第15話

文字数 6,590文字

 初恋、あるいは玻璃の呪縛 8

 見ると、玻璃姫の愛娘は沈んだ表情で、何か考えこむ様子だった。あんなに幸せそうに笑っていたのに、急にどうしたのだろう。左近将監(さこんのしょうげん)宗茂は心配になった。その伏せぎみの眼の端には、なにかつっけんどんな気配がただよっている。何かを思い詰めているのか。怒っているの、誰に対して? まさか〈結婚〉について悩んで、苦しんでいるのじゃないだろうね? と訊ねてみたくなった。苦痛から眼をそらすために怒っているの? 悲しみの波と涙を堰き止めるために無理に怒っているように見えた、あの時の玻璃姫のように。

 家に電話がかかってきたのは、十二月の二十九日だった。
 数秒無言がつづいた。受話器のなかの無音の空間には、怒りの粒子が震えながらみなぎっている。理由もなく姫からだと分かった。確認せずに「もしもし、どうしたの?」と訊いた。わたし、とだけ言って、一度姫は言葉を切った。
「ごめんなさい。わたし、結婚できないわ」と唐突に切り出した。緊張に張りつめた声で、つっけんどんな口調だった。「頭を冷やして考えてみたの。結婚できないなら、早いうちに離れたほうがいいと思ったの」
 宗茂は二日前、姫の言ったあの言葉は何だったのか、と思った。だが言葉にはしなかった。いまなら、人の言葉なんてそんなものだと分かる。絶対に変わらない言葉なんてない。気持ちに任せて、勢いで言ってしまうこともよくある。愛が漂うのだから、言葉が移ろわないはずはないのだ。
「わたし、地に足がついてなかった、そのことに気づいたの」
 それは、あの尾道の寺のおみくじの「運勢」の文章、「恋愛は地に足がついていないので気をつけなさい」と同じではないかと気づいた。けれど、これも言葉にはしなかった。
「わたしからすべてを言って、それにあなたがついてくる」と姫は言った。確かにそのとおりだった。彼は改めて頷いた。「わたし、あなたを振り回し、あなたの生活をかき乱しちゃった。ごめんなさい」
「それはぼくの性格の弱さのせいでもあるから」と言った。「あやまらなくてもいいよ」
 ごめんなさい、でも、と姫はくり返した。「わたしをこれ以上追いこまないで。結婚できない理由は聞かないで」
 分かったよ、と宗茂はすでに話を続ける気力を失っていた。「でも、君こそ大丈夫なの?」姫のことが心配になった。この二日の間に、あの厚化粧の仮面を付けたお母さんに、どんな威圧的な言葉で首根っこを押さえこまれ、その頬にどんなきつい言葉を投げつけられ、責めたてられたのだろう。鋭く尖った言葉で突き刺されて、玻璃の心は割れなかったのだろうか。「あの男と一緒になったら、あなたの人生をドブに捨ててしまうことになるわよ」くらいは脅かされたと思うのだが。
 姫は何とも応えなかった。ただ「さようなら」とだけ言って、電話を切った。電話が切れたあと、宗茂はしばらく受話器を持ったまま立ちすくんでいた。眼は何も見ていなかった。頭は空っぽで、電話ではなく姫と面と向かって正直な気持ちをぶつけあって話し合おう、というアイディアもひらめきようがなかった。家の奥で誰かが動き出す音と気配がした。はっとして受話器を黒い電話機にもどした。
 その二日前、あの日は会社の納会の日だった。
 宗茂はビールを少し飲んだだけで早めに抜け出した。人生で初めて着る三つ揃いのスーツで身を固めて、姫との待ち合わせ場所の喫茶店に向かった。
 馬子にも衣裳、とはよく言ったものね、と姫はうれしそうに笑って言った。ぼくは馬子かい? と複雑な笑みで宗茂は受けた。
 ごめんなさい、と言って姫は、バックから赤いビニール袋をとり出し、「これ、プレゼント」と言って宗茂に渡した。
「ああ、ベストだね」と言って、宗茂は袋から、姫が心をこめて手編みしたベストを出して触った。カシミヤ毛糸で柔らかく温かそうだった。うれしかった。「ありがとう」と彼は礼を言ったけれど、大仰に喜びはしなかった。やっぱり緊張していたのだろう。
「わたし、反対されないと思うわ」と姫はまた言った。無理に自分に言い聞かせる緊張感が言葉にはりつめていた。「あなたの会社、広告会社でも大きいほうだし、親会社は全国区だもの、ましなほうよね」
 姫の家へ着いた。居間に通され、コーヒーとケーキが出た。家犬のジョンがソファに寝ていた。もう相当な歳で、客に吠える体力もないらしい。宗茂はカブト虫や金魚を飼ったことはあったけれど、家で動物を飼ったことがなかったので、ジョンの相手もできなかった。
 出迎えたのはお母さんだけだった。姫の母親は高価そうな洋服を着て派手な装飾品を身に着けていた。厚化粧の顔には、初老の婦人の厚く固い仮面を着けているようで、それを外すとそこに、どんな本当の顔が隠れているのだろうかと興味をそそられた。表むき人当たりはよかった。けれど、顔を合わせた瞬間からどこか傲慢で冷たい表情が見え隠れし、眼力は強かった。が、宗茂が眼を向けると、ふっと眼線をそらしたりした。彼は人見知りの性格で、人と話すことも得意ではなかったので、話は弾まなかった。母親と眼を合わせることもしだいに億劫になっていった。逃げるように姫と眼を合わせると、苦笑を交わした。
 姫と母親が台所に入ると、母親の大きな声がもれてきて、所々その言葉が聞こえた。まるで宗茂にわざと聞かそうとしているようだった。母親のことをいつか姫は、「オニババ」と手紙に書いていた。こんな手紙だった——「クタニさんと風月堂で甘いもの食べて帰りました。7:00すぎになったらオニババがおこってました。あの人は私が何をやってもおこります。(だから何をやっても同じです。というのはへ理屈ですが)」。ああオニババなら、遠くからわざと悪口を聞かせることなど、御茶の子さいさいだろうと思った。
「あの気の弱そうな眼。あの人、係長にもなれないわよ」なれないんじゃなくて、係長になんかなりませんよ、と宗茂は反抗的に言い返してやりたかった。そのときはまだ苦笑して聞く余裕があった。
「あの貧相な黒い顔、見たでしょ。どこの国の馬の骨か分かったもんじゃないわよ」
 姫の身内のことだし、娘を大切に思う愛情がなせる暴言なのだろうから、ここは聞き流そうと思いながらも、宗茂はたまらなく唾を吐きたくなった。おそらくその言葉そのものよりも、当の宗茂に聞かれてもまるで気にならないらしい、彼女の態度にとっさに吐き気をおぼえたのだろう。その態度の芯には、炭坑の人間など人として気を遣うに値しない存在だと見下す悪意が、背骨のように通っていることに頭ではなく感覚で気づいたのだろう。けれど、床に唾を吐き捨てて荒々しく立ち上がり、この部屋を出ていくことはしなかった。できなかった。あのときなぜ、さっさと出ていかなかったのだろう、とこのあと家に帰る途中で思った。おめおめとオニババと同じ空気を吸い続けた自分が情けなかった。
 そして、いつか海峡の見える駐車場で、姫の口を通して語られたオニババの差別語を思い出した。あの時から今までそのことについて、まったく考えなかったわけではないけれど、正面から向き合うことは避けてきた。彼女の言葉に対する自分の気持ちや向き合い方や、覚悟を明確にしようとはせず、逃げていたことに気づいた。確かに、一度も人を殴ったことのない、怒らない男であった。
 彼女はほかにも、陽気といってもいいくらいに元気な大声で、宗茂を貶める言葉を台所でまき散らしつづけた。それらの言葉の悪意は彼を神経ガスのように包みこんだ。怒るよりも神経が疲れた。姫と結婚してこの母親と義理の親子になることなど、本当にできるのだろうかと考え、暗澹たる思いにも包まれた。偏頭痛もした。結局それらの悪口雑言を真に受け止めないまま、ワラ人形のようにその場に座り続けたのだった。
 姫が車で送ってくれた。高速道路の休憩所で停車して話した。
「絶対に退かないで。わたしにはあなたしかいないの。オニババが反対するなら、式なんてあげなくてもいいの。家を出てもいいの」と、姫は泣きながら訴えた。夢中だった。その懸命さが痛々しかった。「離さないで、あなたについていく」
 宗茂はうん、とだけ言って、ただ彼女を抱きしめていた。怒ったのでも恐れたのでもなかった。ただ疲れ切っていた。「大丈夫、絶対に退かない、離さないよ」と、強い言葉で姫を安心させることもできなかった。風船より重い約束を結べない男であった。眼も痛かった。姫が眼の上をもむ方法を教えてくれた。
 別れるとき、姫が言った。
「年末年始しばらく会えないと思うから、言えないと思うから、いま言っとくわ、『好きよ』」
 車を降りながら、「ぼくも好きだよ」と宗茂はやっと言うことができた。
 二人はぼろぼろの微笑を交わして別れた。
 ——そして、十二月二十九日の電話だ。
 一月になって、二人は会社で顔を合わせた。姫はアルバイトを辞めなかった。六日に、二人は初めてのデートをした赤煉瓦の喫茶店で落ち合った。隅の、灯の当らないようなテーブルにひっそりと潜むふうに座って、話をした。
 この日の、玻璃姫の表情も声もまだ微妙に怒っていた。まだ、怒っていないと、悲しみにおし流され、涙の渦にもみくちゃになって、玻璃の心はその中で粉々に砕けてしまうと怖れていたのだろう。この年末年始の危機の間、ずっと混乱し怒っていたのかもしれない。それでも、この日の声は年末の二十九日の電話の声に比べたら、ずいぶん落ち着いて乾いていた。それは、宗茂の不甲斐なく続いている落ち込み方に比べて、したたかな復元力だった。
「二十九日はそうとう混乱してた?」と宗茂から訊いた。
 ええ、ちょっとね、と姫はそっけなく言った。
「すごい日に言ってくれたね。年を越してからでもよかったんじゃない」と宗茂は冗談めかして言って、紅茶を口に含んだ。「悲惨な年末年始だったよ」
 ごめんなさい、ってあのときも言ったじゃない、と姫は突っかかるふうに言った。姫は握りしめた両の手を腿の上に置き続けていた。
 で、混乱は整理できたかい? と何げないふうを装って訊いた。
 ええ、だいぶ、と姫は淡々と言った。「状況は変わらないけど」
「状況は変わらないか?」と彼は言った。「それにしては、話し方に深刻さが感じられないね」
「まあね、何回も言っているように、今生の別れってわけじゃないもの」姫の声は少し震えていた。「ただ付き合い方を変えるだけじゃない」
「それって、〈結婚を前提にした幸せな恋人たち〉から〈結婚しないことを前提にした、元カレ・元カノという友人〉に、関係をきり替えるということだよね」
 まあ、そうね、と急に驚いたように眼をぱちぱちさせて、姫は言った。
「ぼくは子どもだからね、そんな器用なことはできないし、したくない」宗茂は少し引きつった声で言った。
「器用なんじゃなくて、きっとずるいのね」と姫は言った。
 ずるい? と彼は訊き直した。そのときには、姫の言うずるさの意味は分からなかった。
 そうね、でも、どちらにしても、と姫は言った。「現実的に結婚を前提にしない付き合い方ができないのなら、別れるしかないわね」
「ぼくにとって付き合い方をそんなふうにころりと変えることは、今生の別れと同じだ」
 どうしようもないわ、と姫はまたずるい仮面をかぶった。
 何があったの? と宗茂はやめていたマニュキアの復活した指爪を見て、訊いた。想像できたけれど、訊かずにはいられなかった。「どうしてこんなふうになっちゃったの? すっきりしないなあ」
 すっきりしないって、どう言えばすっきりするの! 姫は切れた。
 隅っこに隠れていたのに、少し離れたテーブルの客たちが瞬間固まるのが、張りつめる空気で分かった。
 どう言えばって、と宗茂は言葉に詰まった。一番近い席の若い女性客の好奇の眼が気になった。喉が異常に乾いた。冷めた紅茶をごくりと飲んだ。
 わたしの性分なのね、きっと、と姫は言った。さすがに声をひそめて。「だめだと思った。わたし、家族の反対や何やかやを、結局は乗りこえられないだろうと分かったの。自分が家を出たりできないことや、このまま進んでも、肝心のところで引き返すだろうって、分かっちゃったの。そういう自分の弱さに目が覚めたの。それなら早いうちに、傷が深くならないうちにやめた方がいいと思ったの」
 性分ね、と宗茂は言った。「その可能性や危うさは初めからわかっていたけど、ぼくがもっともっと強くなって、二人で力を合わせれば何とか乗りこえられると思ってた」
 きっとだめ、と姫は宗茂の言葉をさえぎるように話した。「あなたが変わる努力をしても、わたし、自分を変えたくないの。わたしは変わらない、変われないと思うし、ずっと変わりたくない気持ちを見ないようにしていたことに気づいたの」
 宗茂はただ苦笑するしかなかった。沈黙が長引くうちに、姫はふくれっ面になり、眼はうるんできた。空気が薄くなって息苦しい。その張りつめた雰囲気に、そしてそれをかもす張本人の自分に、もう苦笑もできず苛立っていく。いつのまにか煙草をくわえていた。
「それじゃあ、結婚できないんじゃなくて」と一度言葉を切った。「こんなぼくとは、結婚したくないんだね」
「そうなるかしら。そうね、その方が主体的ね」と姫は言った。その頃〈主体性〉という言葉が流行っていた。「わたし、やっぱり部長以上になってもらいたいの、いっしょになる人には。そういう環境でしか、幸せにはいられないような気がしたの」姫のふくれっ面はしぼみ、今にも泣き出しそうな顔になっていた。「条件が合うこと、やっぱりそれがわたしにとっては必要みたい。環境から整えていくタイプなの。タイプはどうにもならないわ。式を挙げなくてもいいなんて、つい夢中で言っちゃって」
 そんなことで、と姫の言葉をさえぎった。
「そんなことなら、ぼくが部長になればいいんだろう」と宗茂は言った。「君のことが大好きだから、ぼくは変わることはできる」今なら恥ずかしくてとても言えない言葉を口にしながら、嘘をついていると薄々分かっていた。
「何度言ったら分かるの。あなたをそんなふうに変えたくないし」と姫は言った。「わたしも変えられたくないし、変わりたくないの」
 宗茂は覇気などとは縁のない男だった。責任を負うことが嫌で、人の上に立つことを面倒くさいと感じる男だった。そんな勝ち組を目指そうとしない男のことが嫌いになったんだね、と口に出しては訊かなかった。尋ねるまでもなかった。彼の生き方や弱さを嫌いになるか、厭わしく感じ始めている冷たい部分が姫の心には生まれている、とひしひしと感じた。姫の気持ち、あの情熱はまだ冷めきってはいなかった。でも、もうだいぶ冷めている。彼も凍えた。煙草のけむりも温めてくれそうになかった。
「けっきょく叛乱はあきらめたんだね」面倒くさそうに煙草をつけて、一口吸った。
「そうね。叛乱して、一生懸命頑張ってそれが成功しても、あとが大変でしょ」と姫は言った。「いろんなことを我慢して、つつましく生活する暮らしに堪えられないと思うの、わたし」
 宗茂は、つつましい生活には堪えられないというのは嘘だと思った。姫はこの日ずっと、自分のことを叛乱できない弱い人間としておとしめて話していた。けれど、彼女自身が気づいているかどうかは判らないが、たぶんその自虐的な物言いの裏側には、宗茂の弱さに対する本能的ともいえる憎悪がどっかと腰を下ろしてしまっている。そのことに彼は気づいたのだ。
 二人は店を出た。冬の夜の痛いような冷気が、委縮した気分をシャキッとさせるようで、宗茂には心地よかった。
 終わりだね、と平たく言った。
 姫は表情を変えずにかすかに頷いた。
 二人は別々の方向に道を歩き出した。
 駅のプラットホームに出ると、宗茂は電車を待ちながら、夜の中に延びる線路のずっと先を見ていた。闇を見るでもなく未来を見るでもなく、そうするうちに、妙な気分に傾斜していく自分に驚いた。気分が徐々に何ともすっきりしていく。さっき姫には「すっきりしない」と責めたのに。ふいに解き放たれたと感じた。自由だ。体が急激に軽くなって浮かんでいくようで、こわくて、あわてて視線を足下にもどし地面を踏みしめた。
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