。
 だから、表面的な付き合いはたくさんあっても、本当の友達はただ一人しかいない。幼馴染みでずっと二人で生きてきた愛染ユキヱ。ユキヱの方は普通科で、天文学の科学者を目指していて勉強ができる、ミカよりずっとカシコイ子。まぁ、声楽科じゃないのが良かったのかもしれない。ユキヱは忙しいミカのために、いつもノートを貸してくれて、教えてくれた。でもそれだけじゃない。ユキヱはミカの一番のファンだった。他の進学校に行けたはずだが、ミカと一緒の高校を選んだ。ユキヱはミカのコンサートがある時、自分の勉強時間を割いて可能な限り手伝いにきてくれた。どんな時も励まして、慰めてくれた。本当の友達、それがユキヱ。
 ずっと天才と言われてきたけれど、ミカ自身はこれまで決して自分が唄いたい歌を歌ってきた訳じゃない。天性の歌声で、唄いたい歌は他にあった。おしきせではなく、アイドルになってテレビやコンサートホールでポップやロックを歌いたかった。ミカの憧れ、それはテレビの中のアイドルたち。
 しかし、ミカがこれまで多摩音大付属高のために歌い続けたのは、学校のためではなく、ミカを教える音楽教師・黒木先生がいたからだ。ミカより十歳年上の黒木先生はミカの才能を見出し、赴任以来二年間、育ててくれた。黒木は高校に入ってきたミカを優秀な逸材として他の生徒と区別し、妹のようにかわいがった。ミカは最初から誰よりも歌がうまかったが、黒木先生との出会いで、あっという間に先輩たちを超えた。
 黒木に出会って以来、兄のように慕い続けた日々。黒木の期待に応えるためだけに歌った。やがてそれは、自然に恋に変わった。黒木は、身長が百八十五センチもある。ミカはプロのピアニストである黒木と釣り合う女になりたくて、そして彼の高い音楽性についていこうと、いつもいつも背伸びしてきた。
「ミカちゃん、十六歳になったら結婚できるんだよ」
 ユキヱは、黒木の前でミカをからかうのだった。軽薄な黒木に対し、ミカは真っ赤になって顔で黙っている。
「来栖、じゃあ結婚しようか?」
 と黒木は答えた。それは黒木の冗談にすぎないことを知っていたが、ミカはその言葉を信じ、密かに決心した。
 結局、十六を迎えた時、ミカは黒木と結婚できたわけではなかった。そんな簡単にはいかないだろう。それでも毎日、いつかその希望が実現する日を信じて、いつか、いつかその日が来ることを夢見た。
 彼のためだけに歌い続けた。黒木先生のために歌いたい。高校の思惑なんか関係ない。他人の羨望や嫉妬心も関係ない。どんな辛いことがあっても黒木先生のためなら、自分は続けることができる。
 ミカはあっという間に十七歳になった。この一年、ずっと待ってきた。こっちはいつでもOKだけど、それで黒木先生は?
 ミカには黒木に自分が気に入られてるという自信があった。決して、歌がうまいからとか、高校のために役立つからとかじゃなくて、黒木先生は来栖ミカという自分を好きでいてくれてるはずだと確信していた。だから特別扱いしてくれるんだと。この自分の雰囲気と、容姿を気に入ってくれてるんだと。いや、自分が高校のために役立つことで、黒木先生が喜んでくれるならそれもいい。だけど本当は自分のこと、黒木がどう思っているのか、本人に直接聞く勇気は0だが。ハッキリ言って不安だらけ。
 もっともっと愛されたい。先生に愛されるために、ミカは喉をからして歌い続けた。スケジュールを詰め込み、エネルギーがスカスカになるまで歌った。歌って歌って歌い続ける事でしか、彼の心を手に入れることはできないのだったら、誰だってやるはずだ。
 だが膨らみに膨らんだミカの夢のシャボン玉は、今日、二〇十二年十一月十五日に壮絶に割れた。
 今日、その日が来るのを、ミカはずっと楽しみにしてきた。今日、多摩音楽大学の音楽ホールで、黒木のデュオ・リサイタルが行われた。ピアニストの黒木の横には、すらりとしたバイオリニストの女性が立った。真珠のネックレスをした黒いドレスの大人の女性。なんて黒木先生に似合うんだろうか。あんな風になりたいな。ミカは、うっとり眺めながら、一瞬不安を感じる。
 幾つかの曲が終わった時、突然黒木は、アメリカのボストンに転勤になる事を告げた。黒木先生が、この学校を去る……。ミカの周囲の世界が、一瞬凍りついたが、思いこみ暴走特急のミカは、学校を辞めて黒木を追いかけようと決心した。隣に座るユキヱの心配げな横目が一瞬ミカの表情をうかがった。
 しかし、それで黒木の話は終わらなかった。黒木は、バイオリニストの女性を、自分のフィアンセだと紹介した。彼女は、黒木が五年つき合った相手だという。二人の調和し完成された音楽の世界にうすうす気づいていたのかもしれない。がその言葉によって、ミカの希望は決定的に崩れ去った。
 黒木は決して、自分みたいな可愛い、つまり子供っぽいタイプが好みなんかじゃなかったのだ。舞台に立つ彼女の姿が証明している。そのことをハッキリと、思い知らされた。
 ミカは今日まで、黒木のために自分のかわいさに磨きをかけてきた。多摩音大付属で、羨望と皮肉交じりにミラクル美少女とか「美少女の天才」とか言われ続けてきた。顔つきがアイドルっぽかったからそう呼ばれていた。そんな自分を、ミカは自分で好きだった。だから、黒木が自分を気に入ってくれているのだと思い込んだ。だけど心のどこかには不安があり、早く大人になりたいと願ってきた。
 ミカの身長は百六十二センチで、女子高生として、そんなに背が低い訳でもない。しかし黒木よりはずっと背が低い。だからいつもミカは自分のあどけなさを気にして、背伸びをし、早くつり合える女になりたいと願っていた。歌手になって、早くプロのピアニストである黒木のところまで行きたかった。黒木のピアノは優雅で力強く、好きだった。黒木の崇高な芸術的感性に憧れ、ミカもその高みにいきたいと願った。「お兄さんと妹」の関係ではなくて、大人になって、背だって、もっと高くなりたかった。そして自分は黒木が理想とするような歌手になれるに違いないと思っていた。彼のために歌手になって、黒木と結婚するために、彼の教える水準まで自分を高めたのに。
 ミカは多忙さ故に、街をぶらつく事はほとんどなかったけれど、新宿や渋谷を行けばきっと、スカウトされまくったかもしれない。けどもしそうだとしても、ミカはきっと芸能界へは行かなかっただろう。多摩音大付属高校のため、そして黒木しか見ていなかったのだから。
 フィアンセはおそらく二十五歳くらいの、ショートヘアの背が高い女だ。こんな背中の空いた黒いドレスは、ミカが着たら見事に似合わないに決まってる。知的で落ち着いた大人の雰囲気。ミカとは正反対。年齢といい雰囲気といい黒木とぴったりだった。
 黒木がピアノを弾き、フィアンセがバイオリンを弾く。二人には完璧なハーモニーが存在し、二人の間にミカが入り込む隙など、消しカスほどにもない。それほど完ぺきに似合っている。
 もともと、アメリカに居る二人の恩師が亡くなったら、黒木と彼女は、共に楽団を引き継ぐためアメリカに行く約束だったらしい。そして、恩師が死んだのである。ボストンに行って式を挙げ、楽団を継ぐのだ。
 ……間に合わなかったんだ! ミカが黒木先生に似合う大人の女になる前に、大人のフィアンセが黒木をアメリカに連れて行ってしまう。フィアンセも黒木を待っていただろうが、彼女だけじゃない、自分だってずっと待っていた。本当に黒木先生のハートがミカの方へと向き合ってくれる瞬間を。
 もうミカが歌手になって追い付く暇なんかない。プロの芸術家の二人の間に、所詮は十七歳のただの生徒、自分なんか、自分なんか自分なんか妹扱い。子供(ガキ)に過ぎない。
 ミカは会場を飛び出し、トイレに駆け込んだ。顔を洗ったが、ミカは鏡を見ない。それでも、見えるような見えないようなうつむき加減で、自分の顔を見た。笑顔を作ろうとしても、笑えない顔が映っている。
 こんな高校生の、ガキっぽい来栖ミカなど、黒木にとって最初から恋愛の対象なんかじゃないという現実。幼い恋は破れ去る。黒木には、すでに十分魅力的な、プロの音楽家のフィアンセが居た。それが現実。
 自分にあるのは、未熟さ、あどけなさ、そしてせいぜい可愛らしさ。------それがすべて。ミカを徹底的に打ちのめしたフィアンセの存在は、自分の子供っぽさを残酷なまでに浮き彫りにする。自分の好きだったところが、すべてコンプレックスと化していた。
 いくらトイレの鏡で自分を見直しても、そこには可愛くて子供っぽくて未成熟な顔が映っている。大人っぽい顔の角度が、一つもない。こんなんじゃ全然ダメ! もっと、大人っぽくなりたい。大人になったら、あんな女なんかに負けやしないのに。けど、まだ十七歳。「大人の女」になるのに一体あと何年かかるのよ? 自分がまだガキってことが心底憎い! ……悔しい。
 廊下をふらついていると、ヒステリックな女担任がミカを捕まえる。帰ると言い張るミカを、女の担任は理事室に引きずっていく。
 黒木先生がアメリカに去ろうが結婚しようが、世界がひっくり返ろうがクルスミカ(・・・・・)には多摩音大付属高校が残る。今更、責任を放棄することは許されない。もうすぐ合唱コンクールの全国大会が控えているのだ。自分は優勝候補として期待されている。そしてその先には世界が……。しかし今日、ミカはもう学校のためには歌わないと、目の前の理事の一人に言った。理事は当然の反応をした。
 黒木先生だけじゃない、お前のために今までどれだけ多くの人間が期待して応援してきたというんだ?! その全ての人たちに対して裏切るのか? お前以外に他にやる者がいないのに。

 ――お前の歌声は高校のためにあるんだぞ。どれだけ多くの生徒たちがお前に憧れたか。お前のようになりたかったと思う? お前一人の身じゃない。逃げることなど決して許されない。そんなのはお前のエゴだ!

 多くの支えてくれた人たちの期待に応えるのがお前の義務だ、そのためのお前の人生だ! 歌え! 歌え天才・来栖ミカ、高校のために歌え!!
 ……

 ミカを責めた理事は、机を蹴っ飛ばして恫喝した。瞬間的にミカはブチ切れ、気が付いたら走っていた。高校から響いてくる、理事や教師たちの数々の怒号や悲鳴に似た叫び声の思念の塊が背中を追いかけるのを振りきって、ミカは走る。

「さすが天才」「ミラクル」
 やめて、もうやめて!

「クルスミカサンハ……わが校、創立以来ノ……」
 聞きたくないんだよそんな話。

「あの子、黒木先生のお気に入りだから学校の代表に選ばれただけじゃん。運がいいだけじゃん」
 そうよ、わたしには分かっている。

「顔がいいからっていい気になってんじゃないわよ!!」
 いくらちやほやされ、かわいいといわれ、美少女って言われたって、打算と嫉妬があいつらの本音だって事が。嫉妬渦巻く「本音の声」が、来栖ミカには分かってしまうんだから。
 ずっとずっと、聞こえていたんだから――!!
 全国中ひっぱりまわされ、歌い続け、天才天才ともてはやされて、学校の権威に利用されていただけのわたしの高校生活。わたし自身の気持ちなんか、これっぽっちも…………。
 誰も分かってない。誰も、私の気持ちなんか分からない。どいつもこいつも、期待してすがりついてきて、私が一人どんなに辛い想いでいるのか知らないのに……。もう疲れ切った。私に近づかないで。私に触れないで。もう私に何一つ期待しないでよ!!


「来て欲しくなかった……。誰にも、わたしの傷に触って欲しくなんかない」
「ミカちゃん、憧れてただけじゃん? 憧れって本当の恋愛なのかな? 言おうかどうか迷うけど、あたし、ミカちゃんが恋に恋してるだけだったってずっと思ってた。あんなの、本当の恋じゃない。きっともっと黒木先生よりミカちゃんに合った、これから出会うべき人が待ってるよ」
「やめてよ……。あんたなんか、あんたなんかに、図書館で本ばっかり読んで、恋愛もした事ないくせにさ、人を、人を好きになった事も一度もないくせして、私に説教しないで。体験もしない奴が、知識だけで何が分かるっていうの」
「そりゃ説教だってするよ! こんな時だもん。友達だもの。私ずっと思ってた。きっと先生なんかよりもずっとミカちゃんに相応しい人が居るに違いないって!」
「フ~ンあんたに男の事が分かるの? 理想ばっかり高くて実際の恋愛なんか、全然興味ないじゃん。そんな子に」
 ミカはアニメみたいな、自分のキンキン声が嫌になりながら押し殺したような声で叫ぶ。
 愛染ユキヱは文学少女で勉強が恋人で、本人によると、図書室の本を半分読破したらしい。だからなのか、ほとんど男の子と話したこともない。もちろん彼氏など居たこともない事は、幼馴染みのミカには断言できる。しかし、ミカも別に恋愛経験が豊富な訳ではない。黒木はミカが始めて本気で恋をした男だった。しかし、ユキヱはミカのようにストレートに好きな相手に向かっていくことができない。
「確かに、あたしは、ミカちゃんの言う通り、今までつき合った事ないかもしれない。本当の恋愛は経験しなくちゃわからない。でも、恋愛なんて、これからたくさんのことを経験する、人生の一ページに過ぎないのかもしれない。それだけがミカちゃんの人生の全てなの? 色んな経験をさ、いっぱい積んで人は成長する。そうなんじゃないかな……」
 ユキヱは、多少悔しさを滲ませながら言い返している。
「聞いたようなセリフよね。どーせそんな言葉しか吐けないんだから、あんたはさ。恋愛なんてとか、あたしと同じ年齢のくせしてさー、偉そうな事言わないで! 何も経験しない人間に、経験してる人間の事を批判する資格なんてないんだから」
 屋上に吹く風が、バタバタと二人のスカートをはためかせている。
「それは違うよ、あたしだって人を好きになった事あるもん」
「どーせそれも抽象的な概念ばかり追いかけてるから、現実的な恋もできないんでしょ!」
「じゃミカちゃんはどうなの? 本当に現実的だった?」
 ユキヱの言葉に、ミカはハッとする。黒木と一緒にいて、幸福感より焦燥感の方が強かった。好きだから焦る。だが、幸福感を味わえたかと言えば、それは僅かな瞬間にすぎなかったような気がする。
「それより、こんな事で、歌う事を止めちゃっていいの? 先生のためだったかもしれないけど、誰よりも向上心があって、夢を描く力が強いミカちゃんなのに。あたし、ミカちゃんの才能を尊敬していたんだよ」
 ユキヱは両手の拳を握っている。
「……いまさら言ってもしょうがないけど、先生に認めてもらって、それでわたしを受け入れてもらえないなら、歌手になったって、意味ない。だからもう、夢なんかどうでもいい。ま、あんたみたいな子に到底……理解できないかもしれないけど」
 ミカはもはや、努力して夢を達成した時、得るべきものがない。黒木に自分がステージで唱う姿を見て欲しかったのだ。でも、手遅れ。自分の才能なんかじゃ、黒木を振り向かせる事はできないと分かったのだ。自分の魅力では、どうしようもできない。女としての自分には、何の魅力もなかったのだから。だから何の力も残ってない。
「あたし、ミカちゃんの事好きだよ。あたし、ミカちゃんが好き。ミカちゃん可愛いから。それにさ、皆のあこがれで、歌で人を感動させることができるんだから。それって誰にでもできることじゃない。わたしの自慢の友達。わたしはミカちゃんに憧れていた。一度でいいからミカちゃんみたいになってみたかった。私にないものばかり持っているから。だからあたしは、ミカちゃんの素晴らしさを誰よりも知ってるつもりだよ。だからこんな事で諦めないで」
 ユキヱは、儚気に微笑んだ。
 ユキヱは、自分自身に強いコンプレックスを抱いていた。ミカから思うと不思議なくらいだった。ユキヱはミカより背が高く、顔立ちもはっきりしていて大人びて見える。ユキヱはとてもりりしいタイプの美形なのに。常々ユキヱがうらやましいと思っていた。ミカから見ると、磨けばちゃんとユキヱには魅力があった。美人だしスタイルはいいし、何よりミカにはない大人っぽい雰囲気を持っている。しかし、本人はそれを全く自覚してない。男たちはユキヱがかわいい事に何となく気づいているらしく、街でユキヱに変なヤツが声を掛けてくる事もたまにあるらしい。どうしてユキヱは、もっと自分に自信を持たないのだろう、とミカはいつも思っていた。
「もううんざりする。あんたに、あたしの気持ちが分かるって? 何を知ってるって言うのよ。二度と、わたしに歌えなんて言わないで。もう私が歌う必要なんてないんだから。もう二度と誰にも! 私に歌えなんて言わせない」
「自分を否定しないで! それって自分を否定することじゃん。ミカちゃんの自分らしさを、素晴らしさをどうしてミカちゃんが否定するのよ。先生は先生で、彼の人生がある。でも、ミカちゃんはミカちゃんの人生でしょ。ミカちゃんて人は宇宙でたった一人しか居ないんだよ。ということは、ミカちゃんさえ人生を決めたら、それで人生変わるんじゃん。自分の人生を決めるのは自分、自分の世界を作ってるのも自分だよ。そうでしょ。だから、こうなったのもまた必然だよ! ミカちゃんさえ決心したら、本当に必要な人がやってくる。今日は、どうしてもそれを伝えたかった」
 ミカは黙ってユキヱの言葉を聞いている。
「あたし、ミカちゃんが唱っているのを見るのが好きなんだ。十七歳って、女の子の一生で一番輝いている時じゃん! こんな事で、ミカちゃんが自分を否定して死ぬなんて、いつも強気な、ミカちゃんらしくないな!」
 温厚で大人しいユキヱが、いつもとは違う強い口調でミカを責める。
「どうしてあんたに、そんなことまで言われなきゃいけないの! 私のことは、私が一番知ってんだから、そんな余計なこと」
 ミカは言い返した。死ぬつもりなんかないんだってのに。でも、もうユキヱとの会話は、取り返しの着かないところまで来ていることをミカは予感した。
「いいや、分かってない!」
「あたしがどうするか、あんたに決めて欲しくない。誰にも決めて欲しくなんかない。もううんざり! もう帰って。話しかけないで。あんたの顔なんか二度と見たくない」
 ユキヱはショックを受けた顔をしながら、まだあきらめていない。
「……だって」
 ミカは、自分でも酷い事を言っていると分かっている。ユキヱは全然悪くない。むしろ自分が悪い。でも口が止まらないのだった。
「フン、人の心に土足で入り込んで------。人の事心配してる場合じゃないでしょ、自分の事心配したら。自分を知るべきなのはあんたでしょ! もっとも、あんたなんか本ばっかり読んで一生恋愛できないでしょうけど!」
「そこまで言う事ないじゃない。酷いよ。友達だから言ってるのに」
 ユキヱの声は震えていた。
「うるさいな、もう! もうあたしのところに来ないで。今日はあんたにはほんとにうんざりした。こんなところに来ないでうちに帰って勉強してれば? 本でも読んで、自分の好きな観念的な妄想と追いかけっこでもしてればいいのよ。こと恋愛に関して、あんたに、あたしが恋愛で説教される筋合いはない。じゃあね」
「ミカちゃん、わたしは、ずっと友達だからさ……」
 ユキヱの顔は悲しさと無念さをたたえていた。
「帰って! あんたなんか友達じゃない。とっとと、あたしの前から消えて居なくなってよ!!」
 ユキヱは眼鏡越しに涙をいっぱいに溜め、可憐な唇を震わせて絶句すると、黙って怒っていたが、目をつぶって、ゆっくりと両手の甲で涙を拭き、二度と振り返らずドアの向こうへ消えた。
 ミカはじっと睨みつけた顔でユキヱが消えたドアを見ていた。仰向けになっていたところまで戻り、体育座りをした。
 激情に身を任せたまま、振り返って、雲間に輝くルビーの満月を睨む。
 十五分間、ずっと同じ姿勢で動かない。何もかもムカつく。自分の傷にいちいち触って欲しくないのに。そもそも、頼んでないのに助けに来た愛染ユキヱがウザい。それなのに-----何で来るのよ、ユキヱは! 分かったような口を聞いて。何も分かってないくせに。私の事を思って言ってるって? 笑わせないでよ。あははは。あんたなんか、あんたなんかにわたしの気持ちは分からない。恋した事ないくせして……。
 そんなことを思いながら、ミカはどこかで、言ってはいけない事を叫んでしまったという後悔の念があった。ユキヱの、立ち去る瞬間、黙って怒った悲しげな表情が目に焼き付いて、何度も思い出して罪悪感を感じる。
 あぁもう。全てがうんざりする! この世の誰も彼もがウザい。自分自身にもうんざりしている。これからどうなるのだろうか。もう知ったこっちゃない。
 ミカはすっかり疲れきって、再び立ち上がると下界を見下ろした。覗き込むと、目眩がする高さだ。車が豆ぶつのように見える。ここから落ちれば命はない。そう思うと、恐怖が身体を駆け巡る。怖い。確実に死ぬ。自分には到底飛び下りる勇気はない。再び体育座りした。
 十一月十五日が、あとわずかで終わろうとしている。
 ミカはハッと思い出した。今日、ユキヱの誕生日じゃないか! ……なんて事だ。よりにもよってあたし誕生日にユキヱとケンカしちゃったの?! なんで? なんで……。だけどもう遅かった。振り返っても、ユキヱはもう居ない。残ったのはショックと虚しさ。今さら自分の態度を後悔しても時間は逆回転しない。頑固でプライドが高くて、誰の言う事にも耳を貸さない自分。心底嫌になる。
 ミカは唐突に耐えられないほどの寂しさに襲われ、急激に体温が下がった。宇宙に誰も居ない真っ暗やみにミカが只一人で投げ込まれる感覚。絶望的な孤独感。ミカは自分には、いつもずっと側に居てくれる人が必要だったということに気付いた。黒木を失った苦しみは、孤独に耐えられなくなった結果だった。だからミカは苦しんだ。けど、その時思い出すべきだったのだ。昔からずっと愛染ユキヱが一緒に居てくれたということに。ずっと何度もミカを助けてくれた、その事を。そうしてミカを一人きりにしないようにしてくれていた事を。たとえ黒木を失っても、ミカにはずっとユキヱが居た。だからユキヱは今夜も助けに来てくれた。たとえ、ユキヱの誕生日を忘れてケンカして、自分の事だけで精一杯の、酷い友達でも。
 ミカは、来てくれたそのユキヱの手を、自分で振り払った。そしてミカはその時、ようやくユキヱを失った事に気付いた。あの顔。言っちゃいけないこと言った。ミカは今、完全な孤独だ。そのことに気づくと身体中が恐怖でガタガタと震えて止まらない。
 寒い。身体が凍り付く。世界と自分が分断された事による冷気。外界を見ていると、まるで暗黒の深海に自分の身体が落ちていくようだ。そこは深海魚さえも居ない、完全な闇。不安で涙が溢れ出し、止まらない。

 月は赤く、都庁は青白く輝き続けている。そして、世界の終りのような雲がミカの視界の左から右へと、猛烈な勢いで駆け抜けていく。さっき見降ろした時、下界を行く車の流れや人が、屋上に居る自分だけを取り残して、皆幸せそうに思えた。自分だけがそこから切り離されて、まるで関係ない世界に居るみたいだった。そのことを考えると恐ろしく、凄く悔しくて悲しく、怒りさえ抱く。ミカの頭の中で、ドアーズの「ジ・エンド」が、リフレインし始めた。
 この世界も自分も、全部滅びてしまえ。世界なんか壊れて、滅茶苦茶になって、吹っ飛んで消えてしまえばいい。そうすれば、どんなにすっきりするか。
「何もかも、消えて、無くなってしまえばいいのに。こんな世界」
 ミカは呟いた後、また同じことを繰り返した。
「消えちゃえ。そうよ。何もかも全部消えてしまえ」
 そうすればすっきりする。
 唐突に、光る都庁ビルが奇妙な音を立てた。低く鳴り響き、徐々に高くなる。まるでホルンのロングトーンを聴いているようだった。ミカは繰り返されるラッパ音に耳をふさいだ。
 眼をつぶったミカの頭の中で、目の前の新宿の街が壊れ始めていった。イメージの音が響き、粉じんの匂いがし、ミカの髪やスカートが爆発の風を受ける。ミカはただただ、摩天楼群がガシャガシャと崩れ出し、この世界が壊れる事を繰り替えし繰り替えしイメージしまくった。イメージは、どんどん恐ろしく、どんどんリアルなものになっていく。
 ミカは思いつくままに次々と妄想していった。ミカは妄想の中で、ついに足を一歩踏み出し、このビルから飛び降りた。だが死なない。なぜなら、来栖ミカには実は空を飛ぶ能力があったのだ。そうして地面に降り立つと、ミカの前にワケ知りの秘密組織のメンバーがやってくる。そしてミカに言うのだ。ミカは世界の運命を担っているのだと。女は、まるっきり理解できないことをミカに一方的にまくしたてると、去った。世界の運命を背負ったミカは、決断を迫られている。するとそこに、さっき別れたユキヱから電話がかかってくる。ところが、それが間違い電話で、とある少年からだった。それこそがミカが本当に思い描く理想の少年だ。それは、高校生で、黒木とは全く違った年相応の本当の恋の相手。二人はやがて出会い、世界を救うために戦うのだ……。
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