第7話

文字数 5,211文字

 初恋、あるいは玻璃の呪縛 4

 三人はようやく石段の最初の石に足をかけるところまで進んだ。
 尼子(あまこ)筑前守さんがまた、この石垣の向こうは水堀でしたよね、と尋ねた。彼はこの三豆城は初めてだったので、興味津々で、何でも見てやろうという様子であった。右手の桝形虎口(ますがたこぐち)の低い石垣の上に眼をむけ、その向こうを見通すようにして、地元の夜討(ようち)之大将さんがその興味に応えた。
「この向こうには、関ヶ原の戦い後に造成された、十メートルくらいの高石垣が続いていて、今も美しく見事ですよ」と話した。
「その頃の石垣なら、やっぱり野面積みですか?」と尼子筑前守さん。
「そうです。緻密で美しい文様です」
「どこの石工集団が積んだのですか?」
「アヅチ城の石垣も積んだことで有名な穴太衆です」
「こんな九州にまで来ていたのですか?」
「そうみたいですよ」と夜討之大将さんが言った。「その石垣の下には、幅五メートルはある堀に水がはられていて、一年中、白鷺やゴイサギが水面のちょっと上の石垣の石にとまって、小魚を待ち伏せしている姿を見ることができますよ」
「鷺は忍者みたいに、石になり切ったように動きを止め、じっと水面を凝視していますよね」と左近将監(さこんのしょうげん)宗茂が割って入った。「このごろは黒い川鵜が一羽来ているのを見かけますね」
 ほお、川鵜とは、めずらしいでござるな、と尼子筑前守さんが言った。
 姫の愛娘が隣の男から眼をはずし、人の流れはどんな感じかしらと様子見でもするふうに、階段の下方を見やった。はからずもその目線は宗茂を見下ろす形になった。偶然また眼と眼が合った。
 宗茂の視線が真っ直ぐすぎたのか、娘はその尖った切っ先にとっさに危険と恐怖を感じた様子だった。何の悪意もたくらみもありませんよ、このおじさんには、ととっさの言い訳でもするふうにあわてた。にこっと笑おうかとあせって思うが、何かそれも逆効果のような気がして止めた。瞬間、いまにも泣き出しそうな気配が、娘の下がった両の眉毛と眼尻の辺りに現れた。しかしすぐに視線を外して、彼女は訴えるように隣の彼氏の眼を見て何か言った。男がそれに笑って応えたことで、湿った気配は消えた。もしそのまま泣いていたら、あの美術館の駐車場で涙を急にあふれさせた玻璃姫の顔を、そこに見ることができたかもしれないなと、宗茂は場違いであったが、何か懐かしむような気持になって想像した。

 あの当時、土曜日はまだ一日休日ではなく、午後が休みの「半ドン」と言っていた。
 玻璃姫に誘われて隣市の美術館に行った。三年前に開館したばかりで、小ぶりの建物全体を覆う純白のタイルは、「海を見下ろす美術館」らしくきらめくさざ波を見る者にイメージさせた。何より清楚であった。すぐ隣には江戸時代の藩の庭園があった。周りの街も旧城下町で古い土壁や白壁や寺などがのこっていて、古色の落ちついた雰囲気が訪れる人の心を休ませてくれる。二人も絵を鑑賞するというより、美術館をふくめたそうした街の雰囲気にひたろうと、やって来たのだった。
 入館券を買って美術館に入るとすぐ、二階まで吹き抜けの、明るくゆったりとした空間があった。いい美術館だね、と宗茂は横を歩く姫の耳元でささやくように言った。ホールのようなメインギャラリーだった。姫はにこりと笑みを返すだけで、何も言わなかった。ほかに小ギャラリーがいくつかあり、そこで常設展示を見た。
 二人は高山と巨大な瀑布が対になった屏風に眼を奪われた。
「この絵、最高」と宗茂は言った。「すごい迫力だね」地元ゆかりの画家の日本画であった。活き活きとその滝の飛沫が浮き上がり、見る者の上に降りかかってくるようだった。玻璃姫は「ほんとに滝が迫ってくるようね」と言って、彼の腕をとって寄りそった。
 庭園を見て歩き、人気のない池のほとりで口づけをした。白壁の道を疲れるまで歩いて廻った。手をつなぎ、互いの体を寄せあって、ほとんど無言でただ歩きつづけた。宗茂は仕事用ではない、趣味用の一眼レフのカメラを持ってきていたけれど、写真を撮る()はなかった。国宝の仏殿や戦国大名の最後の当主がここで自害しその墓がある、禅宗の古刹に立ち寄った。その寺の横を流れる清流の上をおおっている紅葉は、まだ散り切っていなかった。「きれいだね」と宗茂が姫のほうに顔をむけて言うと、姫は答えの代わりに、のびをして唇を合わせてきた。人に見られそうだったので、短い口づけだった。そして、また歩いた。
 駐車場まで戻った。車におさまると、姫の持ってきた水筒のお茶をのんだ。それからシートを倒して、二人は手を握り合って横たわり、疲れた体を休めた。姫は幼子のように安心して、瞼を下ろしていた。姫が眼をあけるのを待って、宗茂は「これ、見てくれる?」と言った。何? と、姫は本を受けとって訊いた。
 その本は、有名な写真家の写真集だった。被写体は、かつて近代日本の興隆と戦後の復興を地の底から支えながら、エネルギー革命の大津波が来ると一瞬にして押し流され、捨てられ、廃墟と化した、閉山した炭鉱の子どもたちだった。
「それは、ぼくのバイブルなんだ」と宗茂は言った。高校のころから彼は小説を書いていた。「ぼくの小説のその発想と思想の源を、炭鉱(ヤマ)に置こうと思っているんだ。存在の立脚点、足を踏みしめて立つ地面をそこに置こうと思っている」
「言っていることがむずかしすぎて、ちっとも判んないわ」と姫は言った。困惑とかすかな怖れに顔をしかめていた。彼はすぐにこの場では理解できないとしても、とにかく話しておいたほうがいいと思った。
 ごめん、ごめん、もう少しがまんして聞いてくれる、と宗茂は言った。「ぼくはヤマの子ども、ヤマの子どもであることから眼を逸らしてはいけないと思うんだ。ぼくの立つヤマの黒い地面を離れては、本物の小説は書けず、ニセモノの生き方しかできないと思うんだ。ニーチェもいっているようにね。〈おまえの立つところを深く掘れ。そこに必ず泉あらん〉だよ。ぼくの立つところはヤマの黒い地面で、そこを深く掘りつづければ、想像力の泉を見つけることができると思うんだ」
 本当にそんなものなの、と納得がいかない様子で言うと、姫は写真集をひらいた。
「とにかく、大好きなきみには、ぼくとは何者なのか、何者として生きようと決意しているのかを、知っておいてほしかったんだ。だから、その写真集を見てもらいたかったんだ」
 いちおう分かったわ、と姫は言って、あるページに眼を落とした。姫の体と心のすべてが固まるのが分かった。突然その眼に涙が溢れた。姫が眼にした写真は灰色のボタ山の斜面で石炭を拾う薄汚い少年を写したものだった。
 その子は友達に似ているけど、と宗茂はおろおろして口走った。自分でも何を言っているのか判らなかった。「でも、ぼくの父が勤めていた炭鉱は大きい方で、炭鉱の生活もこんなにはひどくはなかったよ」
 姫は黙りこんで涙をふいた。しばらくそのまま黙って前を見ていた。宗茂も言葉が出なかった。すると、彼女は無言のまま車を発車させた。海峡のあの公園にもどるまで、言葉を交わせる雰囲気ではなかった。第二展望台に車を停めた。姫はまた涙ぐみ、口をつぐんで海峡をじっと見ている。
「何を考えているの?」と宗茂はようやく訊くことができた。
 姫はふっと彼を見て、見つめて「結婚のこと」と言った。
 宗茂は姫の「結婚」という言葉に虚を突かれた。姫との結婚については正直まだ深く考えていなかった。付き合って一ヶ月だ、まだ結婚を切り出すには早すぎる気がしていた。当分は恋人として楽しめばいいと、のんきに考えていたのだ。
 早すぎない? と宗茂は訊いた。
 わたし、もう二十五よ、と姫は言った。「わたし、ずっと二十五歳までには結婚するものと思ってたの」
「適齢期ということ?」
「女には大切なことよ」
 二人は苦笑を交わして黙った。
 母が気にしているの、と姫が言いにくそうに言った。続けて、炭鉱の町のことを訊いた。
 宗茂は否定した。
「それじゃあ、何とかなると思うわ」と姫は言った。「怒った?」
「怒っちゃいないけど」と宗茂はあいまいに答えた。そのとき初めて姫の母親の悪意を意識した。
 けど? と姫が聞き返した。
 けど、の後にどういう言葉を続けるつもりだったのか、自分でも分からなかった。「自分のことでこんな話に出くわすと、やっぱり面食らっちゃうね」
「そんな言い方はしないで」姫はきつい声で言って眼を伏せた。
 宗茂も姫の声の切っ先を喉元にあてられて、言葉につまって黙った。姫の将来のことを思っての母心だとは理解できた。それでも、気分のいいものではなかった。静かな耳の奥にそのとき、おまえはなぜ怒らないのだ、という声を聞いた。女の声のような気がした。何も答えられなかった。ただ後ろめたかった。
 どのくらいそうやって黙りこんでいたか、玻璃姫が宗茂のほうに顔をむけて、「好きよ」と言って唇を求めてきた。傍から見て心配なほど、男の体の上で伸びをして唇を合わせようとするその身のこなしには、懸命さがはりついていた。彼も姫の焦りのようなものに巻きこまれ、せわしなく唇を受け止めた。二人はなぜか懸命に口づけを続けた。喰らいつくように。息が切れても離れなかった。男は外した唇を姫ののどにすべらせ吸った。快楽にのけぞった顎が可憐であった。あとで、姫から強く吸って跡を付けないでね、と注意された。
 展望台の駐車場の後背は雑木林にかこまれていた。姫の上に体を入れ替えたとき、宗茂はふと車のリアウィンドーごしに、黒々とした雑木林の木陰に、何か動くものを見つけた。というより、最初は黒い木々の壁の一部がむくむくと動いたような気がしただけだった。唇を吸いながら目をこらすと、二つの眼が浮かんで見えた。かすかなその眼の光で、窃視のおじさんが木々の中に潜んでいることが分かったのだ。けれど、頭から爪先まで黒装束に身を固めていたので、体はほとんど闇に溶けこんでいた。
 どうしたの? と姫が訊いた。男の意識が自分から離れた気配を敏感に感じとったようだった。
「あそこに、プロフェッショナルの出歯亀がいるんだよ」
 えっ、どこ? 姫はこわごわ首をねじり、顔をシートの陰に隠して、宗茂の眼線の先を追った。「何も見えないわ」
「闇に完璧に身を隠しているからね。プロだよ」と宗茂は言った。欲望はどこにでも存在する。「でも、寒いのによくやるね」
 二人はそれぞれのシートにもどった。水をかけられたように静かに座って、生真面目に正面を向いて、しばらく海峡の上の冬の空を見ていた。
「わたし、ボタ山が見たい」唐突に姫が言った。えっ、と彼は驚いて訊きかえした。「急に見たくなったの」
 黙って姫の手をとった。ついさっき、宗茂の、自分はボタ山の町、ヤマの子どもであるとの宣言に、涙をあふれさせた姫が今、一生懸命にその男に近づこうとしている、男のすべてを受け入れることはまだできないだろうけれど、けなげに男のことを知ろうとしている、そう感じた。
「あなたの灰色のところ、わたしに合うみたい」と姫は言った。
 灰色? と訊き返した。
「そう。わたしも、真っ白ってわけじゃないから」と姫は言って口の端だけで笑った。「ねえ、わたしたち、そこそこお似合いだと思わない?」
 二人は寒そうな笑みを交し合い、また口づけをした。とにかく笑い合えたことに、涙が出そうになった。ぐっとこらえた。
 ファミリーレストランで食事をし店を出ると、日が暮れていた。二人ともまだ一緒にいたかった。結婚や家のことが不安で、だからこそ離れたくなかった。家に帰って一人で考えたくなかった。帰りたくなかった。少しドライブして、埋め立ての埠頭に行った。常夜灯はあるけれど、周りの闇は濃かった。その向こう遠くに、工場の照明がまたたき、きれいだった。ほかに車は停まっていなかった。貸し切りだった。二人は車の中で、シートを倒して、抱き合っていた。姫は助手席の宗茂の上に体をかぶせ、胸に顔をうずめていた。女人(おんなびと)の髪の匂いは石鹸のさわやかな香りがした。男はその匂いをかぎながら、眠る赤ん坊のような安らかな呼吸を胸に受けとめていた。男は女人の体に腕をまわして抱きしめていた。姫は時おり、顔を上げて、男の唇に唇を合わせた。
 わたしの男、と女人は言って、男の胸にしがみついた。腕を男の体の下にまわして、縛りつけるように強く抱きしめた。
 男は反発するようにいきなり、抱き合ったまま上体を起こした。びっくりする女人をやさしく隣のシートに下ろし、その上に自分の体を重ねていった。額に、眼に、唇に口づけした。その間に、右手で姫のセーターを引きあげキャミソールをめくった。ブラジャーの上からやや固い乳房を愛撫した。現れた乳首をふくみ噛んだ。あっ、と姫は声をあげた。わたしの男、とまた吐息のような言葉をもらした。
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