第27話

文字数 3,609文字

 独りぼっちの静かさはいつまでも ——玻璃姫の叛乱 検査入院・九日目午後

 明日、確定診断が出るの。どんな結果が告知されるか、こわいワ。死刑判決が言い渡されるかもしれないモノ。そしたら、どうしよう。
 あなた助けて。
 でも、なぜ私は主人に助けを求めないのかしら。あなたにではなく、いつも近くにいてくれるやさしい主人に。いつも一緒にいるからこそ、弱みをみせたくないのかしら。確かにそういうところ、むかしから私にはあるワ。あなたも知ってるでしょ。
 でも、きっと心配をかけたくないのネ。結婚してからずっとやさしかったあの人には。あなたは現実にはいないに等しい幻の元カレだから、どんなに心配をかけるようなことを話しても、何の実害もないものネ。その代わり、いくら助けを求めても、実効性のある手助けは期待できないのは分かってるケド。ただ少しだけ気持ちが休まる。どっちにしても、あなたは遠い遠い他人で、もうすぐ消えてしまう人なんだから。云いすぎネ。ごめんなさい。
 どんな診断が出ても明日には、この太陽のような笑顔のあなたの写真は捨ててしまうつもりヨ。安心して、破りはしないわ、ビリビリは痛いでしょ。もう用無し、ぽいっとゴミ箱行き、ふ、ふ、ごめんなさい。きょうの私、毒舌さえたりって感じネ。でも、ふしぎ、私笑えてる。あなたも私のために喜んで。あなたは消えていなくなる人だとしても。
 今日で最後、今日でホントに終わり。だから、あまり話したくはないケド、あの昭和レトロの恋の結末を、あなたと一緒に思い出して、元気をもらえたら一番いいケレド、それがダメでも、とにかく少しでもアレから気をそらすことができたら、それはそれでいいと思うの。もう時間がないかもしれないから、スッキリ終わりにしましょう、ねえ、あなたも協力して。
 あなたは、四月の後半に出張した。京都だったかしら? 何を勉強しに行ったのかは忘れたケレド、何かの研修だったワネ。あなたが三豆の町を発った夜、家に帰った私は風呂をすませ自分の部屋に入り、化粧鏡の前に腰かけた。鏡の中の自分の顔を見てふとため息をついた。なんて生気のない顔なのと思ったのを覚えている。室内から音が消えた。宇宙空間のような音のない世界が私を包みこんだ。独りぼっちの静かさだった。その静寂はいつまでもいつまでも続くように思えて、空気が凍りつくようだった。その冷気が私の中から、あなたの体と心の温かみを奪いさっていくようで、寂しくてこわかった。
 耐えられなくて、私はあなたに手紙を書こうと思って、机に移った。椅子に座ってペンを手にとって、紙に向かった。でも、書けなかった。いつもは文章を書いていると、あなたが文字の向こうに実際にいて、ホントウにあなたと話しているような気になれたのに。そうやって、互いの愛を確認することができたのに。好きだという思いがより強まったのに。そんな気がしたのに。
 この夜は、私ふと思ってしまったの、この手紙を渡す人はいないのだって。いないのだから渡せないワ、って。するとその諦めのような思いに心が麻痺してしまったの。少なくとも数日はあなたの目を見ることができない。あなたの瞳に見られることもない。あなたはいない、としか思えなかった。いない人に書いても、詮無いことだと思った。それで、その夜はなかなか寝付けなかった。涙が止まらず、泣いて、泣きつかれて眠りに落ちたの。
 そして、翌朝、目覚めると、どうしたのかしら、ぐったりと疲れていた。体の疲れなのか心の疲れなのか分からなかったケレド、だるくて起きる気にもなれなかった。熱はなく、風邪のような病気ではなさそうだった。でも、体を動かすのも気持ちを高めるのも大儀だった。何もしたくなかった。
 午前中は部屋を片付けるつもりだった。お母さんに怒られて、十時ごろにベッドから出るには出たケレド、何も手につかなかった。いつもはさっさと掃除や整理整頓や模様替えの手順が浮かぶのに、何から手を付けるかが思い浮かばないの。というか、その気になれなかった。お母さんとお父さんは大学の行事に出席しなくてはならなくて、私を起こして外出した。二人がいなくなったこともあって、私はまたベッドに舞いもどったの。午前中はそのままぐずぐずしてしまった。
 何とかお昼ご飯は食べたケレド、午後もパジャマ姿のままダラダラと過ごした。計画では、午後は試験勉強をするつもりだったんだケド、またあなたはいないんだワと思ったの。誰も見てないワ、さぼる? あなたはいないんだモノ、いいチャンスだワ。今日は疲れているみたいだから、休憩も必要ヨネ、えい、さぼっちゃおう。その一方で、あなたは遠い町で難しい研修を受けているというのに、私は勉強もせずに、ごめん、という気持ちもまだあったのヨ。
 でも、五日間は長かった。ホントに長かったワ。あの頃は今みたいに誰もが携帯電話を持っていて、どこでもいつでも簡単に誰とでも話ができて、繋がれる環境ではなかったじゃない。東京までの遠距離電話の料金も高かったし。電話で声も聞けなかった。長すぎて、あなたはいないという思いがそのあいだに濃霧のように濃くなって、私を包みこんでいったの。息苦しいほどに。そして、明日、あなたが帰ってくるという夜まで、ホントウに孤独が静かすぎて、寂しくて、時々涙が出て眠りを邪魔したワ。
 でも、最後の夜、明日あなたに会えると思うと、濃霧がさっと晴れて、覗いた青い天まで昇る思いだった。ああ、会ったらあなたにキスしてもらおうと思った。いつものやさしいキスの感触が唇によみがえって、私は陶酔に溶けてしまいそうだったワ。
 と、そのときヨ。何がきっかけだったか今はまったく想いだせないケド、急に何もかもがどうでもよくなったの。憑きものがストンと落ちた。ホントにそんな感じだった。
 何で私はこんなにめんどうな叛乱なんかをしているの? って、何の脈絡もなくふと言葉が口をついて出た。昇る思いで見上げていた青天からぽとりと落ちてきて、頭から入って口から出た言葉のよう。そんな気がしたの。私には叛乱なんかできない、そんなこと最初から分かっていたワ。いえ、そもそも私、叛乱しなきゃいけないの、その必要が私にあるの? 止めたってもいいんじゃない? こんなきついこと止めたって、きっと誰も責めないワ。そうよ、それがふつうの生き方だワ。平凡なのはやっぱり気になるケド。私はいったい何をしてるのかしら?
 少しの間、何も考えずにボウとしていていた。ふと、あの人は、私をどこにも連れて行ってくれないのよ、という云葉が勝手に私の口をついて出た。こんどは誰かが私の耳にささやいた云葉をオウム返しに繰りかえすようだった。運転免許証も持っていないんだモノ、と私は怒った。天井の一点を睨みつけて、誰に訴えたのかな。取ろうともしてくれないし。私の好きなユーミンの『中央フリーウェイ』みたいに、私を助手席に乗せて、夜空につづく滑走路を二人して流星になったみたいに走って、この平凡な生活とは違う永遠の世界に連れていってくれることもできないのヨ。
 この七か月、あなたは私を見たことのない楽園(これはあなたの詩のなかにあった言葉)に、抱きあげて連れて行ってくれると信じていたのに、と私は云った。でも、いま確信したワ、あなたの腕は細く、力も弱い。
 あなたが出張から帰ってきても、私は約束の電話をしなかった。
 そのときの私は、セミの抜け殻のようだった。私の中には何もなかった。空白だった。悲しくも何ともなかった。涙も出なかった。痛みも苦しさも何も感じなかった。
 そうやって一週間くらいがたったころかしら、そのあいだに、あなたも電話をしてこなかったので、あなたもあの面倒くさくて重苦しい関係から逃げたのだと分かった。そうよネ、もう引き際だと思ったのでしょ、あなたも。どちらにとっても、別れ方はともかくここで別れてよかったのだと思えた。私は少しずつ自分をとり戻し空白は埋まっていった。きっと、あのまま無理に叛乱をつづけても、どちらも疲れ果てて、傷つけあって、傷ついて、しまいにはお互いを憎みあって破局に至っただろうと、落ちつくにしたがって思うことができた。
 でも、おまけがあるの。何があったと思う? ふふ。もう自分でも大丈夫かなと思えた日に、母に、隠していたあの赤いネグリジェを見つけられてしまったの。そのあとのゴタゴタはご想像にお任せするワ。でも、お母さんに怒られたことで、何かを思い出すように悲しみが生き返ったの。まるでゾンビのようだったワ。さんざん引きずり回してぽいと捨てちゃったあなたに申し訳ないと思った。自分が不甲斐なかった。まだあなたのことが好きだと思った。母の前で、涙があふれた。七日間、お父さんお母さんにかくれて、布団にもぐって泣きつづけた。涙と悲しみで息がつまって、死ぬかと思った。
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