第9話

文字数 11,030文字

 初恋、あるいは玻璃の呪縛 5

 やっと左近将監(さこんのしょうげん)宗茂らは、二段、石段を上ることができた。
 そこからは、左手の本丸敷地に立つ大きな楠の木の、差し交す枝々の隙ま遠くに、三豆城の復興天守閣の最上階の屋根が垣間見えた。
 ほら、あそこの大きな木のむこう、上のほうに見えますか、黒い屋根が、と宗茂が左手上方を指さし、二人の城友さんの視線を促した。
「おお、いよいよ真打登場でござるな」と尼子(あまこ)筑前守さんが言った。(ゆう)マヅメの魚のように本当にくいつきがいい。「あれが天守閣の屋根ですね」
「そうです。天守閣の屋根です。あそこに、天守閣があるんです。ひどい復興ですけどね」
「ひどい?」
「ええ、あとでゆっくり見ていただきます」と宗茂はガイドし終わると、また顔を上げて、石段の上方を見やった。どうしても見てしまう。
 姫の愛娘は隣の長髪の男と熱心に話し込んでいた。と、何があったのか、彼女の体が前に押し出されるふうに、バランスをくずした。危ない。すし詰め状態なので、勢いよく前に倒れこんでいたら、ドミノ倒しのように折り重なって転倒し、大事故になっていたかもしれなかった。とっさに隣の男が彼女の腕をつかまえて、事なきを得た。姫の後ろに幼稚園の年長さんくらいの男の子が見え隠れしている。親だろう無精ひげを生やした若い男に後ろ抱きされ、まだ暴れている。その子が娘の横を無理やり抜けて前に出ようとして、ぶつかったようだった。隣の男は娘の腰に腕をまわし体を引き寄せて安定させた。娘は隣の男に、はにかむように笑いかけている。
 あっ、どこかで見たことがあるぞ、あのはにかむような笑みは、と宗茂は記憶を探った。ああ、あれだ、姫がくれた写真の、女子大生の彼女の顔にあふれていた笑みそのものだ。

 その写真は、学生時代、玻璃姫が通っていた大学の自動車部の部室の前で撮った写真だった。遠景に大きな木が三本あり、その木陰に古い型のセダンが二台停まっている。そのあいだにポロシャツに白い綿パン姿の姫が斜にかまえて立っている。長い腕と顔は健康的に日焼けしている。たっぷりの髪の下の顔は、付き合っていた当時に比べてずいぶんふっくらとして、女というよりまだ少女の面影をたくさん残している。細めた眼とほころぶ口元はやや臆するふうに、それでも明るく笑っている。
 海岸ぞいに建つ国民宿舎の展望食堂で昼食をとった。姫は天ぷら定職(イカの天ぷらが中心)を、宗茂は刺身定食を頼んだ。海の近くだけに魚は新鮮で美味しかった。これ、あげる、大切にしてと食事が終わるころ、姫がその写真をくれたのだった。まじめな顔をしていた。宗茂は、わたしと思ってということだね、と笑った。わたしをあげるのよ、という意味もこめられているのだろう、と肝に銘じた。
 写真といえば、姫は三葉の写真をくれた。この大学時代の写真と、神社で写した初詣の写真、それと結婚式場での写真である。初詣の記念写真はすまして、きゅっと締めた口元の端で笑っている。ホテルのホールで華やかな振袖を着て立っている美しい姫の写真は、構図が変わっていて、姫の姫らしさがよく出ている。この三葉の写真は姫とは別の女性と結婚したとき、もらった手紙や魯迅の研究書二冊、ユーミンのカセットテープなどといっしょに焼いてしまった。
 国民宿舎に来るまでに、宗茂の町を通って来た。玻璃姫がボタ山を見たいと言ったからだった。町に入ると、あなたの家の前を走っていい? と姫が訊いた。ああ、いいよ、と宗茂は答えた。一週間前「お母さんがあなたの家を見たいというの」と姫は言った。親子は言い争いになり、姫は「わたしが代わりに見てくるわ、それでいいでしょ」と、母親を説き伏せたのかもしれない。
 宗茂はこのときも、家を見てどうしようというのか、と腹を立てなかった。けれどこのごろ、姫の母親の差別的な悪意に怒らない自分に、いや、怒れない自分に苛立ちを感じ始めてはいた。大学でも友だちは障害者差別に反対する運動をやっていた。下宿で飲みながら討論もした。差別に抗し憤るための勉強をしてきたつもりだった。なのに、実際の悪意を眼の前にした肝心の時に、激しく憤ることもできなかった。
 元々の性格の弱さもあっただろう。自分を信じられない者は、悪意を真に受けとめることもできないのかもしれない。が、ようやく痛感した。これまで真剣に悪意に向き合っているつもりでいたけれど本当は他人事としてしか対していなかったのではないか。想い出せば、運動する友人たちとも確かにびみょうな距離を置いていた。いま自分事としてふりかかって初めて、悪意を実感したのだ。そして、ただ立ち尽くしているのだった。
 自動洗車場をあいだにはさんで、宗茂の家が見える道を車で走った。高校生まで住んでいた平屋の二間に台所がついた炭住長屋は数年前に壊された。今の家は、退職者に特別安く払い下げられた別の土地の上に父が建てた、木造二階建ての小さな家だった。
「家はよく見れなかったけど」と運転をしながら姫は言った。「あなたのお母さんを見れてよかったわ」
 宗茂の母親はちょうどそのとき、家の前で隣のおばさんと立ち話をしていた。母は姫にとってまだ、〈見る〉対象であり、〈会う〉対象ではなかった。そういうことだ。面倒くさいなと思った。けれどやはり怒らなかった。橋を渡ると、ボタ山が見えた。緑の丘の上に、灰褐色の三角の頂上がのぞいていた。少しは草が生えかけているのだろう、薄緑にかすむところも見えた。
「もう化石だね」と宗茂は言った。「もう自然発火もしないし」
 姫は黙って運転に集中しているふうだった。もしかしたら、前に見せた写真集にあった、ボタ拾いをする薄汚い少年の写真を想いだしていたかもしれない。
 国民宿舎を出ると、二人はドライブした。すごくいい海岸があるの、と姫が行き先を決めた。県道を西に走り、三里松原を過ぎると、海岸線にそった道を走った。
「あなた、このごろどんな本を読んでるの?」と、ハンドルをにぎる姫がちらりと助手席を見て訊いた。
 少し考えて、ブレイクかな、と宗茂は答えた。
「ブレイク、ってイギリスだったかしら、詩人の?」と姫が前を見たまま言った。
 そう、ウィリアム・ブレイク、と彼は言った。「大江健三郎は知っているよね?」
「ええ、知ってるけど。だいぶ前に短篇を読みかけて、読みづらくて、文体についていけなくて途中でやめちゃったわ」と姫は言った。「それからは読まないわね」
「ぼくは大学時代からずっと大江健三郎を読んできたけど」と言った。「大江の『新しい人よ眼ざめよ』という短篇集が今年、文庫になったので買って読んだんだ。その中の連作短編の一つ一つが、ブレイクの詩句に導かれて、障害を持つ長男のイーヨーとの共生と、家族の絆について思いを深めていく、というような話なんだ」
 長くつづく岩場と寄せてはくだける波と、その向こうに広がる濃紺のガラスのような海原を右手に見ながら、車は走った。
「『新しい人……』何?」
「『新しい人よ眼ざめよ』」
「それも、むずかしそうな小説ね」と姫は言った。それでも、ぜんぜん興味がないわと突き放すような口ぶりではなかった。それで、彼も続けた。
「まあね、面白いとか楽しいとかの物語ではないけれど」と彼は言った。「何だか励まされるんだよ、読んだ後にね」
 ふうーん、わたしも読んでみようかしら? と姫は言った。「それより、ブレイクの詩って、読んだことないけど、どんな詩なの?」
「うーん、どんな詩か?——彼は、〈ヴィジョン〉と呼んだ幻視を見ることができたと言われている」と話した。「そして、理性ではなく、想像力による人間の精神の全面的開放を目指したと言われている。ブレイクにとって〈想像力の世界は無限で永遠〉なんだ」
 むずかしい話になったね、ごめん、と宗茂は姫の横顔にむけて言った。「もうやめよう」
 いえ、いいわよ、続けて、と姫は前をむいたまま言って、左手を彼に差し出した。姫は大学で魯迅の講義を熱心に聴いたと話してくれたことがあった。くれた二冊の本はそのときに読んだ魯迅の研究書だった。書き込みや鉛筆線が所々にあった。文学や小説に無関心なタイプではなかったのだ。だから、小説を書いている宗茂に興味をもったのかもしれない。将来作家になるかもしれない男と、共通の話題としてブレイクの話ができることに、このときもある種の誇らしさを感じていたのかもしれない。
「ブレイクの詩を何か、教えて」
 宗茂は姫の手を受けとめ、軽くにぎって「ありがとう」と言った。
「そうだな。『夢の国』という詩があるんだけど、そのさいごにこんな詩句があるよ。〈お父さん、おお、お父さん、ぼくたちは何をするの/この不信と恐怖の国で。/夢の国のほうがずっと良い/宵の明星の光にまさって〉(松島正一訳―以下同)」
「不信と恐怖の国って、現実のこと?」
「そうだね、夢の国と対比されているから、現実世界のことだろうね。そして、ブレイクの言葉でいうと「経験」の世界、「無垢」の世界の対比としての」と彼は言った。「この詩を読んだとき、ぼくは大学生でバイト帰りの喫茶店で読んだ新聞のこんな記事を想いだしたんだ。『園長せんせいがぼくらのウサギ食べちゃった』というタイトルで、ある幼稚園で先生たちが園児たちが大切に世話をしていたウサギを殺して、ウサギ鍋にして食べてしまったという記事」
 まあ、ひどいわね、と姫は言った。
「先生たちにもそれなりの理由はあったのかもしれないけど」と彼は言った。「とにかく可愛がっていたウサギを先生たちが食べたしまったというんだから、そのことを聞かされた子どもたちはとてもショックを受けた、当然だよね。で、泣き続ける子がいたり、それこそ〈夢の国〉に逃げこんで登園できなくなった子もいた、と記事には書いてあった。その子たちはそのとき、園長せんせいたちのいる現実の世界を〈不信と恐怖の国〉と感じたのではないかな。そして、子どもたちはこんな国で〈何をするの〉、どう生きればいいのと心にさけんだのではないか、と思ったんだ」
「そうね、かわいそうに、きっと幼稚園も〈不信と恐怖の国〉に見えたでしょうね」と姫は言った。
 こんなふうに、ブレイクの時代も現代もそれは変わっていないような気がする、と彼は言った。「〈不信と恐怖の国〉は今も虐待だとか体罰だとかいじめだとか差別だとかいろんなかたちで、子どもたちのすごく近いところにあるんだよね」
 そうね、と少しだけ声を小さくして頷く姫を、宗茂は気遣いながら続けた。「そういうふうに、ブレイクの詩を読むことで、ブレイクの詩句を介することで、ぼくらの前に現にある、いまのこの世界の出来事を深く理解することができる気がするんだ」
 そういう読み方もあるのね、と姫は言った。「ほかにもある? 惹きつけられたブレイクの詩」
「うん。『失われた少女』と『見つかった少女』という詩かな」と彼は答えた。「ブレイクには、いくつかそんな『迷える子供たち』の詩があるんだけど、〈あなたのいとし子は/荒野のなかで迷っています。/どうしてライカは眠れましょう/お母さんが泣いているならば。〉という詩句が、なぜかとても心にひっかかった」
「荒野のなかで迷っている少女……」姫がなにか思い詰めたように言った。
 そう、ライカは迷っているんだ、と彼は言った。「人は「経験」の世界を通って大人になる、少女は大人の女になる、その途中で迷っている少女なんだ、ライカは」
「大人の女になる途中で、荒野で迷っているのね、ライカは?」
「そして、ライカが心地よく眠るのを邪魔しているのは、泣いている母親なんだ」と彼は言った。「ライカはまだ母親に支配されているけど、母親に叛旗をひるがえして走りだそうとして、荒野に迷ってしまった」
「母親に叛旗をひるがえして……」姫は消え入るような声で言った。
 宗茂は、はっとした。姫はライカになぞらえて自分のことを言っているのかもしれない。母親の支配からまだ脱走できない玻璃姫。それでも、母親に懸命に叛旗をひるがえそうとしている姫。そして、荒野に迷っている姫。ブレイクの詩を鏡にして自分の生き方を正しく凝視することは間違ったことではないけれど、きついことでもある。姫にそのきつさが耐えられるだろうかと心配になり、話題を変えることにした。
「もう一つ、ぼくがこのごろお守りのように心にとめているブレイクの詩句があるんだけど」と彼は言った。姫は何も言わない。「〈私はひとつの体系を創造しなければならない。さもないと、他人の体系の奴隷になってしまう〉という詩句なんだ。ブレイクの詩は、その詩句をもってこれから生きていけば、関連の領域での生き方に限ってだけど、これでやっていけるという見通しを、うまく生きていけるという予感を与えてくれるって、そんなことが文庫の解説に書いてあった」彼は言葉を止めることができなかった。「ぼくにもその予感があった。この詩句をいつも意識して生きていけば、これでやっていける、強くもなれるかもしれないと希望を与えてもくれた、そんな気がしたんだ」
「やっぱりむずかしいわね」と姫は遮るように言って、ふっと微笑んだ。「わたしにはむずかしい」とぽつりと続けた言葉には、懸命さが貼りついていた。彼女はまた左手を差し出した。宗茂は黙って、その手を強く握った。
 途中に、長く真っ直ぐな急勾配の坂道があった。車で下っていると、加速するスピード感の中、つづく一直線の道路の先の先が見とおせて、とても爽快だった。
「ここ、すごい坂でしょ。夏にも一緒に来たいわね」姫が希望を語った。
「そうだね、一緒に来ようね」宗茂は祈るように言った。
 名前はもう忘れたけれど、ある川の河口の砂浜に車を停めた。流れこむ川は息をひそめていた。注ぎこむ海もまた澄ましこんでいた。上空で数羽のカモメが風とたわむれるように飛び、鳴いていた。音はその海鳥の鳴き声だけだった。静かで寂しかった。何だか物足りない、期待外れの、ぱっとしない浜辺に感じられた。波は恐る恐る寄せて、手を取りあった気の弱い少年らのようだった。
 いつもは、こんなじゃないのよ、と姫は言った。言葉はうなだれていたけれど、棘もあった。「前に来たときは、ごおーと、海から押しよせる大きな波と流れこむ川の水がぶつかりあって、それはすごかったのよ。サーフィンができるくらいに」
 気にしなくていいよ、いいところじゃないか、と宗茂は言った。「曇っているけど、視界いっぱいの空と海」かなたに島影がかすれて浮かんでいた。「久しぶりだなあ。こんなふうに、ゆったりと、大きな自然を前に立つのは。大学の先輩と、隠岐の島にキャンプに行ったとき以来かもしれない」
 姫は眼を細め、泣いているように微笑った。
 歩こう、と宗茂は促した。姫はついて来た。二人は波打ち際を歩いた。海からの、晩秋の風は凍てかけていた。体を密着させすぎて、足取りはぎこちなく不安定だった。
 だいじょうぶ、寒くない? と宗茂は訊いた。少し、と小さく答えた姫は男の肩にあずけていた頭をもどし、彼の眼を見た。もうその眼は元気に笑っていた。姫の笑顔がかけがえのないものに思えた。男は女人(おんなびと)の肩を抱いた。何者のそれか判らない悪意の手から大切な宝物を護ろうとふと思った。男は女を抱きしめた。海鳥の鳴き声も波の音も聞えなかった。二人はいつしか唇を重ねていた。歩いた。立ち止まり口づけをした。後から振りかえると、二人はいつも波打ち際を歩いていたような気がする。
 震え上がって、二人は車に引き返した。暖房のきいた車内でシートを倒して、横たわるお互いの体に触れあった。宗茂が姫の胸の横をさわると、彼女はスイッチの入った機械がはじけるように笑い出した。ツボにはまったのか、笑いは止まらなかった。
 こんなところをくすぐるなんて、もう、と姫は勢いよく上体を起こすと、逆襲に転じた。笑いながら「しかえしよ」と言って、男の上に覆いかぶさる。わきの下をくすぐり始めた。男が身をよじって笑うと、姫は幼稚園児のように喜び、ますます熱心にくすぐってくる。宗茂が反攻に転じようとすると、だめよ、わたしの番なんだから、と強く言って、男の手を上半身で押さえこんだ。男が面白がって抵抗すると、意地になってか、しだいと手が付けられなくなっていった。まるで何かに急き立てられているように。怒ったわけではなかった。けれど、このままくすぐられ続けるのはさすがに勘弁してほしいと思った。男はえいと女人の体を持ち上げ、そのままシートにひっくり返した。細い両腕を押さえて、もうおとなしく、いい子にしなさい、と恐い顔を作って言った。男の胸の下で、女人は少女のようにしばらく目をぱちぱちさせていた。と、急にまじめな顔になって言った。
「行きましょうか?」姫の瞳は迷って男の眼に問いかけていた。
「行く?」と、とっさに訊きかえしたけど、どこに行くのかなんてすぐに通じ合えた。
 姫の眼は、男のあなたが決めてと催促していた。見つめ合った。
「行こう」と宗茂は言った。でも、と確認してしまうのが彼らしかった。責任を一身に担うことをいやがる男だった。「きみは本当にいいの?」
「行きましょう」と姫はきっぱりと言った。ライカのようには迷わないわとでも言いたげに。
 探すとなると、感じのいいホテルはなかなか見つからなかった。海岸にそって走る道路にはあちこちに看板が出ていたけれど、錆のついた古くからのものが多かった。外観が薄汚い建物には、二人とも入る気がしなかった。車を走らせ続けるうちに、姫の眉は下がり、いまにも泣き出しそうな表情になっていった。さんざん探し回って、微妙に新しく見えなくもないホテルに車を入れた。
 部屋は古かった。部屋中に煙草の匂いがうっすらとこびりついていた。調度も壁も、テレビも冷蔵庫も薄黄色くくすんでいた。ゆっくりしようと思わせる、そんな雰囲気ではなかった。暖房が効きすぎていることもあってか、宗茂は異様にのどが渇き、ビールが飲みたくなった。
「何か飲む?」と姫に訊いた。
 いえ、いいわ、と姫は短く答えた。口数が少なくなっているのが分かった。
「ウーロン茶もあるよ」と冷蔵庫をあけて言ったけれど、姫は一言「いらない」と言った。そうなると、姫が運転していることもあり、自分だけ冷えたビールを飲むとは言えなかった。
 黙って、二人は服を脱ぎ始めた。
「暗くして」姫は言った。
 宗茂は電灯のスイッチをひねって、照明をほとんど落とした。
 姫に背をむけて、自分の服を脱いだ。暗がりにかすんで見える姫の背中は、細く頼りなかった。しかしそのやせ方はいかにも姫らしく自然で、不健康には見えなかった。姫は先に、ベッドの薄いふとんの下に身を潜ませていた。宗茂はパンツだけの体を、姫のとなりに滑りこませた。触れ合うと、キャミソールと下着をつけた姫の体が、緊張にこわばるのが分かった。
 だいじょうぶ? と男は姫のほうをむいて言った。ええ、と頷くのを聞いて、男は女人の丸い肩を左手でつつみこみ、右手を髪の下にすべりこませて、唇を合わせた。上唇をふくみ、唇をふさぎ圧しつけた。舌で舌を探した。女人(おんなびと)がゆっくりと強張りを融かしていくのが、胸に伝わってくる。女人も、息を早くして唇を吸い返す。
「すごくかわいいよ」と言って、男は姫の薄い体の上に肉体をかさねた。首筋から胸までゆっくりと唇をはわせながら、キャミソールの肩ひもをはずし下におろした。ちいさな乳房の一方を愛撫しながら片方の乳首に舌をはわせた。口にふくんで、歯をたてた。あっと女人(おんなびと)は声をあげた。また彼女はひじをまげて両腕を脇につけ、赤ん坊のように縮こまっていく。男は固くなった股間を女人の陰部にこすりつけた。
 つけてね、と姫がささやいた。男はベッドの頭に置かれた小箱からコンドームをとり、パンツをぬいで装着した。男はゆっくりと入っていった。ヴァギナはあまり濡れてなかった。どちらかというと固く感じた。痛い、と女人は小さくうめき、体をすくめた。男はペニスを中に入れたまま静止し、しばらく彼女を抱きしめていた。いいわよ、と女人が言った。男はそのかすかに微笑む彼女の眼の上に口づけをして、壊れてしまわぬかとおそるおそる、また腰を動かした。
 終わってしばらく、二人は黙って抱き合っていた。
「何か言って」と姫が言った。
「はなしたくない」
「えっ、話したくない、って、それどういうこと?」
「きみを離したくない、ってこと」
「そういうことね」と姫はホッとしたように笑って言った。「でも、離したくないじゃなくて、離さないといって」
「離さない、絶対に」

 離さないと誓ったのに、と左近将監宗茂は長髪の男にかるく抱かれて微笑む玻璃姫の愛娘に、語りかけるように心で言った。その一週間くらい後に三日間離れて会わない日があったよね。

 玻璃姫は大学時代の友だちの結婚式に出席するため、H県に土曜日から二泊の旅行に行っていた。携帯電話など普及していない昭和の終わりごろのことで、遠距離電話料金は高かったのでお互い電話をしないのが普通の時代だった。
 その日、もうすぐ退勤時間だというころ、姫から電話がかかってきた。いま旅行から帰ってきたところだという。
「今、帰ってきたの。三豆駅よ」と姫は言った。列車の遅れのアナウンスが後方から覆いかぶさり、姫の声をかき消しそうだった。「会えない?」 
 宗茂は急なことで一瞬とまどったけれど、いいよ、と言った。「駅まで行こうか」
「それじゃあ、会うのに時間がかかるわ、すぐに会いたいの」と姫は大きな声で言った。「真ん中ぐらいのところで落合いましょ」
「じゃあ、喫茶店のマリーゴールド、知ってる?」と彼は言った。
「ヤマハのビルの前ね、知ってるわ。じゃあその辺で」と姫は慌ただしく電話を切った。
 待ち合わせ場所の喫茶店は中層のビルとビルに挟まれた二車線の道路に面してあり、辺りには夕方のかげりがいっそう色濃く溜まっていた。歩道には帰宅する勤め人があふれていた。その流れにあらがって、姫は急ぎ足でやってきた。はあはあと、しばらくは荒い息遣いが止まらなかった。
 宗茂はそんな姫を、だいじょうぶと気遣った。そして、笑いにまぎらせて「三日も合わないなんて、きついね」と言った。「電話で声も聞けないし、三日間、夜は静かすぎて」
「わたしは毎日、あなたを胸に抱いて」と姫は切れ切れに言った。「夜は、あなたのやさしいキスの感触を抱きしめて寝ていたわ、ふふ」
「これからはこんなこと止めようよ」と彼は言った。
「わたしもそう」姫は恥ずかし気にうつむいて言った。「今日の帰りは遅くなるって家には言ってあるから、ゆっくり一緒にいれるわ」
 姫の息遣いがおさまってから、歩いて行きつけのおでん屋まで行った。客は少なかったが、おでんの鍋から立ち上がる湯気と熱気が隅々まで満ち満ちて、外が寒い分、店内は空疎には感じなかった。ビールで「お疲れ様」と乾杯し、おでんを食べた。宗茂はもともと口数の少ないほうだったけれど、仕事でひどく疲れていたのでいつにも増して口が重かった。
「尾道に行って、大本山の浄土寺にお参りしたの」と姫は言った。「身代観音の御守を買ってきたわ。お土産よ」
 姫は名刺ぐらいの大きさの御守と和紙製の葉書をくれた。宗茂は「ありがとう」と短く言った。姫も三日間の旅行で疲れているはずなのに、会った時からとても元気で陽気だった。男の失語などまるで気にせぬふうに、勢いよく一人で喋りつづけた。
「お寺で、おみくじをひいたのよ。そしたら、中吉だったの。中を読んだら、『縁談はいいけど、恋愛は地に足がついていないので気をつけなさい』ですって」姫は心底憤慨していた。興奮しすぎだった。「わたし、そんなことないと思った。だから、もういちど引きなおしたのよ」
 恋愛は地に足がついていないので注意すべし、か。宗茂は何か不吉な呪文をかけられたような気分になった。恋愛とは本来そういうものだろうと反発した。それでも疲れは重くなるばかりだった。
 男が話に乗ってこないのを敏感に察したのか、そうそう、と姫は話題を変えた。「友だちの結婚式のことだけど、スピーチね、あとで数えたら二百人以上の人前でしゃべってたんだよ、わたし」
「わあ、すごいな、それは」と彼は言った。「あがらなかったの?」
「それがね、ちっともあがらなかったわ」
 きみってそんなに度胸があったけ、と訊いた。 
「そんなのないわよ」と姫は慌てて打ち消した。「やっぱり少しは慣れてきたのかしら。この二、三年で五回ぐらいスピーチさせられたからね。外見じゃあ、わたし、堂に入ったように見られるのよね」
「そうだね、落ちついて見えるほうかもね」
「だから、いろんなことで損をしてます」と言って姫は笑った。「こないだもやっぱり医者の娘の結婚式でスピーチしたけど、その時は百四、五十人位だったの、でもすごく緊張した。なぜだと思う?」
 うーん、と少し考えて、降参、と宗茂は言った。姫の元気にのせられて、少しだけ疲れを忘れていくような気がした。
「とても静かでお行儀のいい人ばかりだったから」
「ぼくはまだそんな大きな結婚式に招待されたことはないけれど」と宗茂は言った。「そんなものなんだろうね」
「そうね。こんどのは二百人とはいえ、港町のイナカ者共って感じだったんで、全然あがらなかったんだわ」
 イナカ者共ってちょっと言いすぎだね、と宗茂はたしなめた。
 ごめんなさい、口が悪すぎたわね、と姫は照れて言った。
「でも、本当にイナカの結婚式って感じで」と姫は言った。「豪華だったしすごい結婚式だったけど、私は嫌いだった」
 どういうところが? と宗茂は尋ねた。
「新郎・新婦の友だちというのは極端に少なくて、親の、それも男側の、知人ばっかり。新婦なんか壇上で小さくなって、ホント可哀そうだったわ」姫の声はささくれ立っていた。「祝辞の途中に新郎の名前を忘れちゃう人もいたのよ。誰のための結婚式なんだか分からなかったわ」
 そういうところがイナカの結婚式か、と彼は言った。
「それでも、うらやましかった」と姫はぽつんと言った。「でも、ほかにも面白い事があったから、またいつか話したげるね」
 宗茂はうまく姫の気持ちを受け止めてあげられないまま、それでも、ちぐはぐながら旅行の話の聞き役に徹して、二時間くらいおでん屋にいた。
 店を出ると、外は冷え込んでいた。宗茂はぶるっと本当に震えた。歩いて公園のそばまで来たとき、「寒くない? タクシーで送ろうか」と姫に訊ねた。すると、姫は急にすねてベンチに座りこんだ。「もっともっと一緒にいたいのに」とナイフのような声で言って、急に泣き出した。男の「寒いからタクシーで送ろうか?」という言葉の奥に、彼女を気遣う気持ちよりも強く、疲れて早く帰りたいという男自身のエゴイズムがあることに感づいたのかもしれなかった。玻璃姫は小心な分、そんな敏感なところがあった。この時のことをのちに、姫は「あなたのことを怒ったわけじゃなくて、ただ甘えたかったのよ、きっと」と説明したけれど。
「ごめん。ぼくがふがいなくて」と宗茂は言った。
「その言葉は額面どおりに受けとっておくわ」言葉とは裏腹に、姫は笑顔に戻っていた。

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