ケンジ

文字数 2,095文字

 ケンジは、駅までの道をフラフラと歩きながら、子供の頃のことを思い出していた。
 四、五歳の頃から、一人で遊んでいることが多かった。たまに仲間とかくれんぼをすると、自分だけ隠れたまま、みんな帰ってしまうことがよくあった。
 小学生になると、自分が何をやっても人より劣っているとはっきり自覚した。勉強にしても、スポーツにしても、ケンジはできるようになるまで時間がかかった。だから、人一倍がんばった。勉強も、家で毎日予習、復習を欠かさずやった。それでも、人より抜きん出ることはなかった。それだけやってやっと人並みなだ。落ちこぼれることはなかったが、必死でやってやっと人並みなのである。だから、クラスメイトがほとんど勉強もせずにそこそこの点を取るのが信じられなかった。運動も可能な限り家で練習した。
 そんなケンジが、密かに恐れていたことがあった。それは、大人になるということだった。
 子供の間は、努力している人間はわずかだ。だからケンジにも追いつく余地があった。しかし大人になって社会に出て、みんなが必死で走り出すと、もうケンジは追いつくことができない。その時はどうなるのか、ケンジは物凄く不安だった。
 その不安は、就職活動の時にいきなり現実となった。ケンジが全く自分を出せない間に、周りはどんどん内定をゲットしていった。
 結局、何十社も応募したにもかかわらず、ケンジは就職できなかった。
 そんなケンジが、これまで大きく道を踏み外すことなくやってこれたのは、かろうじて自分がクリスチャンであるという自覚があったからだ。しかし、神様を信じているかどうか、時々疑わしくなる。
 ケンジは父親を知らない。物心ついたときから母親と妹と3人で、日曜日には教会に通っていた。母はやさしく、篤い信仰を持っていた。いつも母は祈っていた。時には泣きながら祈っていた。ケンジは母親が働いているか、寝ているか、祈っている姿しか見たことがない。母親の信仰をケンジは今でも尊敬している。理沙も、いつも教会で楽しそうだ。明るく活発な理沙は、教会でも人気者だ。
 ケンジも小学生のときは何も考えずに楽しく教会に通っていた。しかし中学生の頃からだんだん行かなくなり、高校のときはクラブを理由にほとんど行かなくなった。母や妹には後ろめたい気持ちもあったが、正直、教会に行っても楽しくなかったし、周りに追いつくために、日曜日は貴重だった。
 そんなケンジも、大学に入ってからまたポツポツと教会に通いだした。自由でユルい大学生活で、友達も作れず、暇を持て余したというのもあるが、いつでも温かく迎えてくれる教会で癒されたいというのもあった。
 地味で孤独なケンジの大学生活は、あっという間に終わった。つい最近のことなのに、ケンジは大学時代に何をやっていたのか思い出せない。勉強も、遊びも、バイトも、教会も、どれも中途半端だった。そしてやっぱり何をやっても、ケンジは人より時間がかかった。

 駅の改札を出て、ケンジは立ち止まった。   
 夜十時を過ぎても、駅前はたくさんの人が行き交い、家路を急いでいる。しかしケンジは、なかなか一歩を踏み出せなかった。
 ケンジは、「行かないんですか?」と聞いた時の友子の美しくも悲しげな表情を思い出した。その表情に魅せられて、愚かにも飲み会に行ってしまった。デート気分を味わえるという理沙の言葉に胸がときめいたのも事実だ。しかし現実に起こったことはいつも通り、違いを思い知らされることだけだった。すぐ近くにいて、年齢もそう離れていないと思うが、ケンジは友子との物凄い差を感じた。そして思わず嘘までついて見栄を張り、それもあっさり否定された。
「俺はやっぱりダメだな。」
 心が押し潰されそうになったとき、ケンジは静かに目を閉じて、祈った。
「神様・・・、神様・・・。」
 言葉にならなかった。ひたすら、暗闇の中に神様を呼び求めた。
 祈り終わって目を開けると、少し心が晴れたのか、ケンジは再び歩き出した。そして五分ほど歩いたところで、急に声を掛けられた。
「はい、どうぞ!」
 チラシが差し出され、驚いてケンジは立ち止まった。
 見ると、四十代半ばくらいのおばさんが、ニコニコしながら、ケンジにチラシを差し出していた。
 ケンジは、黙って受け取った。見ると、トラクトだった。トラクトとは、キリスト教会で伝道用に用いられる印刷物で、冊子形式のものもあれば、このようなチラシのようなものもある。目を上げると、十字架が夜空に向かってそびえ立っていた。こんなところに教会があったのか。今まで気付かなかった。
「興味、おありですか?」
 おばさんが、一歩近づいてきた。
「いや、別に・・・。」
 ケンジはササっと足早に歩いて、少し離れてから、後ろを振り返った。もう十時も超えているのに、教会の前で、五、六人がトラクトを配っている。あまり受取ってもらえないようだが、懸命に配っている。
「なんと真面目な・・・。」
 ケンジは少し心引かれたものの、トラクトをクシャクシャに丸めて、近くのゴミ箱に捨てた。
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