心機一転

文字数 3,185文字

 ケンジは翌日から心機一転、就活に動き出した。
 まず、バイト先に勤務地の変更を申し出た。もっと早い時間帯に変えてもらうためだ。就活のために、できるだけ日中の時間を長く空けようと決めたのだ。友子や木崎、課長さんとお別れなのは寂しいが、仕方がない。とにかく今は就職することに全力を尽くそう、そう決めたのだった。
 これでも良ければ、と薦められたのは、何と5時から9時までの勤務だった。ケンジは即OKした。
 それからケンジの4時起床生活が始まった。出かけるときはまだ真っ暗だが、朝の空気は気持ちよかった。
 バイトが終わると、毎日ハローワークに出かけた。もの凄い数の人が集まっている。それにまず驚いた。そして、求人は結構あったが、なかなか面接までこぎつけない。正直、目の前が真っ暗になりそうだったが、母の言葉を思い出し、勇気を振り絞った。
 ケンジは相談員の言うことをしっかりとメモし、帰りにはあえてオフィス街を歩いて、会社の建物や歩いている社員の雰囲気などを観察した。
 そして夕方にはトラクト配りだ。毎日続けた。
 こうしてあっという間に二週間が過ぎて、トラクトに書かれてあったコンサートの当日となった。
 この一ヶ月ちょっとの間に起こった様々なことを思い出しながら、トラクトを渡した人が誰か来ないかと期待しつつ、ケンジは受付の近くに立っていた。たくさんの人がケンジの前を行き来する。しかし、見たことのある顔はなかった。やっぱりトラクトを配るだけではダメか、そう思っていたときだった。
「林田さん!」
 誰かがケンジを呼んだ。見ると、なんと加地が奥さんと子供を連れて立っていた。
「課長さん!来てくださったんっスか!」
 二人は笑顔で固く握手した。
「いやー、林田さん。迷いましたが、来ちゃいました。前の時はひっそりとしていたけど、こんなにたくさんの人が集まるんですね。」
「ささ、中に入ってください。」
 ケンジは三人を礼拝堂に案内した。前の方の席が空いていたので、そちらに座ってもらった。ケンジも隣に座った。加地の表情が晴ればれとしている。前に別れたときは二度と会えないだろうと思っていたが、それでもケンジは加地のことが気になって、ずっと祈っていた。
 ひとしきりの会話の後、ケンジは恐る恐るたずねた。
「あの・・・、例の件は・・・。」
「青森に行くことにしました。実は明日、私だけ先に行っちゃうんです。」
「え?あ・・・、そうスか。」
「ケンジさんと話した後、まあ、随分と悩んだんですが、それでも少しスッキリした感じがあったんですよ。それで、思い切って家内に話したんです。まあ、さすがに家内も驚いて、どうしようか決めかねていたんですが、ある日、私が母に薬と水を持っていったんですけどね、その時、何と母にその水をぶっかけられましてね!バシャっと!びっくりしましたよ、ハハハ。どうやら母は、私たちの話を聞いていたみたいなんですよ。それで、バカタレ!何迷っているの!さっさと青森に行きなさい!そして青森で頑張って、実力で本社に戻って来なさい!そう言って、何とあの弱っていた母が自分で起きだしてきて、一人で老人ホームを探してきたかと思うと、さっさと入所しちまったんですよ。いやー、本当に驚きました。私たちの話なんて聞きやしない。どこにあんな力が残っていたのか。家族みんなあっけに取られましたよ。でも、もうそうなったら、青森に行くしかないですよね。とりあえず私が先に行って、様子を見てから後で家族を呼び寄せることにしたんです。」
「そ・・・、そうスか。すごいッスね。」
 話を聞きながら、ケンジの胸も熱くなった。
「林田さん、主人が本当にお世話になりました。ありがとうございました。」
「いや、そんな・・・。全然・・・、そんな・・・。」
 ケンジが頭をボリボリかいたところで、ブザーが鳴り、コンサートが始まった。
 チェロとピアノのコンサートだった。美しい演奏の合間に、チェロ奏者がどうやってクリスチャンになったかの証しがあり、牧師の説教があって、キリストが私たちの罪の身代わりとして十字架にかかられたこと、ここに神の愛があることが十分に伝わる内容だった。
 コンサートがまだ終わらないうちに、加地の息子の康一がいきなり立ち上がり、外に出た。ケンジは後を追い、話しかけた。
「どうしたの?」
「・・・。なんで父さんが青森に行かなきゃならないんだよ。しかもずっと行きっぱなしなんて・・・。おかげで俺達家族、みんな青森に行かなきゃならないんだ。俺、やだよ。青森になんか行くの。」
「うん。でもお父さんだって本当は嫌だと思うけど・・・。」
「じゃあ、行かなきゃいいだろ。」
「そうはいかないよ。分かるだろ?嫌なら、会社、辞めさせられるかもしれないし。」
「辞めたらいいじゃん。そんな会社!」
「そうしたら、君も学校に行けなくなるかもよ。」
「いいよ、別に・・・。やめて働くよ。」
「ハハ・・・、まあ、そういう選択肢もあるけど・・・。お父さんだって、会社、辞めようかって何十回も考えたと思う。でもおばあちゃんは、青森に行けって言ったんだろ?」
「おばあちゃんは社会のこと何も知らないんだよ!」
「そうかな。その逆じゃないかって思うけど。」
「・・・。どっちにしろ、父さんをこんな目に遭わせる会社は許せないよ!」
「ふ~ん。お父さんのこと、尊敬してるんだ。」
「いや、別にそんなんじゃないけど。でも、父さんはいつも朝早くから夜遅くまで働いて、たまの休みも、おばあちゃんの看病を一生懸命してた。そんな父さんがこんな目に遭うなんて、ホント、許せないよ!」
「そう。でも、お父さんが一番、許せないって・・・、思っている、はずだよね?」
 少年はうなずいた。
「でも、お父さんはそれでも行くって決めた。凄いじゃん。」
「家族の犠牲になったんだ。嫌々行くんだ。」
「それは違うと思うよ。」
「じゃあ、なんだよ。」
「チャレンジ・・・、じゃないかな。」
「チャレンジ?」
「そう。苦しんで、でも勇気を振り絞って、チャレンジする気持ちになったんだ。スゴイよ。」
「・・・。」
「ねえ、青森に行ってもがんばってるお父さんのことを、よーく見ておくんだ。そしたら、きっともっとお父さんのこと、尊敬できると思うよ。」
「そうかな。」
「そうだよ。もし、お父さんが疲れているような時は、君が声を掛けて、元気出して、がんばってって・・・、ね。」
 少年は、じっとケンジを見つめてから、下を向いて小さくうなずいた。
 コンサートが終わって、加地と奈津江が礼拝堂から出てきた。
「あ、あの・・・、二人で話してたんです。」
「そうですか。いやー、林田さん、素晴らしいコンサートでした。あの・・・、青森に行ったら、教会を探して、行ってみますよ。そのために、早速買っちゃいました。」
 加地はカバンから、今買ったばかりの聖書を取り出した。教会の売り本コーナーにあったものだ。
「え?もう聖書を買ったんスか!」
「はい。読んでみますよ。林田さんのことを思い出しながら・・・。」
「またまたそんな~。」
 二人は大いに笑った。奈津江も笑った。少年だけが、ポケットに手を突っ込んだまま下を向いていた。
「じゃあ林田さん、これで失礼します。本当にありがとうございました。」
 加地はケンジの手をしっかりと握って、深々と頭を下げた。
「いえ・・・、あの・・・、こちらこそ!」
 ケンジも精一杯、深く頭を下げた。加地の手の力がビンビン伝わってきた。
 三人の乗った車を見送りながら、ケンジは初めて、神様の力を感じた。自分がしたんじゃない、神様がしてくださったと、ケンジは思わざるを得なかった。それがケンジにはたまらなく嬉しかった。
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