第30話

文字数 4,500文字

 初恋、あるいは玻璃の呪縛 16

 左近将監(さこんのしょうげん)宗茂はあと一段で、石段を登りきるところまで来ていた。太陽を隠していた羽毛布団のような白雲の塊がそのとき、二つにちぎれて動き出した。その端にできた割れ目からお日様が顔をのぞかせた。陽光がさっとスポットライトのように射して、多門口の野面積みの石垣の、幕末の戦いで燃えて黒くこげた痕の辺りを照らした。眼の端にとらえたその陽だまりが、ハッとするほど暖かく感じられた。それが彼のなかの何かを解かした。そんな気がした。一呼吸おいて、何かが解けて揮発した分だけ、自分が軽くなったと感じた。
 この狭い石段で玻璃姫の愛娘と鉢合わせしたのを機に、彼女の顔や黒い瞳の奥にうかぶ母親似の表情に導かれて、玻璃姫との三十数年前の恋愛を想い出し、想像の中でその日々を生き直した。そうすることで、今やっと、二人の気持ちを真に確認することができたのかもしれない。
 失敗はしたけれど、間違いなく二人はお互いを大事な人だと思い、守りたいと思っていた。そして、今ようやくあの別れの哀しみと傷の痛みを真に受け止めて、姫とは何者だったのかを自分なりに理解したのかもしれない。自分のなさけなさとふがいなさも、改めて痛いほど知った。二人は似た者同士、弱虫だった。姫はそれでも、あの昭和の不器用な恋を成就させようと自分よりも何万倍も頑張ったのだ、と認めることができた。頑張り屋さんだった。今さら分かったのかと非難されそうだが、とにかくそれは目から鱗的な新鮮な発見だった。一生懸命努力してもどうにもならないこともあるよね、と笑って思ったとき、改めて呪縛から解き放たれたのを感じた。
 ホッとした。けれど、宗茂は「いや待て」と思い直した。解けた呪縛をそのままポイ捨てしてしまうのがあまりにも勿体ないと思われたのだ。不思議な気持ちだった。そうだ、すすんでこの空気の抜けた呪縛とたわむれて、そう遠くない死の瞬間まで生きていくのもそれほど悪くない余生ではなかろうか、と思った。それは、軽やかな決意であった。
 三人は石段を登り切った。宗茂は前を向き、もう振りかえることも玻璃姫を探すこともしなかった。三豆城本丸跡の広場には、高く伸びた黒松の巨木の下に、枝を長く横に広げた桜の木がたくさん植えられている。三月末には満開となり、桃色のかすみ雲の下、花見客でごったがえす。今は裸のその枝を、牙の抜けた玻璃姫の呪縛と一緒に余生を生きていこうとの決意を胸に見上げた。と、その枝に、ぽっと一輪の花がひらいた。そう見えた。そして、その光る白桃色の花から「初心忘るべからず」という世阿弥の言葉が、ひらりと離れて落ちて、頭に入った。そう感じた。その言葉は玻璃姫のいる空のどこかで生まれ、光る花を通して降りてきたようでもあった。
  ああ、姫は初恋であり、まさしく初心だ、と気づいた。初心とは正しく初恋の心のことなのだと分かった。相手を大事に思うこと、愛おしく思う人と手をとりあって一つの夢に向かって歩いていくこと、これこそ初恋の心、初心だ。そうか、「初心忘るべからず」とは、人を大事に思う心をとり戻せ、そして、あのころ姫と一緒に見ていた夢、あの頃の決意を思い出し、ヤマの子どもとして小説を書くことにもう一度挑戦せよ、ということなのだ。励まされた気がした。よし、分かった、玻璃姫の呪縛を胸に抱いて、やり直してみよう、か。
 三人のメグラー(城巡りをする人)がたどり着いた本丸跡の広場も、正月の人出でごった返していた。桜の裸の枝の下を、彼らは本丸の東の奥に向かって歩いて行く。そこには、昭和三十年代に再建された復興天守がどっしりと尻を据えていた。
「破風がいやに大きいですな。すごく眼を引くでござるな」と、尼子筑前守さんが言った。巨大な破風に違和感を感じ、すんなりとそれを受け入れられないような様子である。
 宗茂は、さすがは城めぐりの猛者、尼子筑前守さんだ、分かる人には分かるんだな、と思った。
「あの大きな三角屋根は、本来はなかった贋物ですからね」と宗茂は苦笑して言った。「本来の天守の形式は、四方葺き下ろしで華やかな破風や入母屋屋根を持たない、簡素な層塔型天守だったようです。最上階部分は上半分、下半分の二段に分かれ、その間に屋根がなく、上半分が下半分よりも半間ずつ四方に張り出した黒板張りの望楼型天守の形式を残していたそうです。そして、最上階の廻縁が屋内に取り込まれた珍しい構造が「唐造り」と呼ばれたのです」
「だから、三豆城の本来の天守は、望楼型と層塔型の特徴を併せ持った折衷型と言われているんですよね」と夜討之大将さんが割って入る。
 そうですね、と宗茂は受けた。「それなのに、『各重に破風がないのは天守らしくない、破風がなくては観光客を惹きつけられない』との、お偉いさんの横やりが入って、鉄筋コンクリート造りの復興天守として建設されたとき、元の天守になかった、あんなぶざまな破風が付けられたのだそうです。あんなのがなかったら、きっと、四角い箱を五つ積み重ねたようなシンプルで形の良い層塔型の天守が見れたのに」
「よくありますよね、こういうの、全国に」と夜討(ようち)之大将さんが言葉をはさんだ。「見栄え優先で、歴史的真実は無視して、とにかく派手にする手合いが多くて」
「困ったもんですな」と尼子筑前守さんが受ける。
「お二人はよく分かってらっしゃるけれど」と宗茂は続けた。「観光で訪れる皆さんにも、解説版などでよくお知らせして、タダオキ公が心をこめて手がけた層塔型天守の最上階に望楼型天守を組み合わせた折衷様式の天守の勇姿にも思いをはせていただきたいものですよね」
 本当にそうですね、と夜討之大将さんと尼子筑前守さんが熱心に賛同してくれる。
「思いをはせるときに参考になるのが、長崎県の島原城ですね」と宗茂の口はいつになく軽やかだ。唇も解き放たれたのか。「あの天守も破風を持たない独立式層塔型五重五階の天守ですからね。白いスッキリとした立ち姿が凛々しくて、恰好よくて、夜ライトアップなどして、いま人気ですからね」
 そうですか、拙者は見たことがなくて残念でござるが、と尼子筑前守さんが心底くやしそうに言った。「こんど絶対に行ってみますよ」
「あれこそ歴史です、すばらしい」と夜討之大将さんが重みのある声で言った。
「そうですよね。お城というものの本質は歴史ですからね。そこで歴史の声を聞くのが城めぐりの本来的な在り方ですよね」宗茂は少し熱くなりすぎているのが自分でも分かった。「観光資源にしてはいけないとは言いませんけどね、見栄や、観光客を集めてお金を落としてもらうために、歴史を変えていいとは絶対にならないと思うんですよね」
 そのとおりでござる、と尼子筑前守さん。
「まあ、とにかく記念に写真を撮りましょう」と言って、宗茂は胸に下げた一眼レフのデジタルカメラを持ち上げた。「さあ、お二人さん、その辺に並んでください」
 写真を撮り終わって、三人で天守閣のほうに歩きだしたとき、後ろから声をかけられた。
「すみません。失礼ですが」走ってきたのか少し呼吸が乱れていたが、玻璃姫の声だった。姫の声だ、と思った。けれど、本当は姫の声など覚えていないのだ。思い出そうとしても、どうしても記憶の穴底から出てきてくれないのだ。なのに、その娘の声を瞬間的に玻璃姫の声だと聞き取ったのだった。それが真実の声だとは実のところ自信はないのだけれど、宗茂にはその真偽はどうでもいい事だった。ついさっきまでの彼の失礼な態度をとがめるような、少々きつい口調だったが、ああお母さんそっくりの声と口調だとなつかしく思った。
 振りかえりざま宗茂は、姫の愛娘の言葉に被せるように次を言わせずに言った。
「声も、お母さんによく似てらっしゃる」
 えっ、と娘は驚く。
 宗茂は二人の城友に、先に天守閣に行っていてくれるように促し、歩き出すのを見送ってから、娘のほうに向きなおった。
「姫は、残念でした。まだ若かったのに」と宗茂は言った。「あなたのような素敵な娘さんもいて、これからまだまだ楽しい人生がおくれたでしょうに、本当に残念でなりません」
 姫? と玻璃姫の愛娘は誰にともなく問う。けれどすぐに曇った表情を吹きけして、ふっと笑顔になると「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。
 いい笑顔だ、玻璃姫の笑顔だ、と宗茂はなつかしくて涙が出そうになった。けれどぐっとこらえた。無理に笑顔を作って、「こちらこそ、ありがとう」と返した。その言葉は眼の前の娘と、その娘の中に今も生き続けている玻璃姫に言ったのだった。
 宗茂の笑顔を見て、娘はあっとごくごく小さい声を上げた。何かを思い出したようだった。娘は唐突に、失礼とは重々承知していますが、どうか教えてください、母とはどういうご関係でしょうか? と訊いた。
 宗茂は言葉を呑みこみ、何も答えなかった。
「あなたは、あの、区役所発行の文化情報誌に掲載されていた写真の方? ですよね」気になって仕方がない様子だった。「あの、子どもたちに囲まれて笑顔いっぱいの、カメラの人ですよね」
 何ですか、それは、と宗茂は平たく訊きかえした。
「あっ、写真といえば、クリスマスの夜に撮ったらしい母とある若い男性の写っている写真が出てきたんです、パールのネックレスの下から」唐突に言ってしまって、彼女はすぐに、なぜきょう初めて会った人にこんな関係のないことを話したりしたのか、と後悔するふうだった。小さく声をしぼませて、それでも訊ねていた。「何か心当たりはありませんか?」
 さあ、何のことやら、と宗茂はとぼけた。姫はあの写真をずっと持っていたのか、と胸がつまるとあわてて、「今日はここまでにしておきましょう」と言った。さっきまで一緒にいた彼氏が、こちらに歩いてくるのを幸いに、「ほら、お友だちが来ましたよ。娘さん、もう仲直りはしたのですか?」とやさしく声をかけた。
 えっ、と振りむいて彼女は彼氏を確認し、また顔をもどすと、にこりと笑って「お恥ずかしいところを見られてしまったようですね」と言った。
「娘さん、ほんとうに姫の分まで幸せになってください」
「母は、入院中こっそり、あなたの写真を見て…」とだけ娘は言った。
 宗茂は静かに笑って口を閉ざしていた。
 さいごに一つだけお訊きしてもいいですか? と娘はまた唐突に言った。「お母さんはどんな人でしたか?」
 宗茂は、言外に「あなたにとって」「あなたといっしょにいた」お母さんはどういう人だったのかという問いが含まれている、と聞きとった。
 大きな灰色の雲は風に流されて去り、空はまた薄青く晴れわたっていた。ほんわりと少しだけ空気も温まったようで、裸の桜の枝から薄桃色の香りが降ってでもきそうに感じられた。宗茂はその空を見上げ、一呼吸おいてから呼びかけるように言った。
「がんばり屋さんで、すばらしくかわいい人でしたよ、リエさんは」
 娘ははっとして宗茂を見つめた。数秒後、梅の花がほころぶようににこりと笑った。

                         完
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