第25話

文字数 10,213文字

 初恋、あるいは玻璃の呪縛 13

 隣の男と玻璃姫の愛娘は、まだそっぽを向きあっている。彼女は、不健康に胸に閉じこめた彼氏への怒りから眼が放せずにいるようだった。そうやって、力んでじっと内にこもることで、ますます疲れていくふうで気になった。左近将監(さこんのしょうげん)宗茂は娘のことを心配するその裏で、自分のことなど眼中にないその様子が寂しかった。まだ睨みつけられるほうがよっぽど落ち込まない気がした。
 何かをふり払うように首を振ってから、改めて彼女の顔を遠く覗きこむと、眼と眼の間に薄いシミのようにかかっていたかげりが、いつのまにか黒さと深みをましていることに気づいた。そして、そのかげは少しずつ遠ざかっていくように見えた。ああ、やっぱり母娘(おやこ)だ、と宗茂はため息をついた。それは、三十年前あの小都市のホテルの部屋で、玻璃姫の、黒く澄んだ瞳の中に見てしまった、落とし穴の奥の遠さと瓜二つであった。

 道路をはさんで、市場の向かいにある低いビルの二階に、隠れ家のような喫茶店があった。細長い店内は狭く、窓にそってテーブル席が三つあるだけだった。各テーブルの椅子の背には一メートル半くらいの高さの仕切りの壁があり、今でいうボックス席に似ていた。二月から三月にかけて、二人はよくこの店で会い、ボックスの中に隠れて話をした。この日はそこで悪夢と旅行の話をした。
「きょうの朝、わたし夢を見たの」と玻璃姫が話し始めた。「いやな夢。夢の中でわたし、泣いていたの」
 こわい夢? と宗茂は訊いた。「何か殺人鬼とか、怪物みたいな恐いものに追いかけられているとか」
「そういうのも出てこないし」と姫は言った。「なぜ泣いているのか自分でも分からないの。ただ泣いているの」
「理由も分からずに泣いているのって、きつそうだね」
「そうなの、理由が分からない不安に眼が覚めちゃって」と姫が眉をしかめて言った。「とっさに、ユーミンの『パジャマにレインコート』の歌詞を想いだしたの」
 どんな歌詞? と宗茂は尋ねた。
「言えないわ」
 と言って、姫は言葉をのみこんだ。引きずりこまれるように宗茂も黙った。
「そんなの絶対にいや! って、ベッドの上でわたし、かんしゃくを起こしたわ。枕を壁に投げつけた」姫の眼には、おそらくその朝と同じ必死さが貼りついていた。「そしてね、ある計画を実行に移すことに決めたの」
 ある計画? と宗茂は聞き返した。
「そう。ある意味、冒険ね。計画はね、大学時代の友だちから結婚式の招待状が届いた日に頭に浮かんだものなの。それからずっと決心がつかなくて、考え続けていたの」と姫は言った。「結婚式は高い山に囲まれた盆地の地方都市であるのだけれど、こっそりあなたといっしょに行って、一夜を二人だけで過ごそうという冒険」
 叛乱的冒険だね、と宗茂は言った。
 桜の花が散りきった四月の中旬だった。朝の早いうちに駅で待ち合わせて、特急で三豆駅をたった。姫は車中、一度話し出すと、黙ると死んでしまうとばかりに、猛烈な勢いで話し続けた。きょう結婚する花嫁の友だちが大学時代、どんなにまじめで、引っ込み思案だけど性格がよくて、大学四年間ほとんど男友だちはできなかったけれど、一人ほんとうに気持ちの良い彼氏ができて、そのときは姫も自分のことのように喜んだし、ほんとうに互いに誠実で仲が良くてうらやましかったこととか、なのにその彼氏がフランスに留学してしまい、毎週のように送りあっていた手紙もいつしか届かなくなって、自殺をほのめかす彼女を何日も部屋に泊まりこんで見守り話を聞き翻意させたこととか、その花嫁の友だちとよく姫の運転で海や山にドライブに行ったのだけれど、深山の秘境温泉の露天風呂に二人だけで入っているとき、日本猿が高い板塀をこえて飛びこんできて大騒ぎをしたこととか、ちょっと羽目を外しすぎなくらいに笑って楽し気に話した。乗客はちらほらしかいなかったけれど、宗茂は彼らが車輪の中のハツカネズミのように停まらない姫の様子をどんなふうに見ているか気になった。いつ「静かに」と注意されるかと気が気ではなく、姫の話しの調子にうまく乗っていけなかった。それでも、姫といることを、久しぶりに心置きなく楽しめた。
 列車は、途中の駅で長い乗り換え待ちをした。降りたホームから遠くにかすんで海が見えた。潮の匂いのする風に吹かれ、二人並んで深呼吸をした。風も空気も清々しくて、いい気分転換になった。空気を吐き出した胸の内に、ふっと幸福な気分が生まれた。すると、二人のまわりで時間が止まった。そう感じた。きっとそれは、未来に流れていく時間からひょいと抜け出し、この幸福の時を永遠に感じていたいという強い思いが作り出した幻想だったのだろう。姫も満足げな表情をしていた。眼で、お互いの思いを確認した。たまらなくキスがしたい。けれど、車窓の中の眼を気にして、無理だね、無理ね、と無言で顔を見合わせ微笑ってあきらめた。
 列車が動き出すと、姫はまた話し出した。オニババはどんなことでも姫を叱るという話から、この頃、どんなことで怒られたかについて話し始めた。友だちとお茶をしててほんの少し帰りが遅くなっただけで、暗に宗茂のことをほのめかして長時間小言を言われたり、日曜日に一日中パジャマで何もせずに家にいると、結婚前の女がだらしない、誰もお嫁にもらってくれないわよと嫌味を言われたり、このごろ背中が曲がっているわよ、いつも下を向いてる、そんな恰好じゃ見合いもできないじゃないと注意され、このごろあなたこそこそと変なことしていない?と勘ぐられたり、それはもう生活のあらゆる場面で、すべてのことでいちゃもんをつけられているのだと訴えるのだった。
 さすがに疲れたらしく、姫は昼前には、宗茂の肩に頭をのせて眠ってしまった。買っていた駅弁当も食べなかった。
 午後一時すぎに山に囲まれた小都市に着いた。
 駅前から一本、大きな道路が真直ぐに走り、その両側に中層よりやや低いビルが並び立っている。建物には銀行や旅行社や洋装店や和菓子屋などが入っている。細い横道を入ると、裏側には、衣料品店や薬屋、電器屋などの小売店や、古い喫茶店にうどん屋や小料理屋などがごちゃごちゃと集まっていた。高層ビルはどこにも見えない。歩道にはそれほど人影はない。片側一車線の道路には軽トラやバンが目立つけれど、そこそこの車がゆったりと走っていた。典型的な地方の小都市の中心街であり、おそらくこの地方の唯一の街だろう。遠くにある山々の稜線と山肌がそれらのビルの上に頭をのぞかせ、その街を囲むように見えており、この中心街のすぐ向こうには古い住宅街と田畑とがまだらに山際まで広がっているだろうと推測された。その山肌には、ところどころ桜色のぼかしがかかっていた。盆地なので平地より気温が低いのか、まだ桜が残っているのかもしれない。そういえば、駅のホームに降り立ったとき吸った空気も風も、早朝に立った宗茂の街より少しばかりひんやりしていた。
 姫は昼食もとらず、到着した駅から結婚式場のホテルにタクシーで直行した。そのままホテルの中の美容室で髪のセットと化粧をし、貸衣装のドレスを着せてもらって、午後四時からの披露宴に出席するのだった。
 宗茂は駅前の中華料理店で酢豚定食を食べながら、駅の小さな案内所でもらってきた薄い観光パンフレットに眼を通した。この日泊まる公共宿舎にチェックインするまでに、四時間近くの空き時間があった。その時間をどうやってつぶそうかと、見物のできる場所を探してみたのだった。博物館や美術館はなかった。神社や寺はあるにはあったけれど、小さなパッとしないものばかりだった。山の中に名の知れた大滝があるようだったけれど、遠すぎた。ただ宿舎の近くの川沿いに、中世の平山城跡があることが分かった。石垣は造られていないけれど、土塁と空堀がよく残っていると説明されていた。そのころはまだ、宗茂は城巡りを趣味にしてはいなかったけれど、写真を撮るのも面白いかもしれない、行ってみようかと思いついたのだった。
 近くまで本数の少ないバスで行って、民家の裏から入って山道を少し登った。樹々に覆われた道はうす暗い隧道のようだった。赤土の道はひんやりと湿っていた。トンネルを抜けると、静かな光があふれていた。明るく美しい竹林があった。よく手入れされた竹林の中に城の本丸と二の丸があるらしい。じゃまな下草や灌木は丁寧に刈られ、遊歩道などもよく整備されていた。あとで思ったことだけれど、このように竹林を手入れし遊歩道を整備するのは人手もいり大変だろうし、こんな山里では観光客もそんなにいそうにないのに、誰が誰のために管理を行っているのだろうかと不思議に思った。
 少し歩くと二の丸と立札のある平地に来た。曲輪の縁には土塁がめぐり、その外側に深さ十メートル以上の堀が穿たれていた。水を張らない空堀だった。竹林と盛り土と深い空堀の組み合わせの構図も、あちこちから差しこむ光線も変化に富み、撮影意欲をそそった。土塁の上を歩きめぐって諸所の撮影ポイントで、様々な方向や角度にレンズを向けシャッターを押した。まばらな竹林や冷たい光を反射する竹の群れを背景に、奥行きのある空堀を何枚も撮った。深堀の底から水平に堀の底と土壁を、見上げて斜面の竪堀や土橋を竹の枝間から差し入る光線をかぶせて写した。時間を忘れてシャッターを切り続け、フィルムを四本替えた。
 最後に、本丸の広場に入った。小学校の体育館くらいの広さだった。ぽっかりと空があいていた。満面に降りそそいでいたけれど、陽はだいぶ傾いていたので日差しは弱かった。静かに満ちている光は影に侵されているかのようであった。ふと、何かが居ると感じた。どこにも何も見えないのに、その明るい静かさが逆に何者かの存在感を浮き上がらせるふうであった。とっさに思ったのは、早く引き返そうということだった。何もいないし、美しいものも珍しいものも見当たらないし、面白い構図があるわけでもないし、写真は撮らなくてもいいよ、と焦る声が耳の奥に聞えた。
 あわてて後ろに向き直ろうとしかけたとき、宗茂の眼を、本丸広場の向う端にある、いやそこに居る何者かが釘付けにしたのだ。足も地面に糊付けされたように動かない。そこには、この小城ゆかりの武将か姫でも祀っているのか、祠のようなものがあった。でも、眼を惹きつけたのはその小祠の前に置かれた石に、竹箒を手に持って腰かけている、三、四歳くらいの子どもだった。今の今まで何も居なかったのに、いつのまに現れてそんな所に座っているのだ、こいつ。その子は(わらべ)だった。あれは何者だ、誰だと自身に問いかけたとき、童という言葉が心の奥から反射的に返ってきたのだ。遠くてよく見えないのもあるけれど、見た感じ男の子か女の子かも判らず、童としか呼びようがなかったのかもしれない。
 どっちにしても、おまえの姿は大人の眼には見えないはずではないか、と我知らず声に出して、誰かをなじるように訊ねていた。その声は遠い童にまでは届かなかったのだろう、オカッパ髪の下の表情は石のように動かない。
 それにしても、赤なのか白なのかはっきりしろよ、とまた誰にともなく突っこんでいた。着ている服は、さすがに着物に帯というような、いかにもありそうな出で立ちではなかった。赤と白の太い横スライプ柄の半袖Tシャツに、紅白幕のような半ズボンという格好だった。何かちょっと変だ。今どきの子どものファッションセンスではなく、古めかしいと感じられた。やっぱり童だ。童は当然ながら何も答えてくれない。宗茂は切羽詰まったふうに、おまえは白なのか赤なのか、どっちなんだ? と今度は無言で、前頭部で念じるように童に問い詰めた。
 すると、童はニコリと笑った。いや、ニヤリと笑った。どちらとも言えそうで、どちらでもない、そんな模糊とした笑顔だった。ゾッと鳥肌が立った。すると、なぜかその鳥肌が無性に腹立たしくて、どっちなんだ、はっきりしろよと童に向かって、大人気もなく怒鳴ってしまいそうになった。それにはお構いなく童は、小さな右手を顔の前に挙げると、おいでおいでと手首から先だけを軽く上下にふった。
 目の前がぱっと明るくなった。希望の光のひらめきが見えた気がした。赤か白か教えてくれるのか、とすがるような声で言うと、足が勝手に前に出ていた。しかし、一瞬のあとに「いや、知りたくない」と首をふった。すると、魔法がとけるように全身のこわばりが解けた。とっさに体の向きを変えることができた。駆けだそうとして、湿った土に足を滑らせ、前のめりに倒れこみそうになった。倒けつ転びつそこから逃げ出した。
 少し走って、本丸に付けられた土橋を渡りきったところで、後方遠くに甲高い女の声が聞えた。高い声は矢のように飛んできたけれど、それは老婆の声だった。そう想った。何と言っているのかは聞き取れなかったけれど、足を停めた。いや、足が勝手に停まった。聞き耳を立てると、童の居た辺りで、「サトちゃん、サトちゃん」と子どもを呼ぶ女の声がしている。ああ、あの童は「サトちゃん」という子どもなのだ、男の子か女の子かはまだ分からないけど、とにかく人間の子どもだと了解し、ホッと息を吐いた。
 サトちゃん、もう神様のおそうじは終わったか? と甲高い老婆の声は訊ねていた。何と答えているのか、どんな声なのか、童の声は聞こえない。それでも、あの小祠はやっぱりこの城の城主か誰かを神として祀ったものだったのだ、と納得し安堵した。あの童と老婆はもしかしたらその祠を護る者たちの末裔で、この山に住んでいて、先祖代々その役目を受け継いでいるのかもしれないな、とも思った。この竹林の中では、ありそうなことに思えた。
 城跡を出てバス停に戻ったとき、すでにほとんど日は傾き、山稜のむこうに隠れかけていた。バスを待っていると、背中がゾクッとした。首だけ回して山を見た。黒ずんだ樹林の間から、夕闇とともに冷気が這いおりてくるようだった。いや、あいつの冷たい息が追いかけてくるようだと思ったとき、宗茂は笑って言った。「おい、きみは、本当は赤だったのか、白だったのか」その言葉は声には出ない。自分に聞えただけだった。
 午後六時には宿舎にチェックインした。姫も同じ宿に別部屋を予約していて、一度その部屋に寄って荷物をおき、寝間着や化粧品などだけをもって、宗茂の部屋に来ることになっていた。遅くとも九時には帰ってくると言っていた。部屋に落ち着いた後、七時に宿内のレストランで夕食をとった。馬肉が付き、和牛の一口ステーキがメインの献立だった。
 姫はなかなか戻って来なかった。
 宿に温泉はなかったけれど、露天風呂付きの大浴場があった。しかし、姫がいつ帰ってくるか分からず、戻ったときに部屋にいないのもどうかと思って、内風呂に入った。風呂の天井に一匹、蠅がとまっていた。絶食中のような痩せた蠅だった。思わずじっと見つめてしまった。湯を入れる音にも立ちこめる湯気にも、蠅はまるで動く気配を見せない。いつからこの蠅は一匹、この狭くて暗くエサもない浴室で、誰かが親切にも出してくれるか圧殺してくれるかを待って、じっと天井に張り付いていたのだろうか、と何となく思った。この蠅はおそらくこのまま死んで、それが望みかどうかははなはだ疑問だけれど、外に出て明るい陽光をあびることはもはやないだろう、とも思った。まるでぼくのように。姫は華やかな結婚式でスポットライトをあびてお祝いのスピーチをし終えて、今ごろ、同じ大学の友人たちとコーヒーでも飲みながら、学生時代の日々の想い出話や、仕事のやりがいや苦労、人間関係の面倒さ、恋愛の話などに明るく花を咲かせているのだろうか、と想う。宿の狭い浴室で、湯舟につかり、天井に張りつく蠅をじっと見上げている一人の男のことを、友人たちと談笑している姫は頭の片隅にでも思い浮かべてくれているのだろうか、と想うと、姫の手紙の中にあった日陰者という言葉が脳裏に浮かんだ。のぼせた貧血のように気持ちがスーッと沈んでいく。と、逆に何かに反発する気持ちが体の奥から湧き上がってきた。
 風呂からあがると、浴衣に着替えて、旅館の土産物売り場で買ってきた地鶏の炭火焼をつまみに、冷蔵庫に冷やしてあったビールを飲み始めた。姫だって楽しんでいるのだから、ビールくらい飲んでもいいだろうと思った。それでも、やはりセーブしていた。姫が帰ってきたとき、和テーブルにはビールの空き缶が三つしか並んでいなかった。
 姫は十一時をすぎて部屋にやってきた。彼女は、朝から着ていた明るいグレイのワンピースを着ていた。ウエストにリボンモチーフがあしらわれている。その開いた胸元には、午前中には付けていなかったパールのネックレスが光っていた。それは、三週間くらい前に、宗茂がプレゼントしたセビアンのネックレスだった。
 ごめんなさい、遅くなって、と言う姫に、ビールで少々気が大きくなっていた宗茂は近づいていくと、「そのネックレスを今日の披露宴では着けたんだね」と言って、彼女を軽く抱いてキスをした。
「ええ、ずっと、あなたのパール、あなたのパールって呪文みたいに心につぶやいていたのよ、あなたと一緒にいられるように」と姫は唇をはずすと言った。「それにしても、少し飲みすぎているみたいね」
「一人で、待ち遠しかったからね」と彼は言った。もう十一時過ぎだよ、とは口に出さなかった。「でも、たったの三缶だよ」
 あら、もう風呂に入ったの? と姫が驚いて言った。彼の着ている浴衣をみて、気づいたようだった。
 うん、することがなかったから、と言ってしまってから、いやな予感がした。
「きょうは、いっしょに入りたかったのに」と姫は言った。泣きそうにひそめた眉の下の眼の、黒く澄んだ瞳の奥に恨めしそうな光が見えた。
 でも、風呂場も浴槽も小さかったよ、二人で入るには、と宗茂は酔いの勢いでか、何かに反発するような口調で言い訳をした。「蠅もいるし」
 それでも、と姫も抗するように言った。何に、誰に抵抗しようとしているのだろう。「小さくても、入れないわけではないでしょ!」
 姫のその反抗には、かすかだけど、懸命さの冷たい張りが感じられた。なぜかそれが痛々しかった。あとで思い出して気づいたことだけれど、姫にはそもそもその反抗の相手が何者なのか、その正体が掴めていなかったのだろう。そして、どうすればその反抗の相手に打ち勝てるのかその方途もまるで分らず、不安だったのだろう。だから、怒ったように「わたし、入るわ」と突き放すように言ったのだろう。
 宗茂はその怒気をなだめようと「いっしょに入るよ」と言いかけて、酔いと反発する気持ちも残っていて言葉を飲みこんだ。何より、姫という女人(おんなびと)はそんな提案を受け入れるはずがなく、逆に「もういいわよ」と手厳しく拒絶するだろうと分かったから、口をつぐんでしまったのだ。諦めの早い性格だった。でも、あのときは諦めが悪くあるべきだったのだろう、と今なら思う。優しく抱きしめて「いっしょに入るよ」と素直に言えばよかったのだろうけれど、彼は姫の顔を見ずに代わりの言葉を言った。「ちょっと待ってて、蠅を捕まえてくるから」
 ありがとう、と姫はささやくように言った。
 浴室から出て来た姫は、赤いシルクのネグリジェを着ていた。姫はいつも家ではパジャマで寝ると聞いていたので、これは勝負〈寝衣〉なのだと宗茂は思った。大人の女っぽさ、その色っぽさを姫はその寝衣で演出して、新鮮な興味で男を惹きつけ、その情欲をそそろうとの魂胆で準備したのだろう。けれど、何だろう必死さのようなものがその色気を凍りつかせていて、確かに美しく女っぽかったけれど、その冷たさに彼はひるんでしまった。今思い出すと、その赤いネグリジェは、勝負〈寝衣〉であると同時に、あの季節、姫が抵抗しようとしていた何者かの魔力を破り退けるための破邪の剣でもあったと思えてならない。
 寝化粧をする姫に、「何か飲む?」と訊いた。
 そうね、冷たいお茶ある? と姫。
 冷蔵庫からペットボトルをとりだして、グラスについで姫の横に置くと、「結婚式はどうだった?」と訊いた。
 花嫁さん、最高に可愛くてキレイだった、と姫は言った。「花婿さんは、県会議員の息子なんだって、自信家で傲慢な男って感じだった。ちょっと野蛮そうで、あの子、大丈夫かな?って、心配になっちゃった」
 宗茂は何と答えていいか分からなかった。
「飲みすぎて疲れてるみたいだから、またこんどゆっくり話したげるね」
 と話を打ち切って振りむいた姫の、寝化粧した顔はほとんどすっぴんだった。自然で清楚な光に包まれている。唇は薄い桜桃色で艶やかだった。彼はまぶしくて瞬間、瞼を閉じた。玻璃姫はこんなにも美しかったのか、いや、こんなにも魅惑的だったのかと今さらに新鮮に思った。
 夕食に部屋を空けた間に、寝支度は整えられていた。蛍光灯を消して、間接照明の電気スタンドだけをつけて、二人は布団に入った。
 キスをして、と昨秋のように、はにかむような眼で横の男を見て、姫は言った。頭を上げて、キスを待つ姫の顔を見たとき、改めてその寝化粧の美しさにドキッとした。唇をかさねた瞬間、この女人(おんなびと)の体に没入したいという欲望が燃え上がるのを、宗茂は改めて感じた。昨年の初冬の日々が脳裏によみがえり、その頃おぼれていたのと同じ欲情が体中を荒々しく経めぐるのを、初体験の新鮮さで感じた。セックスのあいだ、この数か月の屈辱も気鬱もスッキリと忘れた。この女人といつも一緒にいたい。あの短い叛乱の日々のように、ただそう強く思った。あの頃に戻った気がした。戻れるのだと思えた。ことが終る寸前に、姫は「わたしの男」と、昨年の秋冬によく言っていたあえぎともつかぬ言葉を口からもらした。そして、その細い腕からは想像できないほどの力で男の体をぎゅっと抱きしめた。必死にしがみつくように、しばりつけるように。その絞めつけに絞り出されたわけでもなかろうが、男は射精した。
 姫が手の力をゆるめたのを機に、上半身を起こして女人の顔を見下ろした。その顔からはもうあの自然で清楚な光は消えていたけれど、頬は電気スタンドの橙色の灯りをうけて、桃色に上気して見えた。ところが、汗はまるでかいていない。姫は乾いた表情をして、眼だけでうれしそうに微笑っていた。どこを見ているのか分からないその眼の中に、宗茂は曳きこまれるように、何かを確かめるように、見入らずにはいられなかった。そして、黒ダイヤのような瞳のなかに見たのだった、澄み切った空虚を。その黒い穴の奥に落ちてしまった姫ははるか遠くに見えた。
 宗茂は逃げるように眼をそらした。姫の肩のところまでまくれ上がったネグリジェの赤がその眼を捕まえた。あの竹林の童の赤いTシャツが寝衣の赤に重なるように浮かんで見えたのだ。赤。乗換駅の幸福がはじけた。思わず眼をつぶった。
 眼が覚めると、雨が降っていた。枕元に置いていた腕時計を静かにとり上げて、文字盤を読んだ。まだ朝の六時を少し過ぎたころだった。
 障子が人の横幅くらい開いていた。その狭い隙間から、縁側に立って外を見ている姫が見える。そのまた向こうのガラス窓は細く開いていた。外は、眼に見えないくらいの細かい春の雨だった。音のない雨だった。見ているうちにも外は徐々に明るさをまし、それにしたがって、霧雨がゆっくりと流れていくのが見えた。
 朝は仄白かった。赤いネグリジェ姿の姫は、光る霧雨のカンヴァスに肖像画のように立って、遠くを見ている。その背中がいつになく遠くて、宗茂は声をかけられなかった。遠いその背中をしばらくじっと見ていた。と、いつのまにかその後ろ姿にたまらなく恋している自分に気づく。姫に初恋した時と同じように。だからだろうか、その背中を、後ろ姿を、細かい霧雨を背景に、写真におさめて残したいとふと思った。カメラマンの眼を、カメラマンの魂を惹きつける何かがそこにはあった。でも、それだけではなかった。しかし断りもせず、後ろからそんな姿を写すのを、あの姫が許すはずはなかったのでやめた。代わりに、布団を出て立ち上がり、歩き出した。近づく彼の気配に、姫は気づかない。遠さは少しも縮まらなかった。昨夜、姫の瞳の中の空虚の奥に見た遠さと同じ遠さだった。
 ためらいがちに近寄って行った。泣いていたのではないかと想像して、若干構えて「おはよう」と声をかけた。後ろから軽く姫の薄い体を抱くと、彼女は驚くでもなく自然な動きで振りかえった。実際の彼女はただぼんやりとした顔つきをしていた。ただその表情の裏に、何かに脅かされているのをどうにか堪えているといった翳がうすく敷いてあった。それを見て、二人だけで一夜をともにしても、姫は夢に見た不安の気配を振りはらってしまえなかったのだ、と知った。でもその瞳に、悲嘆の色はなかった。
「この雨、かすかに山の匂いがするわね」と姫は言った。
 木々の匂いのする雨は音も無く降りつづいている。姫は昨夜も乱れなかった。宗茂は胸が詰まって、振り向いた姫の額にそっと接吻をした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み