第4話

文字数 4,831文字

 群青の風に吹かれながら ——玻璃姫の叛乱 検査入院・三日目

 いま主人が帰ったところヨ。
 主人は私が入院してからは毎日、夕方見舞いに来てくれる。社長室の次長だから夜の仕事も多いのに、いそがしい仕事のやりくりをして。
 今日もホントは会議が入っていたのに、わたしがきつい検査を受けたことを心配して、様子を見に来てくれたの。検査は口から入れた内視鏡で造影剤を入れ、エックス線を使って胆管や膵管を直接造影するもので、本当にきつかった。正直云うと、私とっても疲れてて誰にも会いたくはなかったんだケド。
 そんなこと云っちゃダメよね。とてもとてもやさしい人なのだから。いつも肩を抱いて、胸に寄り添わせてくれる。私がお願いするから。子どものころお父さんが寝るときにしてくれたようにして。気持ちいい。心が安らかになって、落ちつく。きっと治るさ、大丈夫だよ、いつも一緒だから、と何回も何回もはげましてくれる。その間は、癌のことを忘れていられる。やさしい人なのヨ。
 あなたなんかより何倍も強くやさしい。そして、あなたの広告会社の親会社の社長室の次長。部長級よ。
 もう少し自慢をさせて、いい? あなたと話すのもちょっときついんだケド、このまま眠れないまま怖いことを考えるよりもマシな気がして話すの。いい? 今の主人は同じ町の開業医の二男なの。
 上の二人は姉兄なんだケド、お姉さんは医者の家に嫁ぎ、お兄さんは医者になって病院を継いだ。申し分のない上流階級ネ。
 主人は医者を嫌って、文系の有名私立大学に入った。東京でさんざんモラトリアムを楽しんでから、あなたの会社の親会社に入社したの。そして、今はさっきも云ったようにその会社の社長室の次長をしている。系列会社だから、あなたもよく知っているわよネ。主人は私の理想とする「条件」に合ってた。私はあなたとの最初のデートで云ったとおりの「条件」の人と、けっきょく結婚したワケヨ。
 最初のデートの日は、あなたの二十七歳の誕生日だったワネ。おいしいと評判のお好み屋さんでそのお祝いを口実にデートした。私はすごく緊張してて、頼んだもんじゃ焼きをだいぶ残しちゃったワ。そのとき私が云った言葉を、あなた、おぼえている? 
「私、もう誰も好きにならない」ってそんな感じの言葉だったような気がする、唐突にネ。
 私はその直前まで、歯科医大の学生と付き合ってた。だけどそいつに二股をかけられて、だまされて、激怒していた。そうだワ、その言葉を云う前に、私こんな話をした。ねえ、気づいた? って、あなたに訊いた。「ここ二、三日のわたし、変じゃなかった?」
 そうかなあ? とくべつ気がつかなかったけど、とあなた、本当にそういうとこ鈍感だったワヨネ。私は噛みつくように云った。「わたし、死ぬほどカッカきてたのに。湯呑を洗っているときなんか、想い出して、おもわず壁にうかぶそいつの顔に投げつけちゃいそうだったのヨ」
 おお、コワ、とあなたは大げさに云った。私も笑って、「そうよ、わたし、怖いのよ。怒らせたら、何をやらかすか分からないんだから、あなたも気をつけてネ」と釘をさした。そして、「だけど、ほんとにひどいんだから、あいつ」って、歯科医大生の裏切りについて話したの、あなた記憶している? 私の友だちがバイトしてるスナックにその男と一緒に行ったのネ、そうしたら、その店に女子高生みたいな女の子が後から来て、妙になれなれしく彼に話しかけるの、変だなと思っていたら、その女の子があいつとの関係をみんなの前で面白がってバラしたことを話した。「あいつ、オロオロしちゃって」と云って、ふと口をつぐんだワ。何だか悲しくて、少し間をおいて、「ひどいと思わない?」とすがるようにあなたに訊いた。ひどい、とだけあなたは云って言葉をつまらせた。よくあることだと思ってたんでしょ、あのときは。あなたってホント、バカが付くくらい正直な人だった、ふふ。
 そして、私は唐突にさっきみたいに云ったの。その言葉に、あなたは数秒無言だったけれど、呆れた顔をしていた。で、「それじゃあ、ずっと、一人で生きていくの?」と私に訊いたのヨネ。
 私は考える時間を作るために、テーブルのカップを手に取り冷えたウーロン茶を口に含んだ。一呼吸おいて飲みこんだ。ふしぎネ、この様子、白黒写真だけどはっきりと思い出せるワ。顔を上げると、ぷんと目だけで怒ってそれに答えて、「条件が合ったら、結婚はする」と私は云った。
 私の父は当時、地元の私立大学の理事長をしていた。
 あなたにはこういう話、あまりしてなかったワネ。
 父は国立の教育大学を出て中学の教師になり、教頭まで昇進して辞めたのネ。で、祖父がある大学の母胎の学園の関係者だった縁故で、その大学の事務長におさまった。その後、理事長になった。まあまあの収入があり名声もあったワケ。
 母も同じ中学の教師をしていて父と結婚したの。もともと地方の資産家の娘だったので、持参金のような貯金をたっぷりと持って来ていた。
 だから、まあうちは上流の裕福な家庭だったわけ。
 いまから想うと、「条件」というのはその生活レベルのことだったのヨネ。
 大きな家、窓が大きくて明るい居間、ダブルベッドがゆうゆう入る大きな寝室に、広い清潔な浴室。
 お茶とお華を習って、週末にはクラッシック・コンサートやお芝居などに出かける。そして、医者や社長や、政治家や大学教授の子女が多い女子大の卒業生や、その家族と付き合えるだけの金銭的余裕があって。
 結婚相手はできれば家柄がよく、マナーを知っていて上品で、頭もよく適当に野心もあって、社長とまではいかなくても部長以上にはなれる人。
 そういう「条件」に合ったら、結婚はすると宣言したワケ。ホント傲慢ヨネ。
 そして、私はその「条件」に合わないあなたではなく、結局「条件」に合った今の主人と結婚した。
 結果的にそういうふうに落ちついたわけだケド、そもそも私はどうして「条件」に合わないあなたを好きになったりしたのかしら? フシギ。あなたはそれまで私の周りに集まってきた、そして付き合った男たちとは、ぜんぜん違うタイプの男だったのに、あなたの何に惹かれたのかしら。まあ、恋に落ちるってそういうものなのかもしれないケド。
 それまでの男たちは皆いいとこの子で、穏やかな白い顔をして、行儀がよかったワ。野心や悪意はオブラートに包んで、むき出しにして彼女には見せなかった。弱さも強がって見せなかった。ところが、あのころのあなたは顔も精神も割れた石炭のように尖っていた。唾も吐くし、行儀が悪かった。野心や悪意は元々ほとんど持ち合わせてなかったケレド、正直で弱さは隠せなかった。もしかしたら、それが新鮮だったのかもしれない。
 行儀やマナーを知らないところには眉をしかめたし、権威(上司や議員など)に反抗的なところも少し心配だったワ。こんな光景がなぜか今も目に焼きついている。あなた、当時の職場に出勤すると、毎朝、まず部屋中に聞える大きな声で「お早うございます」と元気にあいさつし、課の島に来たら又「お早う」と同僚に声をかける。あなたはそれだけで十分だと云っていたワネ。奥の窓前の部長の席までほかの人たちのようにわざわざ行って、へこへこ挨拶をする必要はないとも。最初に皆にまとめて挨拶しているのだからとも。私はそんな尖がったあなたが少し心配だったケレド、何だか頼もしいようにも感じた。
 とにかくそんなあなたは平凡ではなかったワ。そして、あなたは小説や詩を書いていた。車の免許も取らずに小説を書いている男なんて、若い女にはやっぱり理解しがたい特別な人で、普通の人とは違う何かを持っていると思ったのかも。輝く可能性のようなものを、私はあなたの中に見て惹かれたような気がする。黒ダイヤが本当のダイヤモンドに化けるかもしれない、と夢見たのかも。ダイヤモンドのように輝くあなたが、私を見たことのない楽園に連れて行ってくれると、夢見るように、憑かれたように、信じたのカモ。
 そうね、私、平凡な生活に飽きていたのかもしれない。あなたといっしょに叛乱するとか何とか、私そんなことを云っていたワネ。どう覚えている?
 話を戻すワネ。主人がさっき病室のドアを出て、そのドアが閉まる瞬間に、私はまたこわくなった。いつも一緒にいてくれても、死ぬのは私ヨ。分かってる、あの人の(おも)いの深さは。でも、死ぬのはあの人じゃない、私なのヨ。発作のように取り乱しちゃった。
 どんなに愛し合っている男女でも、いや血のつながった親子でも、同じ死は死ねない。一緒の時に同じ場所で抱き合って死ぬことはできても、あくまでもそれは個々別々の死なのヨ。まったく同じ死を共有できないという意味で、人は絶対の他人なのよネ。
 分かる? あなたに、私の云ってることが理解できて?
 だから、主人は結局、もっとも近い他人。あなたは、ふふ、もっとも遠い他人ヨ。
 ああ、あの人と、あなたの写真の前で、キスをすればよかった——バカね。
 あなた、最初のキスを覚えてる? 初恋みたいにドキドキした。
 あれも、私にとっては無鉄砲なキスだった。だから、鮮明に記憶している。
 私たちはある特別ショウを見ることのできる、特等席に腰かけていた。私の好きな海峡の海を一望に見わたせる公園のベンチにネ。公園には、群青の風と海の音と、私たちしかいなかった。
 海からの風は強かったケレド、ぜんぜん寒くなかった。抱き合う二人はホカホカ暖かかった。あなたの体はカイロのようだった。でも、あなた自身は薄着で寒そうだったワネ。私は寒くなかったケレド、胃が痛くなるほど緊張してた。私たち、目の前の海峡にかかる大橋に電飾がともるのを待っていた。
 そんなあなたが何か話しかけようとして、私のほうに顔をむけたとき、はっと見つめ合った。とっさに、私はこの時しかないと思って瞼を閉じたワ。そして、あなたにむけて唇を突きだした。
 その必死さが、あなたには分かった? あのとき、もしあなたが応えてくれなかったら、どうしようって怖かった。無視されたら私、ガシャンと粉々にこわれちゃうかも、って死ぬほど不安だったのヨ。私は賭けたの。なけなしの勇気をふり絞って、あなたの腕の中にとびこんだの。
 とうぜん皆がみんなそうじゃないと思うケド、いまの若い人たちにはキスなんてゲームのようなもの、いつでも簡単にできるしリセットのきくものなのかもしれない。少なくとも私たち昭和レトロの女や男に比べたら、ハードルが相当に低いんじゃないのかナ。とにかくそのときの私はやり直しなんかきかないキスだと、必死だったのヨ。
 あなたは、どう思う?
 そんなことはどうでもいいワネ。あなたはあの瞬間、ちゅうちょなく唇を合わせてくれた。唇の感触は柔らかく熱かった。
 群青の風に吹かれながら、二人ははげしく唇を押しつけあった。
 夢中で、波や風の音も聞こえず、寒さも何とも感じなかった。幸せの絶頂の、最高の気分だった、そんな時に、痛っ、とあなたが声を上げたのヨ。最低のタイミング、もう気分も何もぶちこわしだったワ。ふふ。私の八重歯があなたの唇に刺さったのヨネ、あのトキ。
 はっと私は唇をひいて、はにかむように笑った。
 あなたは、私の眼差しに笑みを返しながらなぜか顔をしかめていた。
 特等席に腰を落ちつけてから大橋に電飾が光り始めるまでに、一時間以上がたっていたんじゃないかしら。そのあいだに、二人は八回キスをした。
 夜のなかにパッと光の橋が現れたとき、私は、見て見て、すっごくきれいでしょ、と有頂天の、弾んだ声を上げたワ。あなた、思い出せる? 誘ってよかったでしょ、ほめてくれる、っておねだりしたら、あなたは、うん、ありがとう、ホントにきれいだね、でもきみにはかなわないよ、って云ってくれた。
 ホントに私のほうがキレイ? と云って、私はまた唇を求めた。

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