父

　「ただいま。」
　ケンジは、静かに家に入った。そろりと台所に入ると、母が熱心に祈っていた。
　ケンジは下を向いたまま、立ち尽くしていた。佐知子は、小さくアーメンと言って目を開けた。
「お帰り。どうしたの、立ったまんまで。」
「いや･･･。」
　ケンジは黙って座った。
「じゃ、ご飯の準備、するわね。」
　佐知子が立ち上がろうとした時、ボソリとケンジが言った。
「ごめん、いつも･･･」
「何が？」
「あの･･･、俺がこんなだから･･･、いつも祈って･･･。」
「別に、ケンジのことだけじゃないわよ。」
「そう･･･。」
「どうしたのよ～。いつものケンジらしくもない。」
「うん･･･。」
「じゃ、ご飯の準備、するから。」
「あのさ･･･」
「何？」
「あの･･･、あのさ･･･」
「何よ。」
「あの･･･、人生って、難しいね。普通に、生きていきたいだけなのに･･･。」
　佐知子は少し驚いた顔をした思うと、にこやかに微笑んだ。そして、目を閉じて少し祈ってから、話し出した。
「お前、父さんのこと覚えてる？」
「いや･･･。」
「そうか。まだ小さかったもんね。」
「うん。」
「母さんね、最近、父さんのこと、よく思い出すの。実は、今も思い出してたのよ。」
「ふ～ん。」
「父さんと結婚したいきさつ、話してあげようか。」
「お見合いだったんだろ。」
「そう。初めて父さんを見たとき、はっきり言ってタイプじゃなかった。モサッとしているし、あんまり話もしないし。それに母さん、その時、全然結婚する気がなくて、たとえ相手がどんな人でも断るつもりだったの。
　何回目かに会った時、今日こそはっきり断ろうと決めてたんだけど、父さん、その日、背広なんか着てきてね。何かすごく緊張している感じだった。
　母さん、この人は真面目な人だから、あまり気を持たせたらいけないと思って、断る話を切り出そうとしたの。
　立ち止まって、目を合わせた途端、父さん、ブルブル震えだしたの。ブルブル震えだして、一生懸命、目なんて血走っていたわ。そして、『あの･･･、その･･･』とか言って、随分、長い時間が経った。母さん、この人このまま倒れてしまうんじゃないかって思ったわ
　そして、目を固くつぶって、小さな声で『結婚してください。』って言ってくれたの。
　そして花束を差し出したわ。花束っていっても、花屋さんで買ったきれいなものじゃなくて、近くの山で摘んできた、フニャフニャの、小さな花ばかりだった。後で聞いたら、それが父さんなりの誠実さだったんだって。
　その花束と、汗だくの父さんの顔を見たとき、母さんはこの人と結婚しようって決めたの。」
　佐知子は、少し恥ずかしそうに笑った。ケンジは母の顔を見つめていた。
「父さんは、本当に不器用な人だったわ。何をやらしても時間がかかった。でもね、勇気のある人だった。チャレンジして、失敗して、落ち込んで、でもまたチャレンジして。
　いつも一生懸命で、仕事も、教会の奉仕も、いつも全力投球だった。
　病気になった後も、ちっとも休もうとしなくてね。母さん、心配で心配で、いつも陰で泣いていたわ。
　でも、最後に倒れて病院に担ぎ込まれたとき、ベッドの上で、さっきのケンジと同じように言ったの。『人生って、難しいな。』って。
　でも、その顔は笑ってた。ニコ～っと笑って、最高の笑顔で。キラキラ輝いてた。
　母さん、その笑顔を見た時、もう悲しみも何も吹っ飛んじゃった。ああ、この人は幸せだったんだ、神様に愛され、恵みを受けて、幸せな人生だったんだって、心から思えたの。あの笑顔、母さん一生忘れない。永遠に忘れないわ。
　ケンジ。お前は父さんに本当によく似ているわ。母さん、お前の仕事のことなんか、本当はどうでもいいの。ケンジが、ケンジらしく生きていれば、それでいいの。
　ケンジ。みんな、明日のことなんか分からない。しかも人生はいつも、苦しいことの連続。次から次とね･･･。本当は、みんな怖いの。明日のことは分からないからね。怖くないようなフリしてるだけ。
　でも、神様を知っていたら、勇気を出せるはずでしょ。神様がケンジを愛し、守ってくださるんなら、何も怖いことない、そうでしょ。
　ケンジ。主にある勇気を持ちなさい。父さんの子供なら、父さんのように、主に信頼して、人生の苦しみを受けて立ちなさい。勝っても負けても、逃げないで、立ち向かいなさい。母さんが望むことは、たたそれだけ。ケンジならできる。絶対にできるわ。」
「･･･母さん･･･。」
ケンジは視線を落とした。そして、はっきりと言った。
「分かった。」
　佐知子は立ち上がると、ケンジの肩をポンポンと叩き、にっこり笑って言った。
「がんばって！母さんもがんばって、ご飯の準備、するからね。」