氷結

文字数 942文字

 「ただいま。」
 友子は激しい疲れを感じながら帰宅した。台所には誰もいない。母はもう寝たようだ。
 いつものところにバッグを置き、いつものところに上着を掛けて、ソファに深々と身を預け、目を閉じた。
「・・・、ハア・・・。」
 疲れた。こんなことが起こるとは・・・。加地の顔が眼に浮かぶ。しかし不思議なのは、以前ならもう少し怒りや悲しみといった感情が沸いてきたはずだが、今はない。以前は会社で理不尽なことがあると、上司に対しても面と向かってハッキリ意見したものだ。ところが今は全く違う感情が支配してしまうのだ。
 心が凍りつく。そうとしか表現しようがない。
 そしてそこから、異様な、悪魔的な、恐ろしい考えが次々と沸きあがり、異常な疲労感に襲われるのだ。しかも最近、それが頻繁に起こるようになってきた。それがたまらなく不安で恐ろしかった。
 友子は立ち上がり、母の寝室をのぞいた。
 静かな寝息の枕元に、ビールの空き缶が二本転がっていた。
「また飲んでる・・・。」
 寝室の奥の父の仏壇には、きれいに花が供えられていた。
 父が死んだのは三年前。それまでは、友子の家庭は平和だった。
 父は厳格な人だったが、優しかった。友子は父が大好きだったし、母も父を信頼していた。世のため、人のためになれと常に口にしていた父を見習い、友子も背筋をピンと伸ばして生きてきた。周りがどうであろうとまっすぐに歩んできたつもりだ。
 ところが、その父が半年の入院の後、あっさりと死んでしまってから、家の中はすっかり変わってしまった。
 初めの頃は母も気丈に振舞っていたが、徐々にふさぎこむことが多くなり、ほどんど飲まなかったお酒も飲むようになった。泣いたり、愚痴を言ったり、友子につらく当たったりするようになった。
 そんな母を支えてあげなければならないことはよく分かっているが、友子の心にも何か恐ろしいものが居ついてしまっていた。父を失った悲しみとは別の何か。心を凍りつかせるような何か。それに対して、友子はどうすることもできなかった。
 母の寝顔を見ながら、友子はこう思わずにはいられないのだ。
「母さん。死ねばいいのに。なんなら、私が殺してあげようか。そうしたら、私も死ぬことができるのに・・・。」
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