礼拝堂

文字数 3,173文字

 夕方、ケンジが教会に行くと、約束どおりダンボール箱に入ったトラクトが置いてあった。自分で言ったものの、正直、不安だった。これで雨でも降っていたら、完全に来るのをやめただろう。
 ただ、ケンジの頭にはいつも課長さんのあの顔があった。なぜだか分からないが、ケンジは、課長さんのために自分がトラクトを配り続けなければならないような気がしていた。
 二十分くらい配った頃、何とその加地が向こうから歩いてきた。手に何やら紙を持って、キョロキョロしながら近づいてくる。よく見ると、それはケンジが渡したトラクトだった。
 加地は、ケンジを見るとハッとして引き返そうとした。
「課長さん!」
 思わずケンジが叫んだ。加地は立ち止まり、近づいてきた。
「君、私のことを知っているのか。」
「はい。あの・・・、ぼ・・・、僕、朝、会社で清掃のバイトしてる・・・。」
「あ、そうか。それで・・・。どこかで見たことがあると思ってたんだ。」
「そ・・・、それを見て、教会に来てくれたんスか?」
「いや・・・、別に・・・。」
 加地は持っていたトラクトをポケットに押し込んだ。
「君、ずっとここでチラシを配ってるの?」
「はい。毎日・・・。」
「じゃあ、これをくれたのも君か?」
「あ・・・はい、そうっス。」
「そうか・・・。君はこの教会に行ってるの?」
「あ・・・、はい。あの、少し、は・・・話さないスか?」
「え?」
 ケンジは加地を教会に招いた。教会はまだ牧師やスタッフが残っていて、鍵は開いていた。ケンジは加地を礼拝堂に招いた。
 少しひんやりとした、静寂な空気が支配する空間に、ただ十字架だけが鈍い光を放っている。二人は十字架の正面の席に座った。しばらく沈黙が続いた後、加地がボソッと尋ねた。
「君、名前は?」
「あ・・・、林田ケンジっす。」
「なんで私が課長だと分かったの?」
「あの・・・、誰かが、課長って呼ぶのを聞いたから・・・。」
「そうか。私は加地です。よろしく。」
「あ・・・、はい。」
「ところで、君はクリスチャン?」
「はい。」
「神を信じてるの?」
「まあ、一応。」
「本気で信じてるの?」
「え?」
 加地は薄笑いを浮かべた。
「神なんている訳ないだろう。」
「いや・・・、あの・・・、僕はおられると信じてます。」
「フ・・・、まさか。」
「あの・・・、闇雲に信じているわけじゃなくて、いくつかの根拠が・・・。」
「やめてくれ!」
 加地は立ち上がり、ケンジを見下ろして言った。
「神などいない!いるはずがない!もしいたら・・・、こんな・・・、こんなムチャクチャなことが起こるわけないだろう!君はそういうことを知らないから、神を信じることができるんだ!神などいない!いるはずがない!いる訳がない!」
 加地の剣幕に、ケンジの鼓動も高まった。
「失礼する!」
 加地はそのまま、足早に出口に向かった。
「課長さん!」
 ケンジの声に、加地は立ち止まった。
「あの・・・、ぼ・・・、僕・・・、実は・・・、就活に失敗してバイトやってるんです。何十社も応募したのに全部ダメで・・・。だから・・・、だから、幸せだから神を信じているんじゃないんです。」
「そうか。じゃあ君に言っておくよ。会社勤めはやめておいたほうがいい。サラリーマンにはならんことだ。」
「そうでしょうか!」
 ケンジは訴えた。
「あの・・・、僕・・・、いつも会社の人がすごく羨ましいんです。そりゃ、仕事は・・・大変そうですけど、やるべきことがあって、仲間がいて。僕、この歳になって、まだやるべきことがなくて、一人ぼっちで。朝起きて今日は何しようって考える・・・。本当につらいんです。」
 しばらく沈黙が続いた。加地は下を向いたまま振り返ると、近づいてケンジに声を掛けた。
「座ろうか。」
「はい。」
 加地はフーっと息を吐いて、天井を見上げ、ポツポツと語り始めた。
「実は、青森の子会社に出向になってね。出向といっても、いわゆる左遷だ。向こうに行って帰ってきた者はいないからね。はぁ・・・。まあ、その原因は・・・、全く分からんのだよ。ちゃんと仕事をし、大きなミスもなかったと思うんだが・・・。
 ただ私には、年老いた母がいてね。もう随分弱ってしまって、立ち上がるのもやっとの状態なんだ。とても青森になんか連れて行けない。母は、私がまだ幼い時に父をなくしてね。兄弟が三人いるんだが、苦労して私たちを育ててくれたんだ。」
「あの・・・、僕も父を知らないんです。僕が小さい時に死んだみたいで。」
「そう。そしたら分かってもらえるんじゃないかな。私は絶対、母は自分が面倒を見ると決めたんだ。最後まで自分が面倒を見ると。それが、苦労をかけた母に対するわずかばかりの恩返しだと思ってね。家族もよく協力してくれている。それなのに・・・。もし、帰ってこられるなら五年でも十年でも単身で頑張れる。しかし、何度頼んでも会社は帰すと言ってくれないんだ。母を妻に任せて、ずっと向こうで頑張らないといけない。妻の苦労を思うとつらくてね・・・。なんでこんな思いをしなきゃならないんだ。」
「はあ・・・。」
 それからしばらく話が途切れた。ケンジは考えていたことを素直に口に出した。
「でも・・・、クビじゃないなら・・・、まだ・・・。」
 加地の顔が曇った。
「あ、すみません。あの・・・、ちょっと・・・、言い過ぎました。」
 それから加地は、固く手を組んで、下を向いたまま、独り言のように語り始めた。
「いいんだ。分かってる。分かってるんだ。もう決まった以上、青森に行くか、会社を辞めるか、二つに一つしかない。青森に行くのなら、家族に話して、母をどうするか決めなきゃならん。辞めるなら・・・、まあこのご時勢だから再就職は難しいだろうが、何百社でも書類を送って、ダメなら・・・、とにかくアルバイトでも何でもするしかない。分かってるんだ。分かってるんだが・・・、もう・・・、力が出ない。というか、もう疲れてしまってね。今まで何度も困難なことを乗り越えてきたつもりだが、こんなことは初めてだ。体中からエネルギーが抜けきってしまった感じなんだ。これ以上頑張っても、一体何の意味があるんだとね。どちらの道も・・・怖い。怖くてたまらない。なぜそんな思いをしなきゃならん?世の中には、ぬくぬくと甘い汁を吸って生きてる奴がたくさんいるじゃないか。そんな奴にはなんのお咎めもなしだ。私は・・・、必死で頑張ってきた。真面目に、コツコツと・・・。それなのに、なんでこんな目に遭うんだ。一体そんな世の中に、生きていく価値があるのか?苦労する意味があるのか?たった一人の母親の面倒さえみることができないなんて・・・、おかしいだろう!妻が過労で倒れたら、誰が面倒を見るんだ!家族がバラバラになって、誰がその責任を取るんだよ!そんなことに追いやった会社のために働くなんて・・・、考えただけでも気が狂いそうだ!でも、今仕事を辞めたら・・・、今でも、ローンと子供の学費で生活はギリギリなのに・・・。ああ・・・、こんな思いをしてまで生きていく必要があるのか?死んだほうがマシだろう。神がいるならぜひ聞きたいよ!こんな人生に何の意味があるんだ!生きていく必要が、どこにあるんだとね!」
 加地は泣いていた。ケンジは何も言えず、下を向いたまま、黙って聞いているしかなかった。
 ひとしきり泣いた後、加地は黙って立ち上がって、フラフラと出口に向かった。ケンジも立ち上がったが、今度は声を掛けることができなかった。加地はそのまま礼拝堂を出て行ってしまった。
「課長さん・・・」
 ガランとした礼拝堂の冷たい空気に、ケンジの小さな声は吸い込まれて消えていった。
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