第11話

文字数 8,556文字

 初恋、あるいは玻璃の呪縛 6

 三人の城友(しろとも)はまた二段、石段を上がった。隣の男に守られた姫の愛娘も二段下って、少しだけ近づいた。しかし、そこでまた人流は渋滞した。
 川尾城は楽しみですな、と尼子(あまこ)筑前守さんが横を歩く夜討(ようち)之大将さんに話しかけた。川尾城は来月行われるオフ会で最初に城攻めする城址だった。三人の城友はそろって参加する予定だった。
 そうですね、なんといってもセイショウ公の縄張り(設計)ですからね、と夜討之大将さんが受けた。彼が中心になって計画を立て、下見もし、資料を準備していたので、詳しかった。「ずっと中世期の土造りの城だと思われていたのが、発掘調査で、総石垣造りの本格的な近世城郭だと判ったのですからね。その出てきた石垣をぜひじっくり見ていただきたいですね」
「本丸西側の石垣などですね。本の解説を読んだのでござるが、大きさをそろえた石材を積み上げ、丁寧に間詰石(まづめいし)をつめた見事な打込接(うちこみはぎ)の石垣だそうではないですか。さすがセイショウ公の城だ。高さも十二メートルもあったと推定されているとのこと、すごい城ですな」と、〈土塁〉派の尼子筑前守さん。
「それも確かにすごいですが」と〈堀〉派の夜討之大将さんも負けてはいない。「同じ本丸西側の、本丸と三の丸の間に造られた堀切も巨大ですばらしいですよ。ここもまた発掘調査で石垣が出てきたのです」
「そんな立派な城が一国一城令で破城になったとは残念無念でござるな」
「さらにその破城ののちに、石垣を完全に外し石材に土をかけて埋め戻していたことが調査でわかったんですよ」と夜討之大将さん。「おそらくキリシタンの乱で一揆軍が廃城に立てこもったのにこりて、また反乱軍に利用されることがないように石垣を徹底的に破壊したのだろうと考えられているのです」
 本当に楽しみでござるな、と尼子筑前守さんが声を弾ませた。
 左近将監(さこんのしょうげん)宗茂は二人の話に入ることができなかった。いや、二人の声は耳に音として入るには入っていたのだが、言葉として聞きとれなかったのだ。玻璃姫の愛娘がじわじわと近づいてくるその存在感に気圧され、久方ぶりに感じる心臓のドキドキに戸惑っていたのだ。娘は若い男の腕の中で、はずかしそうで幸せそうな微笑を、マスクで隠れていない上半分の顔いっぱいにあふれさせていた。まぶしくて宗茂は眼を細めた。が、彼女の顔のその明るい輝きのなかの、黒ダイヤのような瞳の奥に何かが揺れるのを見た気がした。
 ああ、あれは玻璃姫の存在の不安と同じものかもしれない、と宗茂は思った。

 玻璃姫は自分がこの世界に在ることが不安で仕方なかったのではないか、と振りかえって思うことが時々あった。きまってそんなときには、姫の黒く澄んだ瞳の奥に、すけた海月(くらげ)のような怯みが揺らいでいた。その海月を見つけるたびに、宗茂はその不安ごと姫を包みこんで守ってあげたいと思った。が、同時に自分にはそんなことはできないだろうと諦め切ってもいるのだった。その二つの思いがせめぎ合う靄の中で、ただ右往左往するだけで、結局、裸で抱きしめることのできた間にも何ができたわけでもなかった。
 その日、二人はお城の堀ぞいで待ち合わせた。待っていると、区役所のほうから真っ赤なコートを着た玻璃姫が子どものようにひょこひょこ走ってくる。そして、宗茂のそばにひょいと寄りそった。ロイヤルホストでコーヒーを飲んだ。この日は姫の給料日だった。昼に彼女はロイヤルブルーの毛糸を買っていて、そこで彼に見せた。毛はカシミアだった。彼のベストを編むのだとうれしそうに教えてくれた。好きな男のものを自分の手で作ること、自分だけの男のものがこの世に存在することに満足し、喜んでいるのだろう。絶対にかっこいいわよ、とっても暖かいわよ、と姫は夢中だった。
 そのあとホテルに向かった。203号室は新しく清潔だった。有線から、この年流行った石井明美の「CHA-CHA-CHA」が流れた。心の浮き立つ楽曲で、二人の緊張をときほぐしてくれた。
 姫はその歌詞を口ずさみながらシャワールームに入り、シャワーをあびた。室内は外からガラス越しに見ることができた。向こうむきに立つ姫は、顔だけこちらにひねって、見えるわね、と苦笑した。お尻は女性らしい丸みをおびていたけれど、腰から上は細かった。印象でいえば、玻璃(ガラス)みたいに薄かった。男は着ているものをぜんぶ脱ぎ、コンドームを付けてバスタオルを体に巻いて待っていた。
 薄いふとんに二人でくるまって、抱き合ってしばらく音楽を聴いていた。
 キスして、と姫が言った。
 横になったまま、腕をからませて唇を合わせた。そっと上唇を噛み、舌をからめた。しだいと荒々しく、喰らいあった。バスタオルは自然とほどけ体から離れた。男は彼女の耳にキスをし、耳たぶを噛んだ。乳房をさわった。愛撫し、乳首をつまんだ。舌をのどにすべらせ、軽く接吻をしながら胸まで下りていった。乳首を強く吸った。足をからませ、下腹を圧しつけた。女人(おんなびと)の息も荒くなった。挿入した。ヴァギナは今日も濡れかたが少なかった。姫はおぼれる子どものようにしがみついてきた。
 痛いかい? と五日前の姫の様子を思い出して訊いた。
 すこしだけ、と姫は言った。「だいぶ痛みはなくなってきたみたい」
 男はゆっくりと腰を動かし、長い時間をかけて射精した。姫のことに気を遣いすぎて、自分の欲情をスムーズに解放できなかった。途中、激しい衝動に突き動かされたけれど、何とか押さえつけた。不満はあったけれど、とにかく荒っぽくあつかうと、姫の体が、いや精神が壊れてしまう、とその頃は本気で思っていたのだった。大切なガラス切子のグラスを、乱暴に扱って壊してしまったら、取り返しがつかないという思いと同じだった。玻璃(はり)は壊れやすい、そういうことだ。
 仰向けに寝て、宗茂は息を整えていた。姫はその胸に頭をのせ、人差し指と中指の腹で男の乳首の辺りをなぞりながら、「あなた、こんなに汗をかいてる」といたずらっぽく言った。
「テニスなんかよりハードな運動だからね、セックスは」と宗茂は冗談めかして言った。
「わたし、ぜんぜん汗をかいてないわ」姫の体は白く乾いていた。「病気じゃないかと不安になる」
 病気という言葉が気になったので、宗茂は姫の眼を見た。黒く澄んだ瞳の奥に、すけた海月のような怯みが揺らいでいる。その怯みがとても悲しくて、その不安ごと姫を守ってあげたいと思った。腕を彼女の背中にまわして強く抱いた。
「いつも全然、汗をかかないわけじゃないんだろ?」
「ええ、それはね」と姫は言った。「この前いっしょにいったテニスでは、汗をかいたわ」
「じゃあ、大丈夫、問題ないよ」と宗茂は努めて明るく言った。「いろんなことを気にしすぎるから調子が悪くなるんじゃないかな。もっと気を楽にして心を解きはなったほうがいいと思うよ」
「もっと強く抱きしめて、離さないで」
 宗茂は胸の上の姫の薄い体を、壊れないように加減して抱きしめ、「好きだ」とその額に口づけをした。
 ホテルの料金は、部屋と下の事務所をつなぐプラステックの細い筒の中に、お金を入れたロケットを入れて蓋をし、空気を利用して移動させ、非対面で支払うシステムになっていた。部屋の鍵が開く前に、ロケットが下から戻ってきた。領収書と一割引きの割引券が入っていた。
 帰りは、都市高速道路を走った。両側に並ぶ電灯がオレンジの珠の列をなして続き、映画のシーンのように美しかった。ちょうどそのとき、車のデッキからユーミンの「中央フリーウエイ」が流れた。
 この道は まるで滑走路 夜空に続く
 二人の町の都市高速道路もそのとおりだった。姫が同じ歌を軽く口ずさんだ。楽しそうだった。
「きみは、本当にユーミンが好きなんだね」
 まあね、と姫は言った。「中三のときから聴いているもの。ユーミンが荒井由実のときからね。最初に好きになったのは『卒業写真』かな」
 宗茂は、ユーミンはほとんど聴いていなかった。彼の大学には貧乏学生が多かった。そんな先輩の影響で中島みゆきを聴いていた。先輩の下宿で安ウィスキーを飲みながら、カセットデッキでよく聞いた。『店の名はライフ』や『祭りばやし』や『ホームにて』は、身近であった。去年いっしょに祭囃子を観た友の死や、ふるさと行きの乗車券を燃やせない孤独な青年のことであっても、彼らに共感した、いや、共感したかった。みゆき派だったわけだ。しかし、そのことは姫には言わなかった。中島みゆきは暗いって退()かれそうで、面倒くさかったのだ。
「ユーミンの曲のどういうところが好きなの?」と訊いてみた。
 そうね、と彼女は一息おいた。「なんといってもオシャレなところかしら」
 うん、それは分かるな、と彼は相槌を打った。
 でしょう、と姫は声を弾ませた。「失恋とかを歌っていても、直に悲しみを感じさせずに、軽やかでオシャレでカッコいいのよね、さいしょはそこに惹かれたのかな」そして、ふっと笑って、「恨み言を歌ってても、カラっとしているところなんかも好き」と言った。
 それって、何て曲? と彼は訊ねた。
「『冷たい雨』って曲、知ってる?」
 うん、聴いたことはあるような気がする、と彼は答えた。「もしかしてこんな歌?〈冷たい雨にうたれて 街をさまよったの〉、これ?」
 そう、それそれ、と彼女は言った。
「いい歌だよね、けど、あれってユーミンの歌だった?」
「そうよ。荒井由実の作詞・作曲よ。ハイ・ファイ・セットとかバンバンとかいろんな人に提供され、カバーされているけど」
「そうなんだ。ぼくの記憶に残っているのは、男性グループが歌っているやつだから、バンバンだったのかな」
 たぶんそうよ、と姫は言った。「その『冷たい雨』の歌詞を覚えているでしょ。喧嘩して部屋を飛び出した女の子が、冷たい雨に濡れながら街をさまよって、部屋にもどったら玄関に〈あなたの靴と誰かの赤い靴〉があるの」
「この〈赤い靴〉って歌詞、一瞬をあざやかな色彩で切りとっていて」と宗茂は言った。「とても印象的だよね」
「その靴を見て、ショックを受けて、あなたはもう別の人とここで暮らすのと思ってしまう。誰だってそう思うわよね」と姫は言った。「そして、〈こんな気持のままじゃ どこへも行けやしない〉、〈幸せにくらしてなどと願えるはずもない〉、〈彼女の名前 教えないでね うらむ相手はあなただけでいい〉って、恨み言を歌うのよ」
 宗茂はこのとき、中島みゆきのことを思った。まさにそのままの『うらみ・ます』という歌があるのを思い出した。その陰々滅滅な雰囲気の曲が耳の奥に沁みだすように聞こえて、頭の中を湿らせた。
「何年前だったかしら『OLIVE』というアルバムに、セルフカバーして収録されたのね」と姫は続けた。「それを聴いたとき、恨み言の歌詞自体がカッコいいっていうのもあるけれど、恨みという暗くじめっとした感情がきれいに乾いてて、オシャレな歌になってるのに驚いたの」
 そういうところが好きになったの? と宗茂が訊いた。
「そうね、好きっていうか、憧れたのかしら」と姫は言った。「自分にないものに」
 宗茂の耳元に、「わたしも、真っ白ってわけじゃないから」という姫の言葉が甦った。
 それに、と急に立ち上がるように声に力を入れて姫は言った。「愛や裏切りや嫉妬の思いを生のままぶつけるのではなくて」姫はちょっと間を置いた。「どういったらいいのかしら、そういう気持ちを歌うにしても、思いではなくてその一瞬の風景を切りとってそのまま写真のように聴く人に見せる。そう、写真ね。あなたはカメラマンだからその感じ、分かるでしょ。カメラって光景でも人物でもその表情や感情でも、その一瞬を切りとって写すのよね?」
 確かにそういえると思う、と彼は言った。
「ユーミンの歌の芯には、カメラで写し撮った写真みたいなのがピンでとめてあって、光っているのよ。一瞬輝いた風景とか一瞬の強い感覚や気分を、ユーミン流の乾いたレンズで切りとって、それをそのままみんなに見せる。そして、全体を軽やかなパステル画のように仕上げていくのがユーミンの、特に初期の歌なのよね」
「うーん、たしかにフォークから出てきたようでいて、ぜんぜん違うよね」と彼は言った。「そうか、フォークは物語を映すビデオなんだ。ユーミンは一瞬を切りとるカメラか」
「一瞬を歌うと軽やかなのよね。それが心地いいの」と姫は言った。「そして、ちゃんとしたストーリーを作って生きなくても、一瞬一瞬を軽やかに生きていいんだって。その方が美しくて楽しい生き方なんだって」
「うん、それは新しいね、家庭や学校では刹那主義はダメだと言われてたし」と彼は言った。「ちゃんと物事の善悪や利害を考えて、切れ目のない道筋と将来の計画をきちんと立てて生きることが、正しい生き方だと教えられてきたものね」
「そう、それまで誰も言わなかったことだけど、女の子はもっと軽やかに生きていいんだと励まされ、背中を押されるような気がしたの。そういうとこがわたしたちにはすごく共感できたのよ」
 一瞬の輝きがユーミンの歌にはあるんだね、と宗茂は言った。
「そうね。そんな輝きがちりばめられた曲を聴き続けていると、その向こうにもっともっと輝いて、今よりずっと素敵な世界があって、そこに自分でも入っていけるって思えるの」と姫は言った。「ユーミンの歌はそっちの方に背中を押してくれるの」
 一瞬の輝きが叛乱の引鉄なのか、と宗茂は思ったけれど、言葉にはしなかった。輝く一瞬の反対はこの場合、常識的で平凡な日常だろう。「平凡なのもいやよね」という姫の言葉が思い出される。日常は条件にがんじがらめに縛られた世界だけれど、足場のしっかりした現実でもある。その反対の、一瞬の輝きは揺れる幻かもしれないから。
「この前、きみがくれたカセットテープに入ってた、『ホライズンを追いかけて』だっけ、あの歌も勇気みたいものをくれるよね」と彼は言った。
 L′aventure、冒険しなさいって励ましてくれるのよね、と姫は言った。「いくど嵐に巻かれ いくど足をとられ 辿り着くわきっと 私達のゴール」
 姫の声は少し陰っていた。姫の母親はこのころはまだ、二人の交際にはっきりと反対してはいなかった。でも、宗茂が炭鉱の町の出身であることを気にしてはいた。そんな母親と毎日一緒に居たのでは、姫は二人の将来に「嵐」が吹き荒れるのではないか、「足」をとられるような事態が起こるのではないかと、予感せざるを得なかったのかもしれない。
 冒険しなさい、そうすれば、「きっと」と姫はほんの一瞬、言葉を切ってから続けた。「「きっと」「私達のゴール」に辿り着けるから大丈夫だって、応援してくれるの」
 きっと走り切れるよ、と宗茂は言った。でも、言いきれない、自分でも判らない思いを伝えようとしてか、姫の太腿に手を置いた。
 ありがとう、と姫は言って、男の手の上に自分の手をかさねて強くにぎった。

 こんな不安もあった。
 都市高速道路を走り、ホテルに行った。この日も、宗茂は姫の腿の上に手を置いていた。ときどき姫はその男の手に掌をかさね、いとおしむようににぎったりさすったりした。
 部屋に入ると、姫は「手を石鹸で洗って」と言った。これまでもずっと、きれいな手で自分を愛撫して欲しかったのかもしれない。いやな顔をされるのが怖くていままでは言い出せなかったのかと思うと、そのきつい口調にも素直に従えた。了解、洗ってきます、と言って洗面所に入った。
 帰ってくると、姫は裸になって薄いふとんにくるまっていた。眼から上だけを出して、何かたくらむふうに笑っていた。
 一回目が終わって、宗茂の腕枕に頭をのせ、姫は寄りそい男の胸の横に顔を当てていた。そのまま口を胸につけたまま、姫は「わたし、あまり感じない」と今にも泣き声に代わりそうな、寸前の声で言った。「不感症なのかしら」
「最初から誰でもそんなには感じないんじゃないかな。あまり気にしすぎないほうがいいよ」と彼は軽い調子で言った。「そのうちにきっと、感じるようになるよ。気長にいこうよ」
 そうかしら、と姫の声は不安に湿っていた。「わたしの体、異常なんじゃないかしら」
「そんなことあるわけないよ」と彼は強く言った。「ぼくが経験不足で」と無理に笑って続けた。「きみをうまくリードできていないのかもしれないから」その不安は確かにあった。
 確かにあなたは不器用そうね、と姫は言った。「でも、それはわたしを大事に思ってくれるからだわ、いっぱいいっぱい気を遣ってくれて」
 気持ちを楽にして、気長にいこうよ、と宗茂は繰りかえした。
「でも、この貧相な乳房で」と姫はますますその乳房を隠しこむように、男の胸に押しつけて言った。「こんなわたしの貧相な体で、あなたこそ満足できるの」と訊ねた。妙に投げやりな乾いた声だった。おそらくその乾きは、宗茂と仲の良かった同僚の若い女性への嫉妬にあぶられたものだったろう。その同僚は胸が大きかった。いつか飲み会の席で、その豊満な乳房を「グラマラスだ」といじられて(今ならセクハラでアウトだろうが)、「そんなにいいものじゃないわ、こんなの。重いのよ、これ。精神的に重いのよ」と反論したほどの巨きさだった。
「あなたに何だか気の毒なような気がして」
「そんなこと、関係ないよ」宗茂は表面何でもないように答えたけれど、心の中では、きみの体や乳房が薄く小さいのが、豊満であるよりもっときみを愛おしいものにさせているんだよ、ともどかしそうに姫に呼びかけていた。実際、彼は彼女の薄い体や小さな乳房が嫌いではなかった。それで満足できないと思ったことはなかったし、欲情も十分にかき立てられた。彼女の卑下する貧相な体であろうと、姫と抱き合って一つになりたかったし、乳首にキスをしたかった。
 とくに乳房は小ぶりで、つんと上を向いた乳首の尖り具合が、檸檬の紡錘形の端のようで心底美しいと思った。
「きみの乳房は檸檬に似ていて美しいと思うし、ぼくは大きいのよりむしろ好きだよ」と宗茂は言った。
「レモン?」と姫は不思議そうに聞き返した。「念のために聞くけど、それって、わたしを馬鹿にしているわけじゃないわよね」
「まさか」と彼は笑った。
「そうね、あなたはそういう人じゃない」と彼女は言った。「正直いって、もっと悪賢くてもいいくらいだもの」
「高村光太郎の「レモン哀歌」っていう詩は知ってる?」宗茂は中学以来いろいろな本を読んできたけれど、檸檬といえば、高村光太郎の「レモン哀歌」がまず浮かび、今も口ずさむことができる。
「アイカ?」
「そう、哀しみの歌」
「「レモン哀歌」ってタイトルだけは、高校の国語の授業で覚えた気がするけど」と姫は言った。「内容は覚えてないわ」
「わたしの手からとつた一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ/トパアズいろの香気が立つ」と宗茂は詩の一部を暗唱した。「光太郎の渡したレモンを妻の智恵子の歯ががりりと噛むと、レモンからはぱっとトパアズ色の香気が立ったというんだ。この鮮烈なイメージ、すごいって思わない? その鮮烈さに若い少年のぼくは魅了されたんだよ」
 トパアズ色の香気って、ユーミンの歌詞にも出てきそう、と姫は言った。「そうだね。そして大学生のとき、梶井基次郎の「檸檬」に出会ったんだ」と続けた。いつになく多弁なのが、我ながら不思議だった。「梶井基次郎の「檸檬」は知ってる?」
「読んだことはないわ」と姫は言った。「梶井基次郎の作品って暗いでしょ」
「まあね、肺結核で若くして死んじゃうし」と彼は言った。「その作品の中で、主人公は本屋の丸善の店内で、本を積み上げて本の「城壁」を造りその(いただき)に、おそるおそる檸檬を置くんだ。そんないたずらをせざるを得ない肺病やみの学生の心情に、貧乏学生だったぼくは共感したんだけど、わかるかな?」
「どうかしら、わたしには無理な気がする」
 そうかもね、と宗茂は受けた。「そして、その檸檬の色彩はね、「カーンと冴えかえっていた」と書いているんだ。カーンとね、その凍えた美しい緊張感に心がしびれたんだ」
 詩ね、と自信なさそうに姫は言った。
「そうだね、そうだ、そうだ、詩だよ」と声を弾ませて言って、姫に笑いかけた。姫ははにかむように笑い返した。「そして、主人公はその檸檬をね、「黄金色に輝く恐ろしい爆弾」だと想像し、「もう十分後には」「大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう」と思うんだ。ぼくは、この想像力に快哉を叫んだよ」
 変なお話ね、と姫は言った。「とにかく平凡じゃないわね」
「とにかく、こんなにぼくは檸檬と因縁が深かいんだ。だから」宗茂は、姫の檸檬の乳房に悪印象を抱くはずがなかったのである。「だから、ぼくはこの可愛い乳房がとても好きだよ」
 ありがとう、と姫はにこりと笑った。
 宗茂はぴたりとくっつけた姫の体をやや持ち上げて、乳首にさわった。その流れで姫をひっくり返し、上から「いいかい?」と訊いた。姫はやはり緊張したまま小さくうなずいた。男は新しいコンドームを付けた。二回目も姫は乱れなかった。
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