第5話

文字数 4,946文字

 初恋、あるいは玻璃の呪縛 3

 我々三人はまだ石の階段の前で、順番を待つ搭乗客のように停まっていた。
 尼子(あまこ)筑前守さんが、やっぱりお城には立派な樹が多いでござるな、と言った。あれなんか、と右手の石垣の上に立つ巨木をさして続けた。隣の太い黒松の木と背比べでもしているような、喬さの木だった。幹も太くて堂々たるもんですね、あれは何の木ですかな? と。
 あれは(えのき)ですね、と左近将監(さこんのしょうげん)宗茂が教えた。「ほら、あの厚く灰色の樹皮を見てください、あそこ、横方向に皺がよっているでしょ、あれが特徴です、動物の象の皮膚のように見えるでしょ」
 榎四郎(えのきのしろう)さんを想いだしますね、と夜討(ようち)之大将さんが話に加わってきた。榎四郎さんとは、三人が参加する城めぐりアプリから生まれた地方オフ会の会員さんだった。ちなみに、夜討之大将さんはその会長である。三人とも榎四郎さんとは城巡りをご一緒したことがある。巨木になる榎の名を自分の名前に使っているように、巨体の持ち主だった。ある山城の畝状竪堀を皆でのぼったときなど、先陣を切ってその巨体でどっしどっしと突進していった雄姿が忘れられない。夜討之大将さんは、四郎さんは名前のとおり榎には詳しいようですよ、こんな話を佐敷城で四郎さんから聞いたことがあります、と続けた。
「榎の若葉は食べられるそうで、戦国から江戸、明治までの食糧難の時代には、米と一緒に炊き込んで「糧飯(かてめし)」として食べたのだそうですよ」と夜討之大将さんが榎四郎さんの話を伝えた。「ほかにも、むかしは、エノキは「縁」に通じることから「縁結びの木」として、またその反対に「縁切りエノキ」として使う俗信があったという話を聞きました。縁を結ぶには榎に願をかけ、縁を切る場合は、人知れずそっと榎の葉を食べると良いと言われていたらしいです。でも、この二つの話を合わせると、「カテメシ」を食べた人たちはみんな縁が切れて、家族もバラバラになってしまうことになる。それじゃあ、食べるに食べられないなあ、と四郎さんは心配してましたよ。は、は」
 さすがはわがオフ会一の物知り、榎四郎さんですな、は、は、と尼子筑前守さんが話を明るくしめくくった。宗茂はまた玻璃姫の愛娘のほうに眼を向けた。
 玻璃姫の愛娘はそのとき、隣の男と話しこんでいた。と、見るまに、マスクの上の眼をきゅっと細め、眼尻のしわをおどらせた。ぱっと明るい笑みをはじけさせたのだ。男から何か嬉しい言葉か誘いのようなものをかけられたのだろう。ああ、やっぱり玻璃姫だ、と宗茂はその暴発的な笑い方を懐かしく思った。その瞳の奥に、はじけた光までが見えた気がした。

 ばか、のろま! 何やってんのよ、そこは突っこまなきゃ、と途中の交差点で、黄色信号で躊躇する前の車にむかって、玻璃姫は暴発的に声を荒げた。そして、助手席で苦笑する宗茂をちらっと見た。ごめんなさい、きたない言葉を使ったりして、と。
 気にすることはないよ、と宗茂は言った。
「車を運転してると、つい夢中になっちゃうの。お母さんにもよく叱られるわ。でもこのごろは、諦めちゃったみたいだけど」と姫は言った。「運転も荒いでしょ」
 たしかに、と彼は言った。運転はお世辞にもおとなしいとは言えなかった。しかし、慣れた運転で、隣に座っていても安心していられた。姫は車が好きで、東京の女子大では自動車部に入っていた。運転歴は長く経験豊富だったのだ。
「お父さんなんか、わたしが運転して仕事に送ってあげたりするでしょ、絶対に助手席に乗らないんだから」
「怖くなってきたな」
「だいじょうぶよ、今日は。大切な人と一緒だから」
 海峡を見下ろす小山(ここにも中世に、山城があった)をめぐる舗装道路のはしに車を停めた。車を出て、流れの速い海峡を見下ろせる所に立つと、姫は言った。
「きょうは、一人じゃないぞおー」両の腕を背後に反らせ胸を張って、思いっきりの大きな声で。海峡中にちらばるすべての船の船長に、いや海中の魚たちにまでも、聞かせるように。
 姫の開け広げの声を、宗茂は笑って聞けなかった。逆に、なぜか怖いもののように聞いた。
「早くあなたも来て」と姫は呼んだ。声は弾んでいた。
 彼は二日酔いで疲れていた。カーブの多い山道のドライブもきつかった。少し気分が悪く、風に吹かれて煙草が吸いたかった。車を出て、ガードレールを跳びこえた。歩道に立つと、海峡を一望のもとに、広く遠くまで見下ろすことができた。その奥行きのひらけた景色に、彼の気分も広がるふうだった。潮の流れにのり、またはそれに抗して行きかう、大小さまざま色とりどりの船舶が青黒いガラスの板のような海面の上にばらまかれていた。空は灰色のティッシュ・ペーパーのように曇り、海から吹き上げてくる風は冷たかった。姫の横に立つと、彼は煙草に火を点けた。
「ねえ、すてきな眺めでしょう」煙草のけむりに顔をしかめながらも、明るい声で姫は同意を求めた。
 うん、とだけ宗茂は言った。疲れもあったけれど、姫の言葉の有頂天な弾みぶりと、そんなこと当り前よねという共感圧力に圧されて、すんなりと言葉が出ない。自分のことは棚に上げて、やっかいな娘だなとまた感じた。
 玻璃姫はしゅんとなって、少しのあいだ眼下の船を見ていたけれど、「ほら、見て」とまた弾んだ声で言った。姫の立ち直りは弾丸のようだった。何かが後ろで彼女の尻を叩いていたのかもしれない。「あのちっこい船、すっごく速いわ」
 姫が指さす先の小型船は、すばしっこい子鼠みたいに見えた。
「潮にのっているからね」と宗茂は言った。姫の弾む気分に少し慣れたのかもしれない。「あれなんか可哀そうになるね。力の強そうなでっかい図体しているのに、潮に逆らって、息も絶え絶えって感じだね」
 風をうけて、二人はどちらからともなく震える体を寄せ合っていた。宗茂は姫の細い体を抱き寄せた。
 姫は「私、すいすい走っていく船のほうが好き」と言った。「でも、私はあののろまな船だわ」大学生の時、と彼女は続けた。「眠れなくなったことがあって、友だちに薬よりいいって言われて、睡眠薬代わりにバーボンをグラスに一杯飲んで寝てた時期があるの」
「ぼくもバーボン好きだから」と宗茂は言った。「こんどいっしょに飲みに行こうよ」
 二人は途中で弁当(「本当はお母さんが作った弁当なの」と姫はいたずらっぽく笑って白状した)を食べ、日暮れ近くなるまで、寄りそってあくことなく船を見ていた。いつのまにか潮は向きを変えていた。海峡の潮流計は、来た時には5を表示していたのに、いまは2だ。
 この前、喫茶店で私、変なこと言ったでしょ、と玻璃姫は言った。「あんな感じで、友だちができても、いつも、最初は硬いっていわれるの」
 確かにそうみたいだね、と宗茂は言った。
「その次は、話してみると意外にズバズバ物をいうので、面白いって」そこで姫は言葉を止めた。「だけど、最後にはやっぱり分からない人間(ひと)だっていわれる。どう思う?」
 まだよく分からないな、と彼は正直に答えた。
「ヘン、な、ヤツー、ね」姫は口の端だけで笑った。
 小山を下りると、海際のうらぶれた神社に立ち寄った。当時、神を信じまいと努めていた宗茂の前で、玻璃姫は懸命に手を合わせていた。
 彼が車に戻ろうと歩き出すと、「まだ帰りたくない」と姫は言った。「そうだわ、世界で一番きれいなものを見てから、帰りましょうよ」
 海峡の沿岸道路よりも一段下って、短い遊歩道が設けられていた。そこに置かれたプラステック・ベンチに、二人は腰かけて、海峡にかかる大橋に電飾がともるのを待った。姫の言った〈世界で一番きれいなもの〉とは長い橋を輝かせる電飾だったのだ。もう日は暮れていた。海がすぐ近くだったので、波がよせ、岩をかむ音を巻きこんだ、冷たい海風が上ってきて、寄りそう二人の体温を奪っていく。宗茂は、彼女がこの前「親の仇みたいにずっと着てるのね、それ」と馬鹿にした薄手のジャケットをまだ着ていた。それでは秋の終わりの夜気と海風に歯が立たなかった。寒くて口が凍るようだった。あか抜けたセーターを着た姫を抱いて、二人の合わせた体温だけを頼りに震えと戦っていたのだ。姫は姫で何か思いつめたようにまだ暗い影のような大橋を見つめて、言葉を忘れているようだった。
 何か話さないと本当に唇が凍りついてしまうな、と宗茂は危機感を持った。
「このまま」二人くっついて凍りついちゃったらどうする、とでも冗談めかして話しかけようとして、彼は姫のほうに顔をむけた。
 眼と眼が合った。姫の黒く澄んだ瞳の奥に電光を見た気がした。姫が瞼を閉じた。わずかに唇を突き出した。宗茂はそれに惹きよせられるように、何が何だか分からないまま唇を合わせた。互いの唇は氷のように冷たかった。夜の風の寒さと、遅い昼食に姫持参の弁当をほんの少し食べただけの空腹に痛めつけられた胃は、不意打ちの口づけに悲鳴をあげた。キスの経験は何度かあった。けれど、宗茂は新しい恋のその相手との初キスのたびに、胃が痛くなる男だった。姫は慣れているように見えた。
 海風と波の音につつまれて、男と女人(おんなびと)は息が詰まるまで唇をふさぎ、むさぼりつづけた。
 痛っ、と男は口の中だけに言った。彼女の八重歯が唇に刺さったのだ。
 はっと唇をひいた姫の眼は、おもちゃをもらった二歳児のそれだった。彼女は笑い声とも吐息とも判らぬ息をもらした。男は女人の眼差しに笑みを返しながら、思わず鼻をつまみそうになった。姫の吐く息が鼻についたのだ。内臓の弱い人の息だった。けれど男のその手は優しかったので、鼻ではなく姫の歯が刺さった自分の唇に触れた。嘘か本当か、『こどものころ、カツカレーを食べすぎて、肝炎になったことがあるの。それ以来、カツカレーは見るのもいや』と告白したことのある姫は痩せて薄く、たしかに健康優良児的な女人ではなかった。
 次の瞬間、宗茂はその鼻につく息ごと姫を抱きよせ、自分の胸に顔をうずめた彼女の髪に唇を押しあてていた。
 大橋に電飾がともり始めるまでのあいだに、男と女人(おんなびと)は何回も何回も口づけをした。キスの合間に、姫は「お父さん」の話をした。姫の父親は元は中学の教師だった。母親も教師で、同じ中学に勤務しているとき二人は結婚した。そして、彼女は八年目にして授かった一人娘だった。そのあと、子どもは産まれなかった。だから、大事に大事に育てられた。教師の家庭でしつけなどは割と厳しかったけど、結局は、目に入れても痛くないお嬢さんとして甘やかされた。
 夜がこわくて眠れないときには、お父さんは抱いて一緒に寝てくれたわ、と姫はよく言っていた。だから、お父さんから精神的に離れられないの、とも苦しそうに。この父親からの精神的な離脱も、姫の言った「叛乱」の一要素だったのだろう、と宗茂はのちに思った。
 だから、あなたもお父さんのようにわたしのことを大事にしてちょうだいね、とその夜、姫は言った。ふと、何かたくらむような表情を眼元にひらめかせて、彼女は続けた。「我がままもそのまま好きになってね」
 うん、とあいまいに答える宗茂に、「そう、マニュキアのことだけど」と何気なく言葉を誘導し、「お父さんがよく言ってたの、派手な化粧はしなくてもいいけど、女性は基礎的な手入れは怠っちゃいけないって」と言った。
 マニュキアは好きになれないと言った宗茂は、「マニュキアも」またあいまいに言った。そう、と姫は受けた。「派手な色は塗らなくてもいいけど、常に爪はみがいてきれいにしておかなくっちゃいけない、そして上品なマニュキアは基礎的な手入れのうちなのよ」
 夜の紺藍のカンヴァスに光の橋が飛び出すように浮かび上がると、玻璃姫は、ねえ、わたしの言ったとおりでしょ、とっても、きれいでしょ! と弾んだ声をあげた。
 姫は美しきものや素晴らしいものに素直に感動できた。その驚きと喜びにあけっぴろげな弾んだ声をあげることもできた。そんな姫を宗茂は愛おしく思う反面、少しひいて、輝く光の橋を静かに見続けていた。まだ戸惑っていた。玻璃姫の弾んだ声と心の奥のどこかで繋がっているだろう、唇を与える前の、彼女の瞳の奥に見た電光の真の意味が気になっていた。
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