第23話

文字数 9,045文字

 初恋、あるいは玻璃の呪縛 12

 左近将監(さこんのしょうげん)宗茂にはその年、玻璃姫と付き合うのと並行して、Ⅴ氏という新しい友ができた。姫の愛娘の背後の、うそ寒い風景画を思わせる裸の桜林に、一箇所だけ線のような陽を受けて白骨のように光る枝があった。その光る梢を見て、Ⅴ氏のことを想い出したのだった。当時、彼は音響会社の社員だった。
 ああ、そうだ、Ⅴ氏も急死したのだった。五十の年に、暴飲暴食がたたってか、肝臓を内から破壊して、はでに血を吐いて死んでしまった。豪放磊落な彼らしい死に方といえば言えなくもなかったが、葬儀場で残こされた奥さんと一人息子の、小学生の男の子と顔を合わせたとき、少し摂生するように注意すればよかったかと自省の念にかられたのを覚えている。豪放だが、実は寂しがりのところがあったので、仕事のあとも気の置けない仲間や友人たちと離れられなかったのだ。子どものいる家庭は憩いの場であることは確かだが、気を遣うこともあるので、ついつい外で仲間たちとバカを言いながら楽しく飲み食いする方に流れたのかもしれない。
 スローモーションのように近づいてくる、玻璃姫の愛娘の色をうしなった桜花のような顔を見ていると、なぜかカワハギの刺身のヴィジョンが重なって見えた。あの頃の一時期、Ⅴ氏とカワハギの刺身を食べに、とある小料理屋に入り浸っていたことがあったのだ。
 旬のカワハギの刺身は、透明感がありツヤのある白身であった。

 ねえ(あのころⅤ氏への声掛けは「ねえ」だった、「なあ」でも「おい」でもない、そういう関係だった)、Ⅴ氏、あの店のカワハギの刺身は本当においしかったよね。歯ごたえはフグみたいに弾力があって、味は淡白でクセがなかった。けど、噛めば噛むほど甘みが広がる、上品な美味しさがあったよね。肝は脂がのって濃厚で、とろりとした食感で、喩えようもなく美味だった。天の上には、Ⅴ氏よ、友よ、あんなにおいしい刺身はあるかい。
 Ⅴ氏とは、デパート前広場での隔週のミニコンサートイベントで一緒に仕事をし、家が近かったので彼の車で送ってもらったのがきっかけで、親しく交際するようになった。
 ねえ、友よ、Ⅴ氏は豪放で闊達、自信家で、何にでも積極的に向き合うタイプの男だったよね。後年、若くして小さいながらイベント企画会社を株式会社として立ち上げ、社長となった。そのときは音響だけでなく、電飾・イルミネーションを専門に扱うようになっていた。真反対のタイプの人間だったけれど、なぜか気が合って(自分はカメラ、Ⅴ氏は音響・電飾と、ある一つの技術のプロフェッショナルを目指していたという共通点があったので、気持ちを合わせやすかったのかもしれない)、焼き肉屋や魚のおいしい店で一緒に飲むようになったんだよね。
 ねえ、友よ、あれは三月のまだ寒い夕方のことじゃなかったかな。旬は外れているけど大きくて新鮮なカワハギが入ったとの情報をつかんだ君が、いつもの小料理屋に食べに行こうと誘ってくれたのだった。店はカウンター席だけの狭く、小ぎれいというか小汚いというかどちらとも言えそうな店で、偏屈とまではいかないが人付き合いの不得手なおやじさんと、明るく気のいいおかみさんの二人で切り盛りしていた。予約していた席の、古い木椅子に腰かけると、おやじさんは注文も聞かずにカワハギをさばき始めた。
 カワハギは二十五センチほどの大型である。目は黒く澄んでいた。
 カワハギの刺身ができあがるまでには少し時間がかかるので、Ⅴ氏はおかみさんに、赤造りのイカの塩辛とビールを頼んだ。イカの塩辛は自家製で、イカの耳の部分を多めに使っているのでコリコリとした食感が楽しめる。ゆずを入れて臭みを抑えているが、甘くなりすぎない工夫(門外不出)がされているそうで、酒のあてとして絶品だった。
 頭にある突起部の後ろから、おやじさんは包丁を入れる。ぐいっと胸鰭下まで切り進め、途中で止めた。
「あそこに硬い骨があるんよ」と、ビールをぐいぐいと飲みほしてⅤ氏が言った。骨に刃が当たったので止めたらしい。「よう見ちょきいよ、これからがおかしいき」
 おやじさんはⅤ氏の解説に何の反応も示さずに、そこで包丁を置き、両手で魚の頭と胴をつかむと、ぐっと左右に引きちぎった。おお、お見事と感動した。
 ねえ、友よ、君は牛蛙の解剖の授業で、メスで裂かれる蛙の白く膨らんだ腹や、取り出されてもピクピク動いている赤青い心臓から、憑かれたように眼の離せない少年のように、おやじさんの手元に見入っていたね、それこそ食い入るように。美食家ではあったけれど君は、自分で美味しい料理を作ろうなんて考えは微塵も持っていなかった。ただ知識として下ごしらえからさばき方や煮方、焼き方などの調理法を頭に蓄えていたかったのだろう。そして、それを友人知人に解説することが無類に好きだったよね。
 おやじさんは、頭側に付いている子どもの掌くらいの肝をつぶさないように、下から受けながら取り外した。肝は、幅広のピンセットで血管を取り除いて水洗いし、氷塩水につけて血を抜く。
 ビールが亡くなったので、友よ、君は「剣菱」の冷酒を注文したよね。「剣菱」はそのころ人気があり、手に入りにくかった。冷酒を宗茂の猪口に注ぎ、自分も手酌でハイスピードで飲み干していったね。いつものこと、宗茂もⅤ氏に引っ張られるように盃を重ねていく。
 おやじさんは頭の皮を剝いでいく。エラを取り出す。エラは鮮やかな赤色をしている。頭をぶつ切りにし水洗いして、吸い物用に残しておく。
 吸い物も美味しいきね、とちらりと頭のぶつ切りに眼をやってⅤ氏は言った。そして、剣菱の冷酒をぐいって飲み干し、また注文してから、宗茂に何気ないふうに「このごろちょっと疲れているみたいやけど、何か悩み事でもあると?」と訊いてきたのだ。Ⅴ氏から誘い水を注いでくれたことが宗茂の口を軽くしたのかもしれない。で、二人の恋を姫の親に反対されていることと姫の計画について話した。ランチでのマナーのきゅうくつさやぼくらの言葉に関する淋しさについても話した。
 カウンターの向こうのおやじさんは、カワハギの胴体部分の腹の中の内臓部の血合いをきれいに洗い流している。
 宗茂は確かに、Ⅴ氏のペースにまき込まれ飲みすぎて酔いがかなり回っていた。それもあるけれど、友よ、なぜか君には自然と玻璃姫と二人の恋のことを話すことができた。
 おやじさんは、カワハギの胴部の皮を剥ぎ始めた。鱗が小鱗化しざらざらした皮を、頭側の切り口からめくって剥がしていく。みごとな手際だった。その美技に見入りそれから眼を外すことなく、Ⅴ氏は宗茂の話を聞き、意見を述べていくのだった。
 ねえ、友よ、君は開口一番即決で「もう別れた方がいい」とはっきりと言ったね。そして、自家製のゆず入りイカの塩辛を口に運び、うまそうに咀嚼した。
「というのがおそらく正解だし、二人のためにもベストな選択だと思う」と君は続けた。
 おやじさんは聞こえないふりをしている。元々寡黙な人だったから、わざとらしさもなく、気にならなかった。黙々とカワハギの身を三枚におろしていく。そのおやじさんの手元を見つめながら、冷酒を飲みながら、友よ、君は「今のまんまの二人で叛乱を続けるのは無理やと思うっちゃね。きっと疲れていくだけばい。けど…」と言った。
 けど? とすがるように訊き返していた。
 おやじさんは、黙々と、うす皮をとり、腹骨、血合い骨を切り取る。
「けど、どうしても続けたいとなら、まず隠すことからやめた方が良かと思う」と、友よ、君は言ったね。おやじさんは、カワハギの身の背側を奥にし腹側を手前に置き、右から左に少し浮かせるようにして薄く引き、薄作りにしていく。その様子から眼を放さずに、Ⅴ氏よ、君は言ったんだ。「隠れてこそこそやることは逃げることやき、最初から逃げとったら、逃げる方が負けやきね」
 そうだね、と言うと、少しだけ心が広がったように思えた。冷酒による心地よい酔いのせいに過ぎなかったのかもしれない。とにかく、自分の弱さと姫の弱さを合わせたら、隠れ家から外の光の下にはい出るくらいの力は出るかなと考えた。そして、冷酒を少し多めに口にふくんだ。
「その上で、俺ならもっとガンガン攻めるね」、Ⅴ氏は煮えきらぬ友に反発するふうに冷酒をぐいっと喉に流しこんで、ちらりとも宗茂の方を見ることなく言った。おやじさんの包丁さばきを注視していたのだ。
 鼻の穴が大きくふくらんで見えた。Ⅴ氏の顔は猪八戒に似ていた。いや、もう少し可愛げのある『かいけつゾロリ』の猪のふたごイシシとノシシにそっくりだった。鼻息荒く、好きなことに、猪突猛進。
 ねえ、友よ、確か君も後年、結婚を反対されたよね。そして、有名音楽家の娘、美貌のヴァイオリニストをガンガン攻めて射落とした。そういう男だった。
 おやじさんはカワハギの薄造りにした身を大葉をひいた皿にのせ、おかみさんが湯引きして冷やしておいた薄皮を手元に用意した。
 ああ、薄皮も湯引きしてくれたんだあ、とⅤ氏は感激するふうに言ってから、宗茂に「姫だっけ、姫にもそのオニババに対しても、なりふり構わずガンガン攻めまくってほしいっちゃね」と言った。
 おやじさんは、湯引きした薄皮も皿によそおうと、冷やしていた肝を取り出した。
「それこそ強くなるためにもね。けっきょく育った環境の違いだよね、それでうまくやっていけるかは、やっぱきついやろうけどお互いの気持ち次第、その強さ次第だと思うっちゃ」とⅤ氏よ、君は言ったね。「姫の家に乗り込んで、絶対に姫を幸せにします、と熱い言葉でガツンと言っちゃるんよ。そっからばい、すべてはそっから動き出す気がするっちゃね」
 宗茂もだいぶ酔いが回ってきていた。それでも、留め金はまだ外れていなかった。Ⅴ氏の言葉の勢いに対抗するにはもっと酔う必要がある。苦しいのに冷酒をあおってグラスを空け、同じのを注文した。
 おやじさんはきれいな肝を包丁で叩いてつぶし、小皿に入れた。あとで醤油を足してまぜて、濃厚な肝醤油を作るのだ。
 おお、今日は肝が新鮮だから、肝醤油なんだ、楽しみだな、と友よ、君は本当にぶるっと震えたね、あのとき。おやじさんの手元に見入りながら言って、そのまま「当たって砕けろという言葉があるやろ」と続けた。見てもいない宗茂の顔色を読んだかのように、勢いを少し落として。「オニババに当っていくしか道はなかばい。砕けるのはこちら側ばかりとはかぎらんきね。もしかしたら、当たる壁の方にレンガが砕けて穴が開くかもしれん。そういう可能性はゼロじゃないということや、とにかく当たってみることで、どちらが砕けるにしろ先に進む道が開けるんじゃないやろか」
 おかみさんが作ってくれたカワハギのアラの吸い物と一緒に、薄造りと肝と醤油をおやじさんが「へい、お待ち」とぼそっと言って、二人の前に並べた。宗茂はそれに眼を向けもせず、おお、来た来た、ありがとうとはしゃぐⅤ氏に話しかけていた。
「ぼくも、姫は試験勉強をがんばっているのに、自分は何もせずに待っているだけなのが苦しくて」と言った。「何かするべきことがあるんじゃないかと考えて、考えあぐねて、やけになってオニババに体ごとぶつかって行こうかと思ったこともあったよ。家の窓から冴えた夜の空を見上げて、ね」そこまで一気にしゃべって、考え込むふうに黙った。
 でも、と突然、上ずった声を上げた。「Ⅴ氏はオニババを見たことがないよね、と反論に出たのだ。酔っているなと自分でも思った。「会ったこともないよね」
 もちろんないよ、と友よ、君は冷静に答えた。宗茂が一気にしゃべりⅤ氏がそれに答える間、Ⅴ氏の手は小皿の肝に醤油をさし、丁寧に箸でまぜて、肝醤油を作っていた。そして、宗茂に「まあ、とにかく肝醤油を作ったら? 新鮮なうちに刺身を食べようよ」と促し、薄造りの身を二、三枚まとめてとって、肝醤油にたっぷりとつけて口に入れた。
 ものすごく恐ろしいんだよ、と宗茂はかまわず続けた。震える声でそう言ってしまって、初対面からこの日までの間、オニババの顔も声もどこかの暗い穴倉に押しこんで隠し、ほとんどその存在を忘れていたことに気づいた。Ⅴ氏と話すうちに、穴倉からオニババを引きずり出していたのだった。
 Ⅴ氏はカワハギの薄造りをもぐもぐ噛んで「うーん、美味い! 甘露、甘露」と上機嫌だった。
「その鉄仮面の冷たさを想像できるかい?」眼の前によみがえったオニババは、まるで墓穴から生き返った死者のように見えた。瑞々しく新鮮で生々しくさえ見えた。顔は、厚く(その厚さは数センチはあるかと思われた)塗りこめたクリームやファンデで、肌のシミや小皺や毛穴や、本心などを覆いかくし均等に整えられ、艶やかに光っている。
 もうその辺で止めた方がいいばい、と友よ、君はそのとき低く言ったね。「さあ、食べよう。新鮮なうちに食べんともったいないばい」
 Ⅴ氏は悪口も冷酒も制しようとしたのだと分かったけれど、宗茂は二つとも止めなかった。「でも、その鉄仮面を笑顔にすることはできなくても、殴りつけることはできるかもしれないけどね」
 友よ、君は刺身をたいらげ、冷酒を飲み干し、お吸い物に口をつけ、そして黙ってまじまじと見ていたね。
「初めて会ったとき、その声は優しかった。とても好意的に聞こえたんだ。でも、変にそわそわして、話している相手から眼を向けられると、ふっとその相手の眼から眼をそらそうとするんだ。だからかな、好意的なんだけど何だか嘘っぽくも聞こえるんだよ。余裕のある声なんだ。でも、よく観察するとその余裕は、家格の低い者、下層の貧しい者、もろもろの弱者を見下している、権力者の目線の余裕だと分かったんだ。そのときは芯からゾッとしたよ」
 でも、何より怖いと思ったのは、と言って、宗茂は一瞬躊躇した。もう口を止めたいと自分でも思った。なのに一呼吸おいて、「そういう人が中学校の先生をしていたことなんだ」と苦笑いを笑いながら続けた。が、それは思いつきの身代わりの言葉だった。本当に何より怖いと思ったのは、オニババその者よりも、オニババにぶち当たって撥ね飛ばされる自分の無様な姿を姫に見られること、無様な自分をオニババにそれこそ見下されること、その羞恥だったのだ。
 絶対に姫を幸せにします、か、と宗茂は疲れた声で言った。「Ⅴ氏の言うことは正しいとは思うよ、でも——」オニババを前にして「絶対に姫を幸せにします」とガツンと断言する自分の姿を想像することができなかったのだ。それができるとしても、今ではない、もう少し先のいつかのことだと思っていた。
 Ⅴ氏はお吸い物を飲み干すと、「おやじさん、本当に美味しかったよ、今日はありがとう」と、カウンターの奥に引っ込んでいた店主に礼を言った。その流れで、そうだよ、と宗茂にむかって言った。「ビビッているみたいやけど、いいかい、一人っ子の姫と結婚する気なら、最後にはオニババと一緒に生きる、一つ屋根の下で生活する覚悟をせんといかん。それは避けられんとばい、そのことだけは忘れちゃいかんとばい」
 覚悟ね、そうなのかもしれないね、と宗茂は感情のこもらない声で言った。オニババをただ恐れ、その悪意を糾弾するだけでなく、オニババのその深海のような懐にとびこむ覚悟を持たねばならない、とは頭では理解できた。宗茂はカワハギの刺身にはまるで手を付けず、冷酒だけを胃の腑に流しこみつづけた。
 でも、もしかしたら、と宗茂は、ほかの客やおやじさんが驚いて椅子から尻を上げるほど、調子っぱずれの声で言っていた。「ぼくらはオニババをす…」と低く言いかけて、はっとその言葉の意味の重さに気づいて、途中で言葉を飲みこんだ。オニババを捨てて、オニババから逃げて、二人で駆け落ち的な道を選ぶことだってできるのではないか、と口走ろうとしたのだった。
 天の友よ、君はこちらをじっと見詰めて、悲しそうに言った「本当にそんなことができると思っとうと?」
 確かに、と宗茂はつられるように言った。流行りの恋愛小説なら必ずそのようなスリリングで冒険的な展開をクライマックスの前に組みこんで、読者の興味を惹きつけるのだろう。けれど、小説を書いていても自分にはそんな冒険はできない。あの姫もそんな無秩序で不安定な道を選ぶはずがない。またその後の生活に耐えられないだろうこともすぐに分かった。現実とはそういうものだ。でもそのことは口にしなかった。代わりに、「今気づいたよ」と短く言った。しかし、その後の言葉もまた飲み込んでしまった。いまの自分には「絶対に姫を幸せにします」と言い切る自信がないんだ、と。
 そのとき、この小料理屋の常連で顔見知りのお寺さんが「やあ」と入ってきた。腹が出て、赤ら顔の生臭坊主と愛称されている和尚さんだった。Ⅴ氏の隣に座ると、「ほお、今日はカワハギがあるんですな、タイショウ、私も同じものを」と注文した。
 天の友、Ⅴ氏は「また、いつでも相談に乗るよ」と優しく声を落として言うと、お寺さんの方に体をむけて「いつもながら鼻が利くね、和尚は」と笑って、豪快に冷酒を飲み干した。
 結局この日のあとⅤ氏のアドバイスは、二人の恋を隠すことはやめないかと姫に相談したこと以外、何も実行に移すことはできなかった。姫も今の二人には無理だと、それらのどれも望まなかった。
 姫はある手紙で、「でも2年も3年も待たせはしませんから。」と書いていた。一年か二年のうちに資格を取るつもりだったのだ。宗茂はその一年か二年の間を、彼らしく身勝手に先送りのモラトリアムと受けとった。出来れば、その間に信頼できる自分になれるよう努力しよう、と考えるには考えていたけれど。だからその姫のけなげな計画に安易に乗っかって、結婚と対決を先送りした。問題の先送り自体何とも不甲斐ないことだけれど、強くなるというその決意もまたどこまで本気だったか、はなはだ疑わしい。別れるまでの期間が短かったのも確かだけれど、当時を振りかえってみても、どんな積極的な行動や努力をしたかまるで想い出せないのだから。
 姫が望んだ部長以上に昇進することは、カメラマンという職種では元より難しかったけれど、宗茂の当時の年齢では何ともいえなかった。だから、適当な年齢になったときそれなりの努力をすれば、部長とまでは行かなくてもいくらかは昇進できるのではないか、と甘く考えていたような気がする。
 おそらく姫が強く望んでいたもう一つのことは、車の免許を取ることだっただろう。そして、宗茂の運転で自分を未知のパラダイスに連れて行ってもらうことだっただろう。取ろうと思えばすぐにでも教習所に行けただろう(実際、単車の中型免許は持っていた)。なのに、それもずるずると後に伸ばしていた。人前での失敗を過度に恐れる男だった。誰かにその失敗を見られることが恥ずかしかった。だから、自動車教習所で先生から運転を習うこと(そしてクラッチ操作をしくじること)や路上で車を運転すること(そして、交差点でエンストすること)がこわいほど嫌だったのだ。今なら分かる。おそらくそれは、彼の失敗を見る誰かの眼を受けとめる自分に自信が持てないためだったのだろう。他人の好奇の眼に射られても、自分はその矢尻に傷つけられることはない、いや殺されることはないと信じられなかったのだ。煙草も何となく止めなかった。
 結局、玻璃姫の愛と努力に頼りきって成り行きに任せた、というのが本当のところだった。なるようになるさ、と投げやりに考えてもいた。だけど、成り行きに任せ何もしないというのも、楽なように見えて、姫の努力と同じくらい違った意味で疲れるものだった。そうして、二人は疲れていった。
 宗茂はその日(三月の中旬だったと思う)、日曜勤務で、姫と会えなかった。翌日、姫はこんな手紙をくれた。
 —— 今日は今まで(5:00)ぐずぐずしてしまったの。
 午前中に部屋を片付けるつもりだったけど
 今もって私はパジャマ姿なの。(こんなこと書いたらもう呆きれて、お嫁にもらってくれないかもネ)
 日曜日はおもしろいTVもないし…なんてネ。
 あなたは働いているというのに勉強もせずに、手紙(乱文)ばかり書いてる私です。ごめん。
 —— 昨日、あなたが「疲れた」なんて云うから
 私はすこしおしゃべりの度が過ぎたのかしらなんて思っています。それとも話し方とか話の内容がいやな感じだったのかな。
 でも橋を渡っている時、笑いあったのを思い出して、ま、いいかなんて考えています。(でも寒そうなさみしい笑いだったネ)
 —— 反対されても元気(、、)にお付きあいしましょ。笑顔でネ。
 (お付きあいなんてあなたはやな云葉だと思うかもしれないけど。)
 もうすぐ春もくることだし。
 春も近い三月のある土曜日、午前中の仕事を終えたあと、二人で隣町のデパートの八階催場で開催されていた『横山大観展』を観に行った。幅一メートル二十センチ強、高さ七十センチ弱の「秩父霊峰春暁」の前で、二人はしばらく佇んだ。明けていく、朝もやにつつまれた秩父の連山と、わき上がる煙のような雲の、ダイナミックな静けさに引き込まれるようだった。姫はそっと宗茂の手をつかんだ。絵の内にやどり表に張りつめる清冽な精神性がこわいほどに心を打つ。宗茂は強くにぎり返した。そのあと、セビアンで、パールのネックレスを買い、姫にプレゼントした。
 翌日、姫がくれた手紙。
 —— 今日は本当に底抜けに楽しい1日でした。
 —— あとの用事がなければ、もっと遅くまでいたかったけど…。
 —— 今日の私はズに乗って毒舌さえれたり!ってかんじだったネ。それも反省してます。すこし最近口が悪すぎるネ。
 でもあなたが好きだってこと忘れないでね。
 —— …今 AM2:00です。
 とてもつかれてて、ベストもあめそうにありません。急にねむたい。
 ああ、また明日。
 夢であおうね。
 三月の末だったと思う。仕事をしている姫がとても疲れて見えたので、「疲れてるみたいだけど、大丈夫?」とメモをこっそり渡した。
 姫からメモが返ってきた。
 —— 何でつかれているか。Ans 朝、バスの中で債権のテキストを3ページよんだから。
 事務的な乾いた返信だった。
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