第28話

文字数 4,657文字

 初恋、あるいは玻璃の呪縛 15

 一瞬にして、城址はこまかい霧雨にほの白く包まれた。左近将監(さこんのしょうげん)宗茂の眼にはそのように見えた。実際は風に流されて大きな灰色の雲が頭上の空にきて、日が翳ったのであった。やはり空気が冷たくなった。
 玻璃姫の愛娘とすれ違って、一歩離れた。
 彼女は、はっきりと意識して宗茂のほうを見ないようにしていた。俯く首の辺りの強張りからそれが知れた。隣の彼氏ともまだ仲直りができず、こちらにもそちらにも顔を向けられず、蝋人形の頭と顔のように固く前を見続けている。自分の存在が玻璃姫にそんな緊張を強いているかと思うと、ただただ申し訳なかった。だがそう思う一方で、自分にそうさせるのは、玻璃姫よ、君の呪縛のせいなんだと八つ当たりしてしまう。
 こちらに一べつもくれない玻璃姫と、石段の上下に離れていくことが、とにかく胸に苦しかった。眼が離せない。これこそ玻璃姫の呪縛だ、と改めて肝に銘じて知った。

 玻璃姫よ、と宗茂は姫の愛娘にむかって呼びかける。もう三十年以上が経つというのに、姫よ、きみの呪縛はいまだに解けない。ほっといてくれない。姫よ、きみの呪縛はいやはや未来永劫、永遠なのか。けれど一方で、しつこい呪縛ではなかったことも分かっている。年がら年中、毎日毎日、途切れることなく続くというわけでもなかったからね。別れて十年は、姫の呪縛は強力だった。彼女の写真や手紙を最初は毎日、見、読み続けた。涙こそ流れなかった。見て何をするわけでもなく、読んで何が解決するわけでもなかったけれど、眼にし眼を通さずにはいられなかったのだ。
 玻璃姫よ、と宗茂は首をひねって離れゆく娘に言った。石段をまるで意識せずに登りながら、玻璃姫の呪縛について思い出し確認し続けた。離れてしまったその年の末に、姫よ、きみの夢を二夜連続で見たんだ。どこか知らない山の頂上できみと口づけを交わす夢と、雨に濡れて泣いている姫の夢だった。どちらも、はっと眼を覚ますと、涙が眼尻から伝い落ちていた。ひどく落ち込んだよ。姫よ、これも無意識にかけられた姫の呪縛と言えるのじゃないか。生活も遊びも仕事も何もする気にならなくなった。自分の中から何かがぬけてしまったようだった。それでも、何とか起きて、仕事には出かけた。何とか机に座って時間をつぶした。そして、姫よ、一週間後の寒い冬の朝、真正面から吹きつけてくる北風に向かって、もうこれ以上前に進めないと弱音を吐いたとき、反発するように「これではいけない」と思ったんだ。氷のように冷たい風に向かって、「胸を張れ!」と鋭く叫んでいた。「首(こうべ)をあげよ!」と続け、「風に向かって笑え」と唱え、わっは、は、はと空笑いをした(人は、面白く楽しいから笑うのではなく、笑うことで楽しくなるのだ)。このあと毎日、今まで「胸を張れ! 首(こうべ)をあげよ! 風に向かって笑え」と唱え、笑って自分を鼓舞して出勤し続けているのだった。これも呪縛となり、今に至るまでの朝のルーティンとなっている。
 姫よ、それでも、時は偉大な消しゴムだよ。時が流れるうちに、月に一ぺん、そして年に何回かと姫よ、きみのことを想い出す回数は減っていき、呪縛は薄れ消えていくかと思われた。時は砂のようにそっとふり注いで、何もかも消し去ってしまう、とそのときは信じた。そして、別の女性との結婚を機に姫の写真や手紙を焼いてしまったこともあり、姫の呪縛はどこかに消えてしまった。確かにそう思えた。けれど、本当はどこかに姿をくらまし隠れてしまっただけだった。家族を作り、その家庭を守り仕事に追われる生活の中で、忘れていただけだったのだ。
 子どもたちが就職して家を出、それに合わせて妻も「臭いのよ」と夫を捨てて家を出ていった時から、またその呪縛は少しずつ縛り始めたのだ。初めは焼いてしまった写真の、女学生の姫の笑顔と、晴れ着を着て化粧した姫の美しい顔と、神社前での姫の顔を思い出そうとしている自分にふと気づいたことからだった。もう、付き合っていた頃の姫の顔も表情も声もすっかり忘れていた。けれど別れて十年のあいだ、毎日のように三枚の写真を見て眼に焼きつけていたためか、それらの顔は記憶の片隅にうっすらと残っていたのだ。玻璃姫の呪縛はその薄れた像に意識を集中させ、改めて現像液につけてその輪郭と、特に眼や瞳の特徴(形や目尻のしわや色やその澄み方)をくっきりと浮き出させるように強いたのだ。苦行だったが、自分で止めることはできなかった。まさしく呪われ縛られていたのだ。
 玻璃姫よ、天の姫よ、きみが昨年の秋に膵臓癌で亡くなったことは、会社の訃報回覧サイトでたまたま眼にして知った。きみのご主人は、わが広告会社の系列の親会社で社長室の次長をしていたから、会社の共有サイトで、次長の妻の「かねてより病気療養中のところ、薬石効なく、九月十二日にご逝去されましたので、謹んでお知らせいたします。」という訃報を読むことができたのだ。きみの誕生日は九月十三日だったよね。あと一日生きていれば、還暦を迎えられたのに、何か死に急ぐわけがあったの? と聞いてみたかった。
 天の姫よ、実はその訃報を眼にしたとき、何気なく読んだその死者の名前にまるでピンとこなかったのだ。そのままスルーしようとしたとき、何かうんと引っかかるものがあった。誰なのだと意識してその活字を再読すると、ああと、玻璃姫の結婚後の名前だと気づいたのだ。一瞬、この後きっと強くショックを受けるだろうと思い、心のガードをぎゅっと締めた。が、実際はきみが死んだことに何の感慨も湧かなかった。衝撃も、受けとめようと身構えたわきを、するりと抜けていった。拍子抜けだったよ、ほんと。そういえば、記憶の中の玻璃姫の像も、擦り切れてうすぼんやりとした影しか見えない写真のようになっていた。
 ところが、「亡くなったのかと」と口に出して平たくつぶやくや否や、突然、あの頃のきみに会いたいという欲望が猛烈な勢いで心の底から逆流してきたのだ。驚いたよ。この感情は何なんだと困惑もした。現在の玻璃姫に会いたい気持ちはみじんも起こらなかったのにね(もう骨と灰になってしまったのだから、会おうにも、現実問題として会えるわけはないのだけれど)。ただただあの頃の「叛乱」軍に痩身を投じたきまじめな姫に、こがれるように会いたかった。
 それにしても、元カノとはいえ三十数年も前に別れた女に、ふたたび燃えるように恋こがれるなんて、今の若い子たちから見れば、キモイおじさんの見るに堪えない醜態としてバカにされるだろう。自分もちょっと異常かなと思わないでもないけれど、きみはもう死んでいるのだし、会いたいと望んでも現実的にストーカーにおよぶこともできないわけで、迷惑をかけることもないだろうから、ほっといてもらおうと思った。
 天の姫よ、きみが死んだと知ったとき、何故だろうその呪縛はさらに凶暴な牙をむいて襲いかかってきた。呪縛は創作欲と性欲を刺激し、結婚した当時に書いていた小説の原稿用紙の余白や裏に、参考資料として書き写しておいた姫からの手紙の一部の内容を、読むように強いるようになった。何度も何度も読みこむように追いこみ、姫のイメージや存在感や感触を彼の胸に甦らせようとするのだった。それらの苦行の賜物で、この日、玻璃姫の愛娘のマスクが下半分を隠した顔を見て、すぐに玻璃姫の面影をそこに見つけることができたのだ。
 しかし、その甘やかな苦行のあいだ、強いられる命令に唯々諾々と従っていただけではなかった。実際従わざるを得なかったわけだけれども、自分としては従うとみせかけながら、その内側から呪縛の正体を突きとめてやろうと虎視眈々と探っていたのだ。暴君の正体を暴くことで、暴君の暴力から解放されるかもしれないとふと思いついて。そして、ついに呪縛の正体にたどり着いた。灯台下暗し、正体は〈未練〉だった。何あんだと、あまりに身近すぎて気づかなかったことに呆れた。しかし、やはり呪縛の強いる苦行をこなす中で、あの恋愛のすべてと玻璃姫の存在を確認していく作業の結果として、その正体に気づいたのであって、どんなに身近にあっても何もしなければ発見はできなかっただろう。
 玻璃姫よ、天の姫よ、それにしても、誰の身近にもある未練がなぜあんなにも強力な呪縛へと変容してしまったのかな。きみの呪縛は本当に桁外れだった。そこには、どういう仕組みがあったのであろうか。そのことも考え続けた。きみのかけた呪いだから、きみには分かるかな。分からないか。きっとね、何よりもあれが〈初恋〉であったことが呪縛の体格と筋力を大きくしたんだよ。少ししてそう気づいた。
 それまでに何人かの女の子と付き合ったことはあったけれど、玻璃姫との恋は〈初恋〉であったと今は思っている。高校生のとき、バレンタインチョコレートをくれたチビの女の子と一ヶ月、ままごとのような恋愛をしたことがある。キスも唇を触れ合わせただけだった。何が理由か分からないまま、彼女に声をかけなくなり、そのまま自然消滅した。大学の三年のときには、同じサークルの一年後輩の女の子と一年近く付かず離れずズルズルと付き合った。二人はいつも心のこもった口づけをした。下宿で彼女は時たま食事を作ってくれた。その流れで一度だけ性交にまで至ったことはあるけれど、それを機に二人の仲と思いがより深くなることはなかった。お互いきまじめに、自分でも分からない何かを守っていて、二人の間に絶対防衛線を引いていた。たまに互いの心がその防衛線を勢いで越えそうになると、いつも何かに気づいたように後ずさってしまうのだ。互いにそうだった。越えようとして後ずさる、その繰り返しに疲れて、二人は離れていった。
 天の姫よ、それらの恋に比べたら、きみとの恋愛はお互いの思いのその真剣さにおいて高く、その葛藤と疲労度において重く、その後を引く粘着性において強かった。きみもそう思わないかい? そういう意味で、やはりあれは〈初恋〉であったと言っていいと思う。そして、初恋であったからこそ、未練が強く残ったんだよ、きっと。 
 それと、唐突で訳の分からない終わり方をしたことも、未練をいつまでも残した理由の一つだったのだろう。天の姫よ、きみが唐突に連絡を絶ったことに対して、こちらも何の手当てもせずに、失恋から眼をそむけて恋を終わらせてしまったのだから。そういう逃げるような終わらせ方こそが、長いあいだのうちに未練を呪縛に変容させ、強くしたのだろうと気づいた。思いもよらない別れ方の中で、離れてしまう悲嘆も涙も真に受け止めなかったのだ。涙を出し切らなかった。姫がくれた両手からあふれるほどの愛も、どこにも捨てず葬りもしなかった。納得できようとできまいと、喧嘩別れになったとしても、顔を突き合わせて恋の始末についてがむしゃらに話すべきだったのだ。そうしなかったために、現実の痛みをスルーしてしまった。木野さんのように、傷つくべき時に、十分に傷つくことから逃げたのだ。愛別離苦の現実に向き合わなかったために、空気の抜けたようなウロを心の真ん中に作ることになってしまった。その虚ろな心の穴ぼこに未練が住みつき、呪縛へと育っていったのだろう。何かをきっかけに大きな牙を剥いて噛みついたり、ある期間どこかに隠れていて、またいろいろと姿を変えては現れ、還暦過ぎまで玻璃姫を求めつづけさせているのだ。
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