第2話

文字数 2,794文字

 太陽みたいな笑顔  ——玻璃姫(はりひめ)の叛乱 検査入院・二日目

 えーえ、何これ、子どもたちに囲まれたあなたの笑顔、太陽みたいネ。
 シャクだけどまぶしい。
 ふーん、市民子どもセンターって書いてあるワネ。そこで、子どもたちに何か教えているところなのネ。あなたは広告会社のカメラマンだったし、いまも手にデジタル一眼レフのカメラを持っている。子どもたちはみんなコンパクトなデジカメを持って、机の上のパソコンを囲んでいるから、きっとカメラの撮影方法とか画像の加工編集とかを教えているのネ、この写真は。
 でも、この笑い方、作り過ぎじゃない? あ、私ぜんぜん変わってないわネ、余計な皮肉をつけくわえるクセ。でも正直、あなたはこんな笑い方をする人じゃなかったわよネ、あの頃の尖ったあなたは。
 あなた、笑っているかしら。
 病院の一階のホールで何気なく手にとった、区役所発行の文化情報誌に載っていたあなたの写真。開いたページに、まるで知らないおじさんの笑顔の写真があって、ホント誰だかわからなくって、自然にスルーしかけたの。
 正直いって、あなたはもう遠い遠い過去の人。いまはあなたのこと何とも思っていないし、正直いって顔も声も、唇や指の感触も、何にも思い出せないの。顔を思い出そうとすると、何なのかしら、黒く尖っている石炭のイメージが浮かぶの。
 ただその写真の下に、あなたの名前が印刷されていたので、すこし間隔をおいて、ああ、あなたなんだと判ったくらいなのョ。ついでに云うと、こんな丸く角のとれたおじさんを、私はなんであんなに好きになったんだろう、とがっかりした。話がちがうか。
 なのになぜなの、わざわざ情報誌を病室に持ってかえって、いつのまにか写真のあなたに話しかけている。
 私は個室の病室のベッドに座って、顔も思い出せない、あなたの写真を見て話しかけている。
 聞いて、私、すい臓癌なの。末期なの。
 胃がもたれて食欲がなかったので、掛かりつけの個人病院で診察をうけた。レントゲン検査をしてもらったら、「すい臓に水が溜まっていますね」と云われ、大きな病院へ行くように紹介状を出された。
 医療センターでCT検査をうけたら、すい臓癌が発見されたの。末期で「至急入院 即手術」と告げられた。
 瞬間、目の前の世界が消し飛んでしまったわ。先生の顔がもどってきても、信じられなかった。なぜ私なのと絶望した。すい臓がんは助からないことの方が多いと聞いたことがあったので、わたし死ぬのかしらとこわかった。
 治療方針を決める確定診断を行う検査のために、昨日から入院したの。今もくるってしまいそうなくらいこわい。
 きょうは、血液検査をした。十日後、どんな「告知」があるか、手術ができないほど悪くて余命何か月です、なんて云われるかも、悪い方にばかり想像して、気持ちがオチにオチる。私、この不安に耐えられるかしら? あなた、どう思う?
 あなたはホントに無神経ネ!
 ごめんなさい、私は何を怒っているのかしら。
 私どうして、またあなたに怒鳴ったりしたのかナ。あなたは私にとっていないに等しい人なのに。あなたのことを懐かしいとも、会いたいともぜんぜん思わないし、顔も声も何にも思い出せないんだモノ。
 でも、思い出はぼやけた白黒だけど、やっぱりあのころの日々はまぶしく懐かしい。
 あの日々を思い出していると、目の前の不安を忘れさせてくれる、そんな気もするワ。だから、勝手に私の底からあふれてくる。心の底をかき回し、思い出をぽんぽん投げ上げている何かが、私の中にいるの。
 たしかに私の中には、ちいさなガラスの棘がいまも刺さっている。
 もう、ぜんぜん痛くもかゆくもないし、ただ何年かに一回くらいふとしたひょうしに、その存在に目をむけるけれど、すぐに忘れてしまうような細い棘なのだケド。
 三十数年前のあのとき、私は叛乱から降りた。
 気づいたらエアポケットに落ちたようになっていて、笹船が流されるように逃げていたので、何日かは悲しいとか何とも感じなかった。ケド、少したってから、私は自分の不甲斐なさとあなたへの申し訳なさに押しつぶされて、七日間、布団にもぐって泣きつづけた。何度も涙と悲しみで息がつまって、死ぬかと思った。
 涙は私の中にながれ落ちて、凍って、ガラスの棘になった。
 でも、ガラスの棘も気持ちが落ちつくにしたがって細く薄くなっていったワ。それでも、完全に消えてなくなることはなかったケレド。
 もう一つ、私の中には、あなたやあなたとの恋そのものではなくて、あなたに恋をしていた七カ月のあいだの、私自身の無鉄砲な情熱を懐かしく思う、愛おしく思う火があるの。
 ほとんど消えてしまいそうなくらいのちいさな熾火なんだケド、いつまでも絶対に消えないの。いまでも時おり、何かのひょうしに燃え上がりそうになるの。だけど、途中で弱弱しくしぼんじゃう。とてもフシギなの。
 昭和があと三年で終わる頃だったワネ、あれはまさに、昭和最期のレトロな恋愛だった。だけど、いったい何がレトロだったのかしら。
 あなたは、あの恋の何がレトロだったと思う?
 何? 聞こえないワ。
 私たちは、ホントにバカ正直だった。そう思わない? 
 そうよ、あのレトロさは、バカ正直なまじめさとそれ故の弱さだったのヨ。
 そう思わない? あなたの書いていた詩に使われそうな言葉でいうと、「葛藤するまじめさ」ってところかしら。
 葛藤なんて当時も、バブルといっしょに消えていきそうな死語候補の言葉だったケレド、まだわずかに生き残っていた。
 いまの人たちは葛藤すること自体がバカバカしくなっているみたいだ、と誰だったかしら映画監督が新聞に書いていたケド、六十年安保の年に生まれ、昭和のうしろ半分に成長し、大人になった私たちには、わずかながら葛藤する体質が残っていたのかもしれないワネ。
 そう思わない? そんな私だから、叛乱なんてバカなことを考えてしまった。真綿(まわた)の家の居心地のよさと息苦しさからの脱出と、その中でぬくぬくと生きていた抜殻の自分への叛乱。その柔らかいけれど厚くて固い壁に、無鉄砲な情熱と恋心を燃やしてがむしゃらにぶつかって行った。
 その残り火がいま写真のあなたの太陽みたいな笑顔に力をえて、やけになって、思い出を噴き上げるのかしら。
 そうかもしれないとも思うけど、余命があと何か月もないかもしれないという目の前の死の恐怖から、そんな昭和最期のレトロな恋愛の中に逃げこもうとしているだけなのカモ。とにかくこの世からもうすぐバイバイせざるをえないかもしれない今、あのころの無鉄砲な情熱と愛情がこの上なくなつかしく愛おしいの。
 ごめんなさい、ふふ、あなたではないの、あの情熱と恋心がネ、とっても愛おしいの。
 私、いま笑ったワ。七月に入ってからずっと沈んで、とくにこの数日はぜんぜん笑えなかったのに。
 
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