第17話

文字数 3,584文字

 初恋、あるいは玻璃の呪縛 9

 玻璃姫の愛娘は怒った顔を苦しそうにゆがめている。左近将監(さこんのしょうげん)宗茂はその顔に向かって、元気づけようと「さあ聞いて」と無言の声をかけた。一月六日の愛別離苦のあの宴の後も、姫は、君のお母さんはアルバイトを辞めなかったんだよ。毎日、顔を合わせていなくてはならない苦行にけなげにも堪えてた。二人はほとんど口をきかなかった。まるでそれは互いが互いを苦しめあう拷問だった。それでも、君のお母さんは不機嫌に怒ってはいたけどね、逃げなかったんだよ、頑張って出勤し続けたんだ。

 宗茂もなるべく顔を合わさないようにしていた。月の半ばから社屋の二階にあるホールで、恒例の『グラフィックデザイン展』が開催されていた。毎年各県、政令指定都市が持ち回りで運営を担当する全国イベントだった。その年は、彼の勤める広告会社が会場としてホールを市に提供していたのだ。彼はその記録写真の撮影を任されていたので、会場風景を写真に記録するという仕事にかこつけて、姫のいる職場から姿をくらませていることが多かった。
 その日、もうそろそろ職場に戻ろうと会場を出たところで、姫につかまった。
「今日、会えないかしら」と、姫は恐い顔をして言った。「話がしたいの」
 市場の北側、道をはさんである小さな古いビルの二階に、隠れ家のような喫茶店があった。二人はそこで落ち合った。
 ウェイトレスの娘がコーヒーを持ってきて、「ごゆっくり」と言って去るまで、二人は眼も合わさず何もしゃべらなかった。娘はすごすごと逃げるように歩き去った。
 宗茂の方が先にカップを取りあげ、コーヒーを飲んだ。その動きに誘われるように、姫が口をひらいた。
「わたし、アルバイトを続けても、毎日あなたと顔を合わせても、落ち着いていられると思ってた」と姫は言った。「もっと大人だと思っていたの」
 宗茂は口を挟まなかった。
「でも、あなたと同じ部屋にいると心臓がしめつけられるようになるの。あなたに抱きしめてもらえないことが苦しくて、夜、泣いて寝れないの。この苦しさ、あなたに分かる?」
 うん、まあ、と宗茂はあいまいに答えた。
「でも、わたし秩序を破れない。叛乱はできない。変われないし、変わりたくない気持ちは、今でも持っている」と姫は言った。「去年のことは、お嬢さんの軽率なアバンチュールだったのよ」
 わかったよ、もういいよ、と彼は言った。
「でも、嫉妬が止められないの。どんどん燃え上がっていくの。あの女に嫉妬して、息苦しくなって、あなたから離れて隠れてた。屋上の展望フロアに逃げて、煙草を吸ってたのよ。知ってた?」
 いや、ぼくの方も二階のホールに潜んでいたからね、と宗茂は言った。「二人とも上と下に逃げてたわけだ」
「でも、天国なんてなくて、上も下も地獄だったのね」ふふ、と姫は口にふくむように笑った。「好きなの。どうしようもないの」
 宗茂はよりを戻しても、同じことの繰り返しになりそうな気がして、ここで終わらせたほうが互いにとっていいのかもしれない、と思った。叛乱の未来は真っ暗でまるで何も見えなかった。でも結局、姫を振り切ることはできなかった。とりあえず一緒にいたかった。
「そうだね。確かにどうしようもない」と彼は言った。
 その日から、地に足をつけた、飛ばない付き合いが始まった。さいてい週に一回は、仕事を終えてから、喫茶店で話しをするように決めた。
 玻璃姫は「行政書士」の資格を取るために、勉強を始めた。
「自分の足元が、精神的にも経済的にもしっかりしていないと、叛乱は起こせないと考えたの」と姫は言った。「家族や家から独立するくらいの気持ちで頑張らないと、あなたと結婚できないと思ったの。家族に頼っていては、叛乱も何もできないと分かったの」
 わたしの考え、間違ってないわよね、と姫は祈るような眼をして宗茂に訊いた。
 ああ、正しいと思うよ、と彼は言った。「とってもきついだろうけど」
 そうね、分かってるわ、と彼女は言った。「だから『禁欲令』を発します」姫は笑う。「試験に受かるまで勉強中は、セックスレスで」
「合格するまでは、お預けってこと?」宗茂も笑わざるを得なかった。
「やさしいキスは許可します」
 二月からアルバイトをやめる三月までのあいだに、姫はたくさんの手紙をくれたが、ある手紙にこんな文章がある。(彼女からの手紙はすべて、別の女性と結婚するときに焼却してしまったけれど、いくつかはそのころ書いていた小説の参考メモとして、原稿用紙に書き写していて、それを元に復元したものだ。)
 —— 毎日、以前の様にあなたに抱きしめられることばかり考えています。私だって今すぐにでもって思う気持ちはきっとあなたと同じ位だと。でも今は待って。まだ待って下さい。
 —— もう少し勉強が順調に軌道に乗ってからでないと、私はダメになると思って下さい。もう少し自信がついてからにして下さい。女とはそうしたものです。すぐあなたに夢中になり過ぎて《・・・》(そっちの方が望ましいだろうケド、なり過ぎる《・・・》のは今はよくないの)勉強が手につかなくなると大変でしょう。
 —— 男の人の様には軽く両立できないのよ。でも2年も3年も待たせはしないから。
 —— そうやって「ハングリー精神でいかなきゃ資格はとれない」って、誰かさんも云っとった。私は一番好きなあなたのぬくもりを、しばらく我まんして、がんばります。
 —— お願い、私の我ままをきいて、そして応援してちょうだい。ね。
 —— 今までぼんやりと生きてきた人が 愛を知って、愛の為に強くなるんだって。
 女人(おんなびと)には性欲と勉強を両立できないというのだ。それは、男女に関係はないと思うけれど、性欲に打ち勝ってこそ勉強に打ち込めるというわけだ。昭和もあと十年くらいで終ろうとするころ、二人が高校・大学受験の勉強を頑張っていたころ、先生や大人たちからよく聞かされた精神論によるアドバイスだ。「ハングリー精神」云々も同じようによく言われた。ちょっと無理しすぎかとも思ったけれど、姫はとにかく試験勉強を頑張った。こんな手紙をくれた。
 —— 今夜は勉強しました。
 債券法の保証と連帯保証の項。
 —— 今日あなたをみていて感じました。(午前10時ごろデス)
 もう一人ではいられなくなったなァ…って。
 どうしてこう好きなのか…
 例えば、こないだからウルサクいっているように、あなたの食べ方も、つまようじをくわえるクセも好きじゃないのに、でも一緒にいたいなんて。直してほしいとこがあるのに、あなたじゃなきゃいやだなんて。不思議、フシギ、ふしぎ。
 (それこそ宗茂自身が不思議に思った。なぜこんなに弱くて貧相で冴えない男と、姫は一緒にいたいと欲するのか。女人(おんなびと)、あるいは恋愛というものは本当に奥が深い。)
 —— ……
 そんなこと云っちゃいけないって云ったネ。あなたの存在をなくしてしまうっていった時、もう云わないけど、あなたの“存在” を消すためには、今となっては私も消えてしまわなければならないのよ。
 「もう一人ではいられなくなった」という言葉は嘘ではなかったと思う。姫の、そのときの言葉は確かに本気で、詐術を弄する類の言葉ではなかったと思う。けれど、その熱心さは痛々しさのようなものに侵されているような気がする。次の手紙もそうだ。
 —— 今日ほど、自分が自分で良かった、と思えた日は今までになかった。
 いつもびくびくしてた。私より正しい人がたくさんいる。私よりいい人はたくさんいる。って。(外見じゃわりと堂に入ったように思われているケド)
 —— でも、今日はすっかりそんなこと忘れた。
 本当に。あなたって人は。私なんかが思ってるよりもはるかに——素敵だワ。(ヘンなほめ方)そしてなんて私はおバカさんでしょう。こんなことよりもっとちがう云い方をしたいケド…
 その日、勉強が上手く進まないことや、どうしても自分と彼の女友達と比較して焼きもちを焼いてしまいそうになる、気持ちの弱さなどに気落ちしていた姫に、少し強い言葉で励ましたことを言っているのだった。
 —— あなたの顔が見たいから、私はいつもよりゆっくりまばたきするの。ゆっくり。ね。
 —— 今日はテレ臭くてちゃんと云えなかったけど、ごめんなさい。もうあんなことは云わない。
 —— あなたの愛のために、私は自分がとても“女”だとかみしめてるの。
 なぜか云葉にしてしまうとヘンになるの。伝えたいことが大きすぎて、あせってしまうの。
 —— 私は今、とても幸福だと、あなたの手紙をだきしめて…
 ありがとうを1000回と、ごめんなさいをその半分と、あなたが好き、と10000回 送りたいの。
 —— もう私は1人では生きて行けない。1人では生きていかない。どうぞおぼえておいて。あなたと私のために。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み