出会い

文字数 1,343文字

 その頃、ケンジはある建築会社の清掃のアルバイトをしていた。まだ始めたばかりのバイトだった。
 七月も下旬になると、朝とはいえ蒸し暑い。空調は始業時間までつかないので、作業着の下は汗でびっしょりだ。始業の三十分前、社員が出勤してくるまでに終わるのが清掃の原則となっている。しかしケンジは要領が悪く、終わらないうちに社員がドンドン出社してくる。
「お・・・、おはよう・・・、ございます。」
 ケンジは丁寧に挨拶した。そうするようにリーダーから厳しく言われているのだ。しかし返事をしてくれる人はまずいない。みんな、無視して通り過ぎる。まるでケンジが存在していないかのように、そのまま通り過ぎる。
「お、おはよう・・・、ございまス・・・。」
 次第に声も小さくなり、目も上げられなくなる。下を向いたままケンジは懸命にモップをかけ続けた。
「おはようございます。いつもご苦労様です。」
 いきなり明るい女性の声がした。ケンジが驚いて目を上げると、髪の毛をきれいに束ね、きっちりとした身なりの女性が、にっこりと微笑んで立っていた。思わず名札を見た。『村川友子』とある。知り合いではない。
「あ・・・、お・・・、おは・・・、おはよう・・・、ございま・・・、ス」
 立ち止まって挨拶をしてくれる人など初めてだ。ケンジはしばらく彼女のうしろ姿を目で追った。すっと伸びた姿勢で静かに歩き、人と会うと必ず立ち止まって挨拶をする。
「あんな人も・・・、いるんだ。」
 ケンジは嬉しくなってボーッとうしろ姿を見つめていた。  
 その友子とすれ違って、もう一人の女性が歩いてきた。彼女は友子と違い、ケンジを見た途端、プイと壁に方を向いて、そしらぬフリで近づいてきた。ケンジも下を向いた。
 実は彼女は、ケンジの妹、理沙だった。ケンジは偶然、妹のいる会社に派遣されてしまったのだ。
「ねえ。」
 すれ違いざまに理沙が声を掛けてきた。
「なんでまだここにいるのよ!バイト先変えてもらうよう頼みなさいよ!」
「んなことできるか!」
「妹のいる会社なんで勘弁してくださいとか、言えるでしょ!」
「だからそんなこと言えないって!」
 モップ片手に汗臭い作業服で、太い眉を下げながら話すケンジを見て、理沙はハーっと肩を落とした。
「ホント、いつもモサっとしてるわね。」
「ほっとけ!お前に言われたくないわ!」
「それよりお兄ちゃん。絶対私と兄妹だってこと、バラしちゃダメよ。いい。絶対だからね。絶対!」
 理沙は人差し指をケンジの目の前に突き出した。ケンジはそれを振り払った。
「そんなこと、話すわけないだろ!」
「あ、この名札、マジヤバい!」
 理沙はケンジの名札をツイと取り上げた。 
 ケンジはまだ正式な名札をもらっていない。手書きの代用品だ。理沙は持っていたマジックで何やら書き加えた。見ると、名字の『林田』の上になんともうまい具合に木が書き加えられていた。
「お・・・、お前、『森田』になってしまったじぇねーか!」
「いーのいーの。これから、森田くんで通してよね。」
 理沙はケタケタ笑いながら行ってしまった。
「なんて奴だ!」
 ケンジは『森田』の名札をとりあえずポケットにしまいこみ、再びモップをかけ始めた。
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