第6話

文字数 4,068文字

 わたしの男 ——玻璃姫の叛乱 検査入院・四日目

 きょうは、娘が仕事の帰りに寄ってくれた。
 見舞いに来てくれたのはうれしかった。ケレド、ホントは人と話すのもきつかったの。昨日の検査のあと膵臓が炎症を起こしちゃって、炎症が治るまでは点滴で栄養補給して絶食中だったの。きついから帰ってなんて、そんなこと娘には云えないじゃない。まあ、話さなくても、仰々しく点滴のチューブを付けてたから、娘も気づいて「大丈夫なの?」と心配してたケレド。
 娘はお父さんが以前理事長をしていた大学の系列の女子大学を卒業して、今その女子大の事務をしているの。
 娘は私に外見も性格もよく似ているの。
 あの頃の私の年を、あなた、あのとき私がいくつだったか覚えている? 二十五で付き合いはじめ、誕生日がきて二十六だった、あの子はその私の年を、もう三つ超えちゃった。
 今どきの子は女も男も晩婚が当たり前だし、結婚そのものに魅力を感じないようじゃない。特に女性は家事や育児にそうとう負担を感じているみたいネ。夫婦としていつも一緒にいることが面倒くさくて、億劫がって、結婚に消極的だって話も聞くケド、あの子にもそういうところがあるみたい。でも、やっぱり、あの子にはそろそろ結婚してほしい。
 私のいまの病状を考えても、早くウエディングドレス姿を見せて、って云いたくなる。だから、今日思い切って、訊いてみたの。
「あなた、付き合っている人はいないの」ってネ。
「なによ、急に」とあの子は引いちゃったワ。
 あの子、ホントにシャイで奥手なの。顔はキレイなのよ、私に似て、ふふ。我ながら、よく云うワネ。
 私もこんな病気だし心配…と云ったら、あの子は「そんな云い方は止めて」と言葉をハレツさせて、さえぎったワ。こんなところ私にそっくりでしょ。すぐに切れちゃう。
 ごめんなさい、もう云わないケド、と私はあやまった。「でも、あなたももういい年よ。そろそろ真剣に考えなくっちゃ。そうでしょ、あなたも内心ではそう思ってるんでしょ、ホントは。どうなの?」
 少しはネ、とあの子は小さな声で云ったワ。
 じゃあ、婚活してるの?
 ママったら、間をとばしすぎヨ、とあの子はあきれていた。「二人とも、まだ結婚なんてぜんぜん考えていないわ」
 私は驚いた。バレンタインのチョコレートを、義理チョコでも、家族の男どもにしか渡せなかったあの子が、男性と付き合っているなんて。喜ぶべきなんだろうケド、母親としては心配のほうが先に立っちゃった。
「二人って、じゃあ、付き合っている人はいるのね?」私はきついのも忘れて勢いこんで、云葉の投げ縄をあの子の頸に投げかけた。
 ええ、まあ、とあの子は顔をしかめてあいまいに云ったワ。
「どんな人なの? 教えて」って、私は縄を引いた。
 鉄オタよ、とあの子は怒ったように云ったワ。
 鉄オタ?
 それ以上は、まだ教えてあげない、ってあの子は何かたくらむように笑った。わが娘ながら、その笑う目はとてもかわいかった。私によく似てネ。
 ママ、じゃあ帰るワネ、ママもきつそうだし、と云って、あの子はあわてて椅子から腰を上げた。
 ドアの前で振りかえって、ママ、さっきみたいな話、もう絶対にしないでネ、って泣きだしそうでいて強い声で云って、帰った行った。
 あの子の付き合っている人って、どんな人なのかしら。
 鉄オタ、って何よ。ふふ、バカにして。実はネ、あの子も鉄オタなの。
 あなたも知ってるでしょ、電車なんかに乗るのが好きな乗り鉄や、その写真を撮るのが趣味の撮り鉄のこと、そういう鉄道オタクのこと。
 あの子、大学では、最初に友だちになった子が入部していたので、誘われて鉄道研究会に入ったんだって。
 引っ込み思案で、ひとり旅なんてしたことのない子だったのに。いつか話してくれたことがあったワ。旅行はずっとしたかったんだって、高校生のころから、でも勇気がなくてできなかったんだって。
 鉄道研究会に入ったら、きっと一人でも旅に行けるようになるって思ったんだって。そして、その旅の先々で詩もいっぱい書けるかもって。あの子、こっそり詩を書いているのヨ。あなたみたいに。サークルに入るの、こわかったけど、新しい世界への扉がひらけるような、希望の光のようなものも見えたんだって。
 だから、就職してからも、よく土日には鉄道旅行に行ってたけど。女子大学の研究会の仲間たちや、女性の友だちと、乗り鉄を楽しんでいるのだとばかり思っていたのに。
 男の鉄オタさんもその中に入っていたなんて。その人に会ってみたいし、やっぱりどんな人か心配だワ。
 あなたみたいにまじめでやさしい人だったらいいケド。でも、あなたみたいに弱虫でも困る。どんな境遇で育った人かも、やっぱり知りたいワ、母親としてワネ。あの子に合うかどうか母親が見極めてあげなくっちゃ、あの子はまだまだ子どもだもの。あの子が苦労しないように。
 ちょっときついケド、今夜も付き合ってネ、あなた、いいでしょ?
 あなたは炭鉱の町の子どもだった。
 はじめてあなたの生まれ育ちについて意識したのは、あなたの給料日のことだったワ。なぜこんな些細なことを私は記憶しているのかしら。
 その日、食事をして、毎日家から見ていた屏風のような山を中腹まで車で登ったワネ。おぼえている?
 道の端に車を停め、街の夜景を二人で眺めた。ビルのネオンや建物にともる灯、街灯に車のライトなどが光る珠をばらまいたように、眼下に敷きつめられていた。
 あなたは夜景を見て、きみの街の夜景ってこんなにきれいだったんだネ、みたいなことを云った、記憶にある?
 でしょう、と私は誇らしげに云って胸をはったワ。「私、この山の見えるところにしか住まないの」
 私らしい我がままネ。その山の見えるところにしか住まない、というのは確かに、目に入れても痛くない一人娘として甘やかされた、お嬢さんの私らしい我がままだったケレド、その深い意味に、あのとき私もあなたも気づかなかったワネ。
「叛乱」を口にした私がこの言葉で、すでにその山の見えるところ、つまりやさしいお父さんと気の強いお母さんが住む、古い真綿の家への「叛乱」から下りてしまっていることに、私たちは気づかなかった。
 この言葉が結婚についてかなり深く突っこんだ言葉だったことにも、うかつにも鈍感だった。あなたはこの言葉をかるく受けながして、「夜景はきれいだけど、ぼくは、この街には住みたくないな」と云ったのヨ。
 どうして、と訊く私に、この街は騒々しくて、粗暴で、猥雑だから、みたいなことをあなたは答えたワネ。私感づいていたワ、あなたは都会を憎んでいた、いや、恐がっていたのかしら。
 あなたの言葉に、私、この街から絶対に出ないから、ってきつく云いかえした気がする。あなたはその緊張をはぐらかそうとしたんでしょ、「それじゃあ、別々のところに住んで、夜だけぼくが通ってくる」と提案した。
 通い婚ね、と私は笑って受けたケド、言葉は途切れた。
 私たちはしばらく黙って、目の下に海のように広がる夜の街を見ていた。
 光る珠をばらまいたような夜の私の街を切るように、都市高速道路のオレンジ色の光の帯がみごとなカーブを描いて、街の外の闇の中へと走っていた。
 あなたの町はその光の線が消え入る夜闇の、ずっとずっと奥にあり、私にはその距離がおそろしく遠く思えた。あなたもそう感じてたんじゃない。
 私は沈黙にたえられなくなった。「この私の街と、あなたのボタ山の町の間を」とそんなふうに私は云った。私はサイドレバーに気を使いながら、あなたの胸に、腕の中に体をうずめ、窓の外の、街の灯に明るむ空を見つめて、「一気に渡れる橋があればいいのに」と続けたワネ。
 きみは、すごいことを考えるネ、ってあなたは喜んで云った。
 お母さんがあなたの家を見たいと云うの、なぜそんな言葉がそのとき私の口からこぼれたのか自分でも分からなかった、フシギ。母はあなたの家が、親戚に県会議員のいる、私立大学の理事長の、そんな自分の家と釣り合う家かどうか見極めたかったのヨ、きっと。母はそういう人なの。そうね、あなたもよく知っているワネ。
 私は自分の唐突な言葉から逃げるように、細く硬い体を精一杯くねらせて、下からあなたの唇をもとめた。互いの唇を喰らいあうように熱いキスをつづけた。
 あなたとこうやって抱き合っていると、一つになったみたい、と私は唇をはずすと、上目遣いにあなたを見てうっとりと云った。「そう思わない?」
 うん? どういうこと? と、あなたは訊きかえしたワネ。雰囲気をこわさないように適当に応えればいいのに、あなたって正直すぎる人だった、あのとき何を考えていたの。あなたが〈一つになる〉という感覚を共有してくれていないことは分かったし、さびしかったケレド、私は精一杯笑ったワ。
「抱きしめられると、二人はとてもピッタリしていると思えるの」と私は云った。「特別な人だから二つに離れたくないの」
 私は助手席のあなたの上に体をかぶせ、胸に顔をうずめていた。私はあなたの心臓の鼓動と、自分の赤ん坊のような呼吸を一つにして、安らかに聞いていた。
 あなたは私の体に腕をまわして抱きしめてくれていたワ。
 私は時どき顔を上げると、伸びをしてあなたの唇にキスをした。
 我知らず私の口からため息がもれた。それは云葉になった。「わたしの男」私は夢中で、あなたの胸にしがみついた。そして、きつくきつく抱きしめた。
 すると、あなたは抱き合ったまま急に体を起こしたワ。それから、私をやさしく隣のシートに下ろし、自分の体を重ねてきた。おどろいて軽く開けた口をふさいで、あなたは長いキスをしてくれた。私は時どき唇の動きをとめて、あなたの目をじっと見つめた。
 その間に、あなたはセーターの上から私の乳房を愛撫した。それから、セーターを腹から引きあげ、キャミソールをまくった。ブラジャーから現れた乳首を口にふくんで吸った。
 あっ、と私は声をあげた。わたしの男、とまた云った。
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