喜び

文字数 1,033文字

 その夜もケンジはトラクトを配っていた。
 トラクト配りのメンバーは、サラリーマンもいれば、学生、主婦もいた。みんな仕事や家事を済ませ、集まって祈り、夜七時から八時の一時間、路傍に立ってトラクトを配る。疲れているだろうに、なぜかみんな嬉しそうな、さわやかな顔をしている。ケンジもなぜだろう、なぜか嬉しかった。断られたり、無視されたり、決して愉快な事ばかりじゃないのに、不思議だった。
 声をかけるときはいつも勇気がいる。通りかかる人はみんな険しい顔で、急いでいる。チラッとケンジを見ても、すぐ目をそらす。できればそのままやり過ごしたくなる。でもそこで、勇気を出して
「あの・・・、すみません。」
と声をかけると、一瞬、その人が人間らしい表情を見せる。断られたり、無視されることもあるが、一瞬、その人となりが垣間見えるのだ。そして中には、
「あ、そう。今度行くわね。」とか
「ありがとう。」とか
「教会、どこにあるの?ああ、あそこ?」
とか言って受け取ってくれる人がいる。それがもう本当に嬉しい。たとえ教会に来てくれなくても、受け取ってくれるだけで本当に嬉しいのだ。
 八時になると教会に戻り、感謝の祈りをささげて解散する。ケンジは帰る時、いつも教会の屋根にそそり立つ十字架を見上げた。それは、夜の闇にも風にも負けず、凛として、変わらずにいつもそこに立っていた。ケンジはいつもそれを見てから帰途についた。それを見るたびにケンジは、少し元気をもらえるのだった。

 二週間がたった。トラクト配りは毎日続けている。参加人数は徐々に減りつつも、ケンジはやめる気にならなかった。
 バイトの方では、少し気になることがあった。なんとなく、職場の雰囲気が変わったのだ。それは、木崎のいる営業部についてだが、全体に緊張感というか、暗さというか、いやな雰囲気が充満していた。
 特に、『課長さん』がおかしい。以前はもっと明るい感じだったが、最近は眉間に深いしわを寄せて、顔色も悪い。
 ケンジがこの人を課長さんと呼ぶのは、単純に誰かが課長と呼ぶのを聞いたからだが、ああ、課長さんかぁ、大変だなぁと思っていたら、日に日に顔つきが険しくなっていったのだ。
 課長さんは、友子と同様、いつもケンジに挨拶をしてくれる数少ない存在だった。ケンジは密かに尊敬していたが、この日はとうとう、ケンジの挨拶にも答えず、さっさと部屋に入っていったかと思うと、またすぐに出てきて、足早に階段を下りていった。
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