苦戦

文字数 2,555文字

 ケンジの方も苦戦が続いた。いくら書類を送っても、面接にさえ至らない。ケンジはハローワークの相談員に勧められていた職業訓練を受けることにした。
 見ると、IT関係、フィナンシャルプランナー、機械、建築などの技術系のものなど様々あったが、とても自分が勤まるとは思えないものばからいだ。唯一、かろうじて自分でもできるかもと思ったのは介護系の仕事だった。おじいちゃん、おばあちゃんのお世話をするくらいしか分からなかったが、他に選択肢は見当たらなかった。
 ハローワークの相談員の人も、介護職は常に人手不足なので就職しやすいと勧めてくれた。ただ、給料が少ないことや、想像以上にきつい仕事であることは念を押された。
 家に帰って、ケンジは祈った。安心して行きなさい、そう言われているような気がして、ケンジの心は固まった。
 トラクト配りは、ずっと続けていた。たまに理沙も加わった。ケンジにとって、これはもう自分の責任のように思われた。ひとりだろうが雨だろうが、やりたい、やらなければという気持ちになっていた。
 差し出すタイミング、声の掛け方も板について、
「ティッシュ配りなら、相当いいお給料もらえるかもよ。」
と理沙にからかわれるくらいだった。
 それと、友子について祈ることも続けていた。まだ少し未練があるのかもしれない。ただそれより、あのように誠実な友子が仕事で苦しんでいるのを放ってはおけない気持ちが大きかった。
 数日後、ケンジは初めて介護職基礎研修というものを受講した。最初は講義が中心で、朝から夕方までびっしり、1週間ちょっと続いた。その後、実技・演習が始まった。
 実技となると、ケンジはやはり緊張した。一列に並んで、順番に習ったことをやってみる。否が応にも小学校時代の体育の飛び箱を思い出した。そしてやはり、ケンジは不器用で、なかなかうまくいかなかった。それでも飛び箱と違うのは、誰も笑ったり、からかったりしないことだ。ケンジは集中して、できるまで何度も繰り返した。
 やっていくうちに、この仕事の大変さが徐々に分かってきた。この仕事は相当キツい。 もうひとつ、ケンジが気付いたことがあった。それは、ここに来ている人の全員がヤル気を持って臨んでいるのではないということだ。参加者の中には、ケンジよりも若い青年もいた。茶髪の長髪、並ぶのはいつも最後尾、講師から何を尋ねられても答えない。休憩時間にはプイと外に出て、ぎりぎりまで帰ってこない。
 また、女性の中にも、経験者なのか、実習は難なくこなすが、明らかにやる気のない人たちがいた。友人と休憩中に大声でところかまわず講師の悪口や教室・設備の不満をぶちまけていた。これもなんとも不愉快だった。ケンジは自分が目指している介護職の現実を見た気がした。そこは愛のあふれる楽園ではなさそうだ。ケンジは怖気づいたが、以前のように逃げ出すことは考えなかった。他に選択肢はない、神様がきっと助けてくださるだろう、と開き直れた。
 二週間ほど経ったある日、急に面接の連絡が入った。幸い、面接が夕方だったので、講習が終わってから駆けつけた。すると、ほんの二十分程話しただけで、明日からでも来てほしいと言われた。どうやら、突然社員が辞め、急いで人を確保する必要があるようだ。職種は、ケンジがバイトをしていた清掃業。もちろん正社員なので、実際に清掃作業をすることはなく、業務管理、アルバイト管理が主な業務らしい。夢にまで見た正社員の道が、あっさりと手に入ることになった。条件も悪くない。しかし、ケンジはためらった。果たしてこれでいいのか。ケンジは返事を保留させてほしいと頼んだ。
「うちも急いでいるから、返事があった時には他の人に決まっているかもしれないよ。」
 ケンジは内心ギクッとしたが、それでも構いませんと言って、会社を後にした。
 帰ってから母さんや理沙に相談してみよう、そう思いながら駅のホームで電車を待っている時だった。反対側のホームから、一人の年老いた女性が降りてきた。足が悪いのか、歩くのが遅く、周りの人がどんどん横をすり抜けていく。ケンジは何とはなしにその老人を見ていた。すると、階段を下りようとしたところで、その女性は立ち止まってしまった。しばらく休んでから、手すりを握り、一歩、また一歩とゆっくり下りていく。四、五段下りたらまた止まってしまった。ケンジはその姿を眺めながら、ハラハラしてきた。たくさんの人が横を通り過ぎるのに、誰一人声を掛けない。大丈夫ですかと声を掛ける人は誰もいなかった。ケンジは声を掛けようかどうか迷っていた。無視されたり断られたりすることは、トラクト配りで慣れている。しかし、講習で実技を多少習っているとはいえ、もし手を貸して何か事故でも起こったら・・・。自分が声を掛けなくても誰も気付かない、誰も責めない。しかしその時、ケンジは突然、自分が清掃のアルバイトをしている時のことを思い出した。誰も挨拶してくれない、あの淋しさ、あの悲しさ。そして、友子が挨拶してくれた時のあの嬉しさ。それを思い出した時、ケンジは意を決して女性に近づき、声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、ありがとうございます。大丈夫ですよ。」
「失礼します。」
 ケンジはかがみ、彼女の手を自分の肩にかけ、腰の辺りに手を置いた。軽い。それが第一印象だった。ケンジは相手のペースに合わせてゆっくり階段を下りた。ケンジが介添えしてから、二人は一度も休まずに下まで降りることができた。
「ありがとうございます。」
 彼女は満面の笑顔で丁寧に頭を下げた。そして、すっと目の辺りを指でぬぐった。泣いている・・・、ケンジはペコペコ頭を下げながら、申し訳ない気持ちだった。彼女はそのまま改札を出て、ゆっくりと出口に向かって歩き始めた。ケンジはその後姿をずっと眺めていた。
 電車の中で、ケンジはずっと考えていた。清掃の正社員の仕事か、介護の仕事か。条件を考えると前者だろう。しかし・・・。
 ケンジは祈った。そして電車を下りて、ケンジは清掃会社へ断りの電話を入れた。
 そうこうしているうちに、あっという間に一ヶ月が過ぎ、ケンジは無事に介護職基礎研修を終了することができた。
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