第21話
文字数 3,927文字
初恋、あるいは玻璃の呪縛 11
隣の長髪の男と玻璃姫の愛娘は並んで石段を下ってくるが、そっぽを向きあっている。二人の体の間に少しすき間も開いている。さっと陽が陰った。何だ何だと眼線だけを上げて見ると、頭の上の空に大きな座布団のような雲がいくつか固まって流れてきていたのだった。二人の背景に広がる、すっかり葉を落とした桜の枝は影を吸収した尖った骨のように見える。影をまとった恋人たちも桜とよく似て、枯れ細ってしまったように左近将監 宗茂の眼には見えた。
なんか、きさん、うちくらすぞ! 酔いに上ずった怒声が、ずっと下の稲荷社の辺りで暴発した。周りの人たちや、夜討 之大将さんも尼子 筑前守さんも、びくっと驚いて、その声のほうに首をひねった。
「あれは何ですかな?」と尼子筑前守さん。
「ヤマの言葉ですな」と夜討之大将さんが冷ややかに言った。
「ヤマの言葉?」
「むかしのこの辺の炭鉱の言葉です」
宗茂は振り返らなかった。どうせ元抗夫のじいさんが押しくら饅頭状態の人込みの中で、肩が当たった当たらないくらいの些細なことでもめているのだろう、うんざりだと思った。というか、いつのまにか首が凍りついたように固まっていて、振り返れなかったのだ。ヤマの言葉か、と心に呟く。ヤマの子どもとして生き、ヤマの子どもとして小説を書いていくと、美術館の駐車場で、姫に決意を語った日のことを思い出した。
「何と言っているのでござるか?」と尼子筑前守さんが宗茂に訊いた。宗茂の唇も舌も凍りついていた。
「〈きさん〉というのは貴様、お前という意味で、〈くらす〉というのは殴るということです」と夜討之大将さんが代わりに答えてくれた。
夜討之大将さんが平たい発音で〈くらす〉という言葉を口にしたとき、宗茂は内心縮み上がった。見えない寒風が稲荷社の方から吹き上がってきて、彼の心臓を抜けていった。ヤマの長屋に暮らしていた子どものころから、幼馴染や先輩の不良や周りの酒臭い大人たちが口走る〈くらす〉を毎日のように耳にしていたのに、その言葉に対する免疫はなぜかまるでできず、いまだに柳に風とやり過ごすことができない。そういえば、と彼は思う。姫に偉そうに表明した「ヤマの子どもとして生き、ヤマの地面にしっかりと根を張って小説を書いていく」という決意も、その後の三十数年のあいだに(姫と別れたあと数年は、ヤマの子たちが主人公の小説を三作くらい書き、同人誌に発表し文芸誌の同人誌評で取り上げられたこともあったが)、ソフトクリームのようにぐちゃぐちゃに溶けてしまった。この失敗も根は、〈くらす〉の免疫がどうしてもできないことと同じような気がする。どちらにしても、もう振り返らなくてもいい。
振りかえらず前を見て、娘の顔をよく見ると、眼と眼の間に翳 がうっすらとしたシミのようにかかっている。疲れなのか? 気持ちや感情がすぐに顔に出るんだな、この娘 は、と思った。玻璃姫と同じだ。だめだよ、そんなふうに疲れては、と無言の言葉をとばした。だめだよ、さあ笑って、疲れを吹きとばすんだ。無理にでも笑うんだよ。人は楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいんだって誰かが言ってた。たぶんそれは正しいよ、さあ、笑って明るい気持ちになって、その明るさで翳を消してしまうんだ。疲れの翳は悪いものを引き寄せる、悪い運命を吸い寄せるんだから。あの頃からそれは証明済みなんだから。
禁欲令の発せられていたあの日々、愛していると伝え確認しあう手段は、言葉 しかなかった。けれど、神ではない人はロゴスだけでは、愛を交わすことも生きていくこともできない。そうするうちに、肉体の奥から汚水が沁みだすように、いつしか疲れが二人を浸しはじめていた。
姫の手紙にもその染みがにじんでいるものが多くなった。
—— 最近の私が素直になれないのも(シットばかりして)
私の小心な弱さのせいでしょう。
去年のようにあまえるかわりに しっと《、、、》することで
あなたへの気持ちをぶつけてたんだワ。
今日わかったの。
こんな私もひっくるめて 好きでいて下さいというのが
今の私のワガママです。
—— あなたといれるなら みんなと一緒にホルモンたべてもいいワ。
最近のあなたはつらそうなきつそうな顔をしてます。それも私の弱さのためネ。ホルモンたべて もすこしだけ太って下さい。
隠れた恋は、当たり前だけれど、つらくてきつい。疲れる。そして、昭和の時代には隠れた恋が割合多かった。
—— 一つ気になりだしました。
と、姫は手紙に書いている。
—— あなたは私と会っているとつかれるんじゃないですか。
この姫の手紙を読んだ日の仕事帰りに、宗茂は待ち合わせた駐車場の、彼女の車の中でこんなふうに言った。
「疲れているのは本当だけど、それは君の弱さのせいじゃない、何もかもぼくの弱さのせいだ」
そんな言い方しないで、と姫は小さく首をふって言った。
彼は言葉に詰まった。大きな問いを前に途方に暮れた。姫の肩に手をかけた。ぐっと胸に抱きよせた。抱きしめて、「ぜったいにぼくは君を守るから」と言った。自分の口から出たその言葉を自分で信じられなかった。
—— 土曜日楽しかったのは私だけ?
とその手紙は続けていた。
—— 優しいあなたは云い出しかねてることがあるんじゃないですか?
この「優しい」という形容詞は「弱い」の間違いであろう。姫自身そのことに気付いていないのか、あるいは相手に気を遣ってわざと言い換えたのかどうかは判らない。どちらにしても、こういう甘い言葉が自身の弱さから宗茂の眼をそらし甘やかした。そして、二人はそういう微妙な間違いについて曖昧なままにして、とりあえず日々を過ごしていった。
—— でも、私も昔の様じゃないから、あなたのそういうの仕方ないと思うケレド…。
確かに〈云い出しかねている〉ことはあった。
その土曜日、ホテルのレストランで洋食のランチを食べた。
玻璃姫が、洋食のマナーを覚えてねと、パンの食べ方を宗茂に教えた。
「パンは必ず一口ずつ手でちぎって食べるのよ、いい?」と姫は念を押すように言った。「かじっていいパンは、サンドイッチやカリカリのトーストだけよ。バターを自分のパン皿、その左にあるお皿が自分のパン皿、それにペットリとのせるのも正式なマナーではタブーよ。バターは必ず一口ごとちぎったパンに少しずつのせていただくの、バターナイフは塗り終わる度に、パン皿の上に刃を自分側に向けて横に倒して置くの。
パンを一口大にちぎったら、大きい方のパンをパン皿に置いてから、ちぎったパンを食べるのよ。ちぎるたびに大きい方のパンはパン皿に戻す。 片手でパンを持ちながらもう片方の手で食べるのは下品な食べ方よ」
宗茂はその頃、姫と一緒に生きるためにそういうマナーを覚えてもいいと考えていた。けれど、本来食事は楽しくおいしく食べればよいものではないか、パンをちぎって食べようとかじって食べようとどちらでもいいではないか、というアナーキーな考え方を捨てたわけではなかった。だからか、積極的にマナーを教える本を買ってまで、勉強しようとはしなかった。二人だけで食事をしているときまで、いるのかなそういうマナーは、と考えてもいた。きゅうつくだとは思ったけれど、云い出しかねた。
玻璃姫は機関銃のようによくしゃべった。
「あなたはあまりヤマの言葉を使わないわね」と、姫は唐突に言った。
そうかな、と宗茂は自分のことながらあいまいに応えた。
「私の前だけ、無理して使わないようにしているんじゃないでしょうね?」姫は訊いてしまって、自分のその言葉に驚くふうだった。黒く澄んだ瞳には疑いと怯みの翳がさしていた。
まさか、と短く言った。ぼくがきみを騙していると疑っているのか、とは怒らなかった。マナー教授のときから少しずつ言葉を発する気力が萎えてきていた。
むしろ宗茂は、無意識のうちにしろ、ヤマの言葉を自ら捨て去ってきた人間だった。自分で捨てておきながら、後ろめたさを感じていたのだ。ヤマの言葉を実際に使わなくなったのは、標準語が主の読書の影響が大きいと思う。実際その頃はもう、小説にヤマの言葉を書きこもうとしても、ほとんど想いだせず苦労するほどになっていた。でも、ぼくらの言葉をきみにああいうふうに拒絶されるとやっぱり寂しい、とは云い出しかねた。その後も、ほとんど相槌だけを打っていた。
なんだか元気がないわね、と姫が訊いた。ちょっと疲れた、と言った。姫も黙りこんだ。
店を出て、歩いた。宗茂は自分の言った「疲れ」とは何の疲れだろうと考えながら歩いた。仕事の疲れでもない。姫の度が過ぎたおしゃべりに疲れたわけでもなかった。ただその話し方や話の内容がいやな感じだったのは確かだった。でも、それだけのためではないように感じた。
川面を走ってくる風が横から吹きぬけていく。橋を渡っているとき、姫に自分の疲れを伝染させてはいけないと思った。「風がすごいね、寒くない」といって姫に笑いかけた。
ええ、大丈夫よ、と姫も笑った。
姫が車を置いている駐車場まで宗茂は送っていき、車に乗る前に口づけを交わした。そして、発車した車を見送って、天上の低い車庫の出口でしばらく佇んでいた。そのとき、この一月から二月にかけてずっと、重い雲のようなものが頭上に圧しかぶさっているように感じていたことに、今更のように気づいた。そして、改めてその圧迫の息苦しさを鮮やかに感じて、苦笑いを笑った。しかし同時に、姫と二人一緒の世界にいることだけで、その圧迫や苦しみさえ、そのすべてに満足している自分がいたことも確かだったのだ。
隣の長髪の男と玻璃姫の愛娘は並んで石段を下ってくるが、そっぽを向きあっている。二人の体の間に少しすき間も開いている。さっと陽が陰った。何だ何だと眼線だけを上げて見ると、頭の上の空に大きな座布団のような雲がいくつか固まって流れてきていたのだった。二人の背景に広がる、すっかり葉を落とした桜の枝は影を吸収した尖った骨のように見える。影をまとった恋人たちも桜とよく似て、枯れ細ってしまったように
なんか、きさん、うちくらすぞ! 酔いに上ずった怒声が、ずっと下の稲荷社の辺りで暴発した。周りの人たちや、
「あれは何ですかな?」と尼子筑前守さん。
「ヤマの言葉ですな」と夜討之大将さんが冷ややかに言った。
「ヤマの言葉?」
「むかしのこの辺の炭鉱の言葉です」
宗茂は振り返らなかった。どうせ元抗夫のじいさんが押しくら饅頭状態の人込みの中で、肩が当たった当たらないくらいの些細なことでもめているのだろう、うんざりだと思った。というか、いつのまにか首が凍りついたように固まっていて、振り返れなかったのだ。ヤマの言葉か、と心に呟く。ヤマの子どもとして生き、ヤマの子どもとして小説を書いていくと、美術館の駐車場で、姫に決意を語った日のことを思い出した。
「何と言っているのでござるか?」と尼子筑前守さんが宗茂に訊いた。宗茂の唇も舌も凍りついていた。
「〈きさん〉というのは貴様、お前という意味で、〈くらす〉というのは殴るということです」と夜討之大将さんが代わりに答えてくれた。
夜討之大将さんが平たい発音で〈くらす〉という言葉を口にしたとき、宗茂は内心縮み上がった。見えない寒風が稲荷社の方から吹き上がってきて、彼の心臓を抜けていった。ヤマの長屋に暮らしていた子どものころから、幼馴染や先輩の不良や周りの酒臭い大人たちが口走る〈くらす〉を毎日のように耳にしていたのに、その言葉に対する免疫はなぜかまるでできず、いまだに柳に風とやり過ごすことができない。そういえば、と彼は思う。姫に偉そうに表明した「ヤマの子どもとして生き、ヤマの地面にしっかりと根を張って小説を書いていく」という決意も、その後の三十数年のあいだに(姫と別れたあと数年は、ヤマの子たちが主人公の小説を三作くらい書き、同人誌に発表し文芸誌の同人誌評で取り上げられたこともあったが)、ソフトクリームのようにぐちゃぐちゃに溶けてしまった。この失敗も根は、〈くらす〉の免疫がどうしてもできないことと同じような気がする。どちらにしても、もう振り返らなくてもいい。
振りかえらず前を見て、娘の顔をよく見ると、眼と眼の間に
禁欲令の発せられていたあの日々、愛していると伝え確認しあう手段は、
姫の手紙にもその染みがにじんでいるものが多くなった。
—— 最近の私が素直になれないのも(シットばかりして)
私の小心な弱さのせいでしょう。
去年のようにあまえるかわりに しっと《、、、》することで
あなたへの気持ちをぶつけてたんだワ。
今日わかったの。
こんな私もひっくるめて 好きでいて下さいというのが
今の私のワガママです。
—— あなたといれるなら みんなと一緒にホルモンたべてもいいワ。
最近のあなたはつらそうなきつそうな顔をしてます。それも私の弱さのためネ。ホルモンたべて もすこしだけ太って下さい。
隠れた恋は、当たり前だけれど、つらくてきつい。疲れる。そして、昭和の時代には隠れた恋が割合多かった。
—— 一つ気になりだしました。
と、姫は手紙に書いている。
—— あなたは私と会っているとつかれるんじゃないですか。
この姫の手紙を読んだ日の仕事帰りに、宗茂は待ち合わせた駐車場の、彼女の車の中でこんなふうに言った。
「疲れているのは本当だけど、それは君の弱さのせいじゃない、何もかもぼくの弱さのせいだ」
そんな言い方しないで、と姫は小さく首をふって言った。
彼は言葉に詰まった。大きな問いを前に途方に暮れた。姫の肩に手をかけた。ぐっと胸に抱きよせた。抱きしめて、「ぜったいにぼくは君を守るから」と言った。自分の口から出たその言葉を自分で信じられなかった。
—— 土曜日楽しかったのは私だけ?
とその手紙は続けていた。
—— 優しいあなたは云い出しかねてることがあるんじゃないですか?
この「優しい」という形容詞は「弱い」の間違いであろう。姫自身そのことに気付いていないのか、あるいは相手に気を遣ってわざと言い換えたのかどうかは判らない。どちらにしても、こういう甘い言葉が自身の弱さから宗茂の眼をそらし甘やかした。そして、二人はそういう微妙な間違いについて曖昧なままにして、とりあえず日々を過ごしていった。
—— でも、私も昔の様じゃないから、あなたのそういうの仕方ないと思うケレド…。
確かに〈云い出しかねている〉ことはあった。
その土曜日、ホテルのレストランで洋食のランチを食べた。
玻璃姫が、洋食のマナーを覚えてねと、パンの食べ方を宗茂に教えた。
「パンは必ず一口ずつ手でちぎって食べるのよ、いい?」と姫は念を押すように言った。「かじっていいパンは、サンドイッチやカリカリのトーストだけよ。バターを自分のパン皿、その左にあるお皿が自分のパン皿、それにペットリとのせるのも正式なマナーではタブーよ。バターは必ず一口ごとちぎったパンに少しずつのせていただくの、バターナイフは塗り終わる度に、パン皿の上に刃を自分側に向けて横に倒して置くの。
パンを一口大にちぎったら、大きい方のパンをパン皿に置いてから、ちぎったパンを食べるのよ。ちぎるたびに大きい方のパンはパン皿に戻す。 片手でパンを持ちながらもう片方の手で食べるのは下品な食べ方よ」
宗茂はその頃、姫と一緒に生きるためにそういうマナーを覚えてもいいと考えていた。けれど、本来食事は楽しくおいしく食べればよいものではないか、パンをちぎって食べようとかじって食べようとどちらでもいいではないか、というアナーキーな考え方を捨てたわけではなかった。だからか、積極的にマナーを教える本を買ってまで、勉強しようとはしなかった。二人だけで食事をしているときまで、いるのかなそういうマナーは、と考えてもいた。きゅうつくだとは思ったけれど、云い出しかねた。
玻璃姫は機関銃のようによくしゃべった。
「あなたはあまりヤマの言葉を使わないわね」と、姫は唐突に言った。
そうかな、と宗茂は自分のことながらあいまいに応えた。
「私の前だけ、無理して使わないようにしているんじゃないでしょうね?」姫は訊いてしまって、自分のその言葉に驚くふうだった。黒く澄んだ瞳には疑いと怯みの翳がさしていた。
まさか、と短く言った。ぼくがきみを騙していると疑っているのか、とは怒らなかった。マナー教授のときから少しずつ言葉を発する気力が萎えてきていた。
むしろ宗茂は、無意識のうちにしろ、ヤマの言葉を自ら捨て去ってきた人間だった。自分で捨てておきながら、後ろめたさを感じていたのだ。ヤマの言葉を実際に使わなくなったのは、標準語が主の読書の影響が大きいと思う。実際その頃はもう、小説にヤマの言葉を書きこもうとしても、ほとんど想いだせず苦労するほどになっていた。でも、ぼくらの言葉をきみにああいうふうに拒絶されるとやっぱり寂しい、とは云い出しかねた。その後も、ほとんど相槌だけを打っていた。
なんだか元気がないわね、と姫が訊いた。ちょっと疲れた、と言った。姫も黙りこんだ。
店を出て、歩いた。宗茂は自分の言った「疲れ」とは何の疲れだろうと考えながら歩いた。仕事の疲れでもない。姫の度が過ぎたおしゃべりに疲れたわけでもなかった。ただその話し方や話の内容がいやな感じだったのは確かだった。でも、それだけのためではないように感じた。
川面を走ってくる風が横から吹きぬけていく。橋を渡っているとき、姫に自分の疲れを伝染させてはいけないと思った。「風がすごいね、寒くない」といって姫に笑いかけた。
ええ、大丈夫よ、と姫も笑った。
姫が車を置いている駐車場まで宗茂は送っていき、車に乗る前に口づけを交わした。そして、発車した車を見送って、天上の低い車庫の出口でしばらく佇んでいた。そのとき、この一月から二月にかけてずっと、重い雲のようなものが頭上に圧しかぶさっているように感じていたことに、今更のように気づいた。そして、改めてその圧迫の息苦しさを鮮やかに感じて、苦笑いを笑った。しかし同時に、姫と二人一緒の世界にいることだけで、その圧迫や苦しみさえ、そのすべてに満足している自分がいたことも確かだったのだ。