トラクト配り

文字数 1,446文字

 翌日の土曜日も、廊下や事務室のワックスがけをするということで、ケンジは出勤した。早めに終わる予定が、パートのおばちゃん同士がモメてしまい、終わったのは夜の七時になっていた。ケンジは疲れ果て、足を引きずるようにして歩いていた。
 するとまた、あの教会の前でトラクト配りが行われていた。
 ケンジは今日も黙って受け取った。
「すごいな。毎日。」
 その時ふいに、あの皿洗いをしている牧師婦人の顔が思い出された。みんな、目立たない、地味な働きを黙々とこなしている。神様を見上げて。それに比べて自分はどうだ。悲しくなったり、困ったときは神様に祈るくせに、何もしていない。いくらなんでも都合が良すぎるんじゃないかと思った。かといって何をすればいい?俺に何ができる?分からない。俺なんて、大したことができるはずない。神様も期待してないだろう。ケンジはその日も、トラクトをゴミ箱に捨ててそのまま帰った。

 翌日の日曜日。ケンジは朝起きられず、礼拝に遅刻した。にも関わらず皆からにこやかに迎えられ、後ろのほうの席に静かに座った。牧師の説教の間、ケンジはずっと寝ていた。説教が終わって報告の時間、一人の大学生くらいの女性がトボトボ前に出て話し始めた。
「あのー、今度のコンサート礼拝に向けて、チラシとトラクト配りをやりたいと思いますので、お手伝いしてくださる方は、この後ロビーに集合してください。」
 何?トラクト配り!ぼんやりしていたケンジの頭が一気に覚めた。これにはさすがのケンジも、神様の働きかけを感じずにいられなかった。これはやらなきゃダメじゃないか、さすがにこれは・・・。不安もあったが、もしやってダメならやめればいい、そう思って、ケンジは決然と集合場所のロビーに向かった。

 もちろん、ケンジはトラクトを配ったことなどない。最初はトラクトを差し出すのが怖くて仕方なかった。できれば人通りの少ない所に立ちたかったが、みんなで手分けして近くの交差点に立った。どんどん人が通りかかる。配らないこともできたが、トラクトを持ちながらボ~っと立っていると、何だ、配らないのか、という目で見られる。それはそれで恥ずかしい。もう勇気をもって差し出すしかなかった。
 最初の十人くらいは誰も受け取ってくれなかった。完全に無視して通り過ぎていく人ばかりだ。もうやめたいと思った時、一人のサラリーマンが歩いてきた。日曜の昼に仕事だ。少しくたびれたスーツ姿に、深いしわを眉間によせ、平らなカバンを持って下を向いて歩いてくる。疲れきってイライラしてそうなその顔を見るとトラクトを差し出すのは怖かったが、なぜか近づいた時、スッと差し出せた。そしてなんと、その男性はトラクトを一瞥し、サッと受け取ると、
「ありがとう。」
と言ってくれたのだ。ケンジはその後ろ姿を見ながら心の中で叫んでいた。
「やたっ!ありがとうございます!」
 続いて、自転車を押しながら歩いていた中年の女性も、トラクトを見ながら聞いてきた。
「へ~、教会って、どこにあるの?」
「あ・・・、ここっす。」
「あ、ここ。へ~。今度、来てみるわ。ご苦労様。」
 笑顔で話しかけてくれたのが、たまらなく嬉しかった。
 結局その日は、三十分で五枚くらいしか受け取ってもらえなかったが、それでも不思議な満足感があった。
 終了後、みんなで教会に戻って、感謝の祈りを捧げた。そしてお茶を飲みながら今日の経験をみんなで談笑した。教会で、久しぶりに味わう充実感だった。
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