第12話

文字数 3,969文字

 叛乱の十二月 ——玻璃姫の叛乱 検査入院・六日目夜

 きょうは、一久(かずひさ)が午後早くに見舞いに来てくれて、リンゴをむいてくれた。
 一久が「リンゴをむくね」と言って、つややかな赤い皮に果物ナイフの刃を入れた時から、果汁といっしょに甘い香りがふわっとあふれた時から、私、涙が出そうだった。
 とってもおいしくて、ますます涙腺がゆるんじゃったケド、窓の外の入道雲をじっと睨みつけて何とかこらえた。むくむく盛り上がった白い雲の縁が横からの強烈な陽射しをうけて、ぎらぎら輝いていたワ。
 一久は息子で、いま大学の3年生ヨ。付き合い始めた彼女のことを話していった。彼の通う大学の近くの女子大の学生で、サークルの関係で知り合ったんだって。好きなんだけど、ガードが固くて、手も握らせてもらえないとぼやいて帰ったのよ、あなた、どう思う?
 えっ、私たちと同じ? そうね、憶えてるわヨ。あなたこそよく忘れてなかったワネ。あのとき私、もう誰も愛さない、って云った。一久の彼女と同じように、あのころの私も若くてお固かったってことネ。
 いつだったかあなたは、そのときの私のことをこんなふうに云ったワネ。
 あのときもそうだったケド、きみは、人生の、生活の、人間関係の、いろんなことに気を遣いすぎる。それって、生きるのがきつくない? って。
 何でも危ないことは先にさきに防いで、しっかり守っていかなくちゃ、玻璃(はり)のようなきみの心はこなごなに割れてしまう、と不安なんだろうケド、少しはぼくを信じて、ぼくという盾の後ろでのんきに生きてみたら。そんな感じのことを云ってくれたのヨネ。
 「玻璃」って「瑠璃(るり)」と同じでガラスのことだって、あなたは教えてくれた。だから、私の心はガラスのように毀れやすい、だから、砕けないようにあなたが守る、って。ある詩の中で、あなたは私のことを「玻璃姫」と書いた。そして、自分はサムライになって玻璃姫を守る、ってあなたは誓った。
 わあ、すごい偶然、ちょうど今、ユーミンの『守ってあげたい』が流れはじめたワ。病室なので個室だけど、音は落としてある。
 守ってあげたい
 あなたを苦しめる全てのことから
 あなた、私がプレゼントしたカセットテープはまだ持っているの。『マイ フェバリット ユーミン』。好きだったユーミンの曲を集めて、私が手ずから編集したカセットテープ。同じものをコピーして私も持っていたの。
 きょう一久に、そのテープとカセットデッキを持ってきてもらったの。
 音楽というか歌には、それを聴いていた当時の記憶をありありと、想い出させる力があるって話よく聞くじゃない。特に、失恋したときの光景とか、生まれた赤ん坊を腕に抱いた時の喜びの瞬間とか、その時にかかっていたか当時聞いていた音楽を耳にすると、確かに鮮明に想い出す時がある。
 時には、胸をしめつけるような悲しみや舞い上がるような歓喜をともなって、まるで昨日起こったばかりのことのように、当時の出来事を克明に写した写真か映像が目の前にうかぶこともある。村上春樹さんの『ノルウェイの森』のビートルズの曲もそうヨネ。あなたにはそんな経験はないかしら。
 だから、あの日々の話をするのに、そのバックグランド・ミュージックとして、あのころよく聴いていた、そしてあなたとのドライブの車中でよく流していた、ユーミンの曲を病室でかけることにしたの。ホント聴いているだけで、いろんなことを想いだすワ。
 あなたは「玻璃姫を守る」と誓い、私もあなたを「守ってあげたいのに」と泣いた。そして、十二月は毎週二回、ホテルでセックスをした。
 誰も私たちの叛乱は止められないと、表向き二人は意気揚々としてた。叛乱のその勢いの激しさに興奮し陶酔していたみたい。そう思わない? けれど、いまから想うと、二人のその激しさは、見えない敵の強力な攻撃にじわじわと自陣の隅に追いつめられた窮鼠が猫をかむ、その必死さだったような気がする。
 憶えているのは、ホテルの部屋でかけた有線から、この年流行(はや)った石井明美の「CHA-CHA-CHA」が流れたコト。あなたの記憶には残っているかしら。
 I Wanna Dance Do You Like CHA-CHA-CHA
 Romancin 気分 CHA-CHA
 私、あなたと違って、ふふ、英語が得意だったから歌詞も覚えている。曲も覚えているワ。薄いふとんに二人でくるまって、抱き合ってしばらく音楽を聴いていたワネ。
 あなたは入ってきたとき、痛いかい? と気遣ってくれた。もう痛みはあまり感じないワ、って答えた。嘘だった。あなたもその嘘に気づいていたのかしら、とても私に気を遣ってしてくれたワネ。
 帰りに走った都市高速道路の風景も憶えている。きれいだったワネ。オレンジ色の電灯が線を引くように続いていた。私は車のデッキにユーミンの手作りカセットをセットした。流れてきたのは「中央フリーウエイ」だった。
 この道は まるで滑走路 夜空に続く
 ホントにそのとおりの光景だったワネ。いま病室には「卒業写真」が流れているケレド。
 別の日、憶えているのは、ことが終わって、私はあなたの横でむこうを向いて横たわっていたコト。あなたはその背中に体をくっつけ、肩から手をまわして、私の体を包みこみ守るかのように抱きしめてくれた。
 あなたは私の耳たぶの小さくて薄い耳にキスをした。幸せになれないのではないかと小さな頃からずっと心配していた、いわゆる「福耳」とは反対の耳に、あなたのキスは幸福を吹き込んでくれるように思えた。
 そう、いい気持ち。ずっとそうやって抱いてて。気持ちが落ちつくの、そうやってもらうと、って私は云ったワネ。小さいころよく寝るときに、お父さんがそうやってくれたの、トモ。
 いま思ったんだケド、私、ホントはずっと、誰かに、もしかしたらお父さんにかしら、寄りそって寝てもらいたかったのカモ。男の人は裸の体を付けて横に寝ると、どうしてもセックスしたくなっちゃうから、仕方なく受け入れていたケレド、ホントはただ抱きしめてくれるだけでよかったのカモ。
 ある夜は、一回目が終わって、私はあなたに寄りそい、その胸に顔をうずめていた。私は「私、感じない」と小さな声で云ったワ、憶えている? でも、ホントは私、自分の体のことや、性感のこと、それほど心配してなかったのヨ。好きな男の人の、相手の体温を感じて抱き合って寝ることができたら、それでほとんど満足できたから。セックスがなければないでもいいような気がしていたの。ただもし拒んだとき相手がどう思うかだけが気になったの。
 あなたは真剣に、きっとだんだん感じるようになるさ、みたいなことを云った。
 あなたの声がやさしすぎたから、私は感じ方がにぶいことを本当はそんなに気にしていないと打ち明けられなかった。だから、そうね、と何となく言葉を返した。きっと私の声がまだ小さかったから、あなたは、ぼくのやりかたがまずいのかもしれないし、と無理に笑って云ったワネ。あなたの気遣いは分かったけれど、「ありがとう」と正直には言えなかった。反対に「もっと自信をもって」と云った。

 二人だけで祝ったクリスマスの夜のこと、あなたは記憶の箱に大事にしまっている?
 私は店に入る前から、浮かない顔をしていたでしょ? だからあなたは、どうしたの? と訊いた。私は、「プレゼントのベスト、編みあがらなかった」としょげた。前の日、お茶の友だちと忘年会をやって遅くなったので、最後の仕上げが出来なかったの。
「気にしなくていいよ、ありがとう」とあなたはなぐさめてくれた。私はきっと今にも泣きそうな笑顔で頷いたんだワ。
 私は車があったのでレモンスカッシュを頼んで、あなたはワインを飲んだワネ。
 食事が進んだころあいに、店員が大きなブランディグラスをテーブルに配ったのを、あなた憶えている? きれいな色のビー玉だったと思うケド、それがグラスに半分くらいつめられ、それに花火が数本刺してあった。照明が落とされ店内が暗くなると、店中がどよめいた。懐中電灯を持った店員が火をつけてまわった。パチパチ、パチパチパチと青や赤の色とりどりの小さな光の花が、二人のあいだで弾けつづけた。私は驚きの声を上げ喜んだ。周りでも少しずつずれて同じ歓声が上がった。いまで云うと、サプライズ演出ネ。
 店員が回ってきて、「サービスです」と説明しながら、花火にまだらに照らされた二人の笑顔を写真に撮っていった。
 きれい、と私がはぜる火花を見ながら云うと、あなたはワイングラスを持ち上げて「メリークリスマス、きれいだよ」と云った。私はグラスをあなたのそれに軽く合わせて「メリークリスマス、大好き」と応えた。
 この二人の結びつきの強さが母の反対をはね返すだろうと、私はそのとき信じた。いや、信じようと無理やり思いこんだの。
 その夜、ホテルで私は、私のどこが好き? と訊いた。
 眼、とあなたは答えた。
 眼だけ? と私はすねて詰問するふうに云い、いたずらっぽく目尻で笑った。
 その眼にあなたはキスをしてくれた。
 私は目を大きく見開いて、好きよ、もっとキスして、とせがんだ。二人は互いの唇をかさね、しだいと強く、呼吸ごと吸いあった。
 どうして人は、キスなんてするのかしら、と訊く私に、好きな人を食べてしまいたいんじゃないかな、とあなたは云って、「こんなふうに」と口を大きく開け、私の口から鼻にかけて喰らいつく振りをしたワネ。
 本当にびっくりした。私は一呼吸おいて、「そうね、食べちゃおう大好きな愛する人を」と叫んで、抱き合うとあなたの唇をふさいだ。

 きょうはこの辺でよくない? 疲れたワ。きついし、あの日のことは話したくない。逃げるも何も話したくないの! バイバイ。
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