言えない

文字数 978文字

 加地は食卓で一人、遅い夕食を食べていた。妻の奈津江は後片付けを終え、加地の前に座って家計簿をつけている。高校生の息子の康一は自分の部屋でパソコンをカチカチやっている。
「あなた、疲れてるんじゃない?」
「・・・大丈夫だ。それより、お袋は今日、どうだった?」
「別に。ただ、ちょっと咳きこんだ時にもどしちゃったみたいで、少し苦しそうだった。風邪を引いたかも。ひどくならないように、明日お医者さんに診てもらうわ。」
「ああ、すまない。」
 加地は一口味噌汁を飲んで、箸を置いた。
「ごちそうさま。」
「もういいの?随分残ってるじゃない。」
「もういい。」
「ねえ、本当に疲れてるんじゃない?ちょっと顔色も悪いし。」
「大丈夫だ。」
 加地は立ち上がって、母の寝室をのぞき込んだ。年老いた母が仰向けに、口を少しあけて、静かに寝ていた。息をしているか確認したくなるほど静かだった。
 加地は再び、奈津江の前に座った。
「なあ・・・、お袋もそろそろ・・・、施設に入れることも・・・、考えたらどうかな・・・。」
「え?」
 奈津江は驚いて顔を上げた。加地は視線を落としたままだ。
「施設って・・・。あなたあんなに母さんは自分で面倒見るって言ってたじゃない。」
「ああ。しかし・・・。」
「しかしって・・・、あ、ひょっとして、私のことを気遣ってくれてるの?」
「ん?んん・・・、まあ・・・。」
「ありがとう。でも大丈夫よ。私はそんなに大変じゃないし、まだまだ頑張れるわ。だから、あなたは何も気を遣わないでいいから。今までどおり、仕事を頑張ってくれればいいから。ね、施設に入れるなんて言わないで。」
「うん。しかし・・・」
「いいって。私、あなたが『俺は母さんを絶対施設なんかに入れない』って言った時、ちょっと感動しちゃったの。こんなご時勢でしょ。偉いな、さすがお父さんって。私も同じ気持ちよ。それにお義母さん、体は弱ってきてるけど、気持ちはしっかりしてるし、私の言うこともよく聞いてくださるので、あまり手はかからないの。だから、本当に気を遣わなくていいから。施設に入れるなんて言わないで。」
「うん・・・。」
 奈津江は再び家計簿に目を落とした。加地は下を向いたまま、それ以上何も言えなかった。どう話を切り出すか色々と考えていたものの、結局、それ以上何も言えなかった。
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