異動

文字数 1,290文字

 翌日、ケンジは廊下を清掃しながら、課長さんが来るかどうか気になっていた。昨日のあの表情を忘れることができなかったのだ。しかし結局、課長さんは来なかった。代わりに、友子が荷物を持って階段を下りて来た。
「あ・・・、おはようございます。」
 ケンジが挨拶した。何か沈んだ感じだった。
「どうしたんスか?」
「私、なぜか今日から営業部に異動になったんです。」
「え?ああ、そうっすか。」
 こんな時期に異動があるのは、極めて異例なことだが、そんなことをケンジが知るはずもない。ただ、営業部の人たちの顔つきが、以前にも増して険しくなっていることだけは気づいていた。ケンジが挨拶しても誰も返事をしない。見向きもしない。部屋から話し声が全く聞こえない。何か近寄り難い、緊張した雰囲気が伝わってきた。
「よオ!」
 木崎が出社してきた。
「あ、おはようございます。」
「ケンジ、今度また、飲みに行こうぜ!ガッハッハ。」
「あの、木崎さん・・・」
 ケンジは思い切ってたずねた。
「なにか、職場の雰囲気、悪くないスか。」
「ああ。」
 木崎は頭をかいた。
「まあ、色々とな。俺みたいにテキトーな人間じゃねえと、この会社じゃ勤まらねえな。」
 木崎はカバンとスポーツ紙を片手に事務室に入っていった。
 始業時刻になって、課長補佐から異動の紹介があった。友子が紹介され、担当と座席も発表された。友子はなぜ自分が異動になったのか聞きたかったが、それを飲み込んだ。がんばろう、と自分に言い聞かせるようにつぶやいたが、同時に、何ともいえぬ疲労感と心が凍りつく感覚がじわじわと襲ってきて、たまらなく不安になった。

 その頃、加地は営業部長の部屋にいた。アポなしでの訪問だった。アポを取っても会ってもらえないと思ったからだ。部長は少し驚いたが、加地をソファに座らせた。
「加地。随分やつれたな・・・。」
 加地は何も言わず席を立つと、土下座をして、床に頭をこすりつけた。
「部長!どうか・・・、どうか五年で帰してください!」
「・・・。」
「部長!お願いです!私には、年老いた母がいるんです!とても・・・、とても青森まで連れて行くことはできません!どうか・・・、どうか・・・五年・・・、いや、七年でも構いません!必ず帰すと約束してください!」
 部長はしばらく黙っていたが、おもむろに立ち上がり、窓の外を眺めた。
「・・・すまん。その約束はできん。」
「な、なぜですか。なぜ私が青森に・・・。」
 加地の目から涙があふれた。
「率直に言うが、俺にも分からんのだ。理由は教えてもらえなかった。何か大きな力が働いたのかもしれん・・・。」
「部長にも・・・。」
 それから会話が途絶えた。時折、加地の鼻をすする音が響く。
「・・・断るのか。」
「え・・・」
「青森への出向を断るのか?会社員である以上、辞令を受けるか、断るか、二つに一つしかない。断れば、会社に残れるという保証はないが・・・。」
 加地は、顔を上げて部長を見た。部長は加地に背を向け、窓の外を見ていた。涙でにじむ目で、加地は部長の背中を見続けた。
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