第1話

文字数 3,737文字

 初恋、あるいは玻璃(はり)の呪縛 1

 左近将監(さこんのしょうげん)宗茂はその日、城友(しろとも)尼子(あまご)筑前守さんと夜討(ようち)之大将さんの二人と、祇園社の大鳥居のわきで待ち合わせた。祇園社は三豆(みつまめ)城の北の丸址を占拠して鎮座している。周囲をめぐっている石垣は野面積(のづらづ)みで、野性的かつ緻密な紋様で静かに歴史を誇示している。その上に建っている白い城郭風建築物だけが白々しく、まがいものっぽくて目障りだ。
 正月のめでたさも中くらいか、空は晴れてはいるが、大小様々の灰色の雲が浮かんでいる。少しおそいが小春日和で、陽気もあたたかい。かつて三豆城の外堀をかねた藍川のほうに眼をやると、青い冬陽の下、堀沿いの路を悠然と歩いてくる尼子筑前守さんの小柄の姿が見えた。おーいという声がしたので、そちらに目線をうつすと、二の丸址に建つ巨大商業施設の中から、大柄の夜討之大将さんがのっしのっしとかけ寄ってきていた。落ち合い、三人はあけましておめでとうと握手を交わしあった。三人は連れ立って楼門をくぐった。
 三人を結びつける共通の趣味は城址めぐりであった。三人の名前は、彼らが遊んでいる城めぐりアプリの中での、それぞれのハンドルネームである。ちなみに、左近将監宗茂は地元の英雄の戦国武将の名を借りている。
 余談だが、この城めぐりアプリの基本機能は「城攻め」と「家臣団育成」である。「城攻め」は登録城の近くに行って『城攻め』ボタンを押すと、その城を攻略でき、石高を獲得できる。ただその城の城主になれるかは、また別のミッション(月別総攻略数)に挑戦しなければならない。「家臣団の育成」は、日本全国、その武将ゆかりの地にいる『浪人武将』(大阪城なら豊臣秀吉、安土城なら織田信長、春日山城なら上杉謙信とか)を獲得し、集め、家臣となし家臣団を作るのである。『浪人武将』は、彼らのかくれている地域で『城攻め』ボタンを押せば獲得できるが、登用するには一定の石高がいる。このアプリで遊びはじめた頃、城を攻略した時の興奮や「浪人武将」に出会った時のときめきは今も忘れられない。ほかに、三十万人いるユーザー、あるいは城友さんが敵味方にわかれて激突する「合戦」イベントなどがある。
 城が好きなのは共通なのだが、三人、好きなところは微妙にちがう。城址に車で行くまでは「いざ城攻め」と一致団結的な気持ちで城話に花を咲かせるが、その縄張りに入ると、目当てのちがいが眼の輝きを変える。その崇める対象がちがうのだ。着くやいなや、一番槍めざして各自てんでばらばらにその崇める対象に突進していく、という執着まではないので、おそらくフェチとはいえないのであろう。流行りの「萌え」あたりが適当なのかもしれないが、その崇拝の熱心さはほとんど信仰的である。
 夜討之大将さんの崇める対象は「堀」である。水堀より、どちらかというと空堀が好みで、山城の堀切の深い底を見下ろすと「萌え」るのだという。尼子筑前守さんは「土塁」派である。直接訪れて攻略した山中城や鉢形城など、関東の北条系城郭の巨大な土塁について語る、その土石流のような「萌え」方はちょっとこわい。左近将監宗茂はというと、「石垣」党である。石垣もいろいろあるが、姫路城や熊本城などの打込接(うちこみはぎ)(石を打ち欠くなどして加工し、石同士の隙間を減らす積み方)や、江戸城や大坂城などの切込接(きりこみはぎ)(石同士がぴたりとあうように接合面が加工され、隙間のない積み方)にはあまり興味がわかない。自然石を積み上げた野面積みや山城にのこる壊れた石垣に「萌え」るのであった。同じ城好きでも、党派ができるのである。
 話をもどそう。初詣のついでに、いや、というより、新年の三豆城初登城のついでに、初詣をしようと忘年会の酒席で尼子筑前守さんが言い出して、三人は正月休みの次の日曜日に集まったのだ。
「おお、いっぱい並んでござるな」尼子筑前守さんはときどき、妙な侍言葉を使ったりする。「いや、いや、これはもう並んでいるとは言えぬかな、というより、決起のために氏神様に参集した一揆の衆みたいですな」
「ほんと、何か、すごい熱気を感じますね」と夜討之大将さんが受けた。
 尼子筑前守さんの言うとおり、幅二十メートルくらいはありそうな本殿の前に、群衆が密集していた。三つ並んだ賽銭箱に向かって、一応人の列が中央にできている。実際そこに並んでいる人々は少しずつ前に進んでいる。そして、先頭では何人かがバラバラに賽銭箱にお金をなげ、二拝二拍手一拝しているのが人々の間に見え隠れしている。ただその列の外側に、わあーっと多くの男女が雲集しているのだ。
 その中に、白いマスクがちらほらと見える。インフルエンザ予防のそれなのか、新型コロナウイルス感染予防のマスクなのか、まだどちらとも判然としないような時期だった。
 昨年の十二月に中国の武漢で、新型コロナウイルス感染の報告があった。それでも、日本ではまだ差し迫った危機感をもって、人々の話題にのぼることはなかった。中国国内でのマスク不足もまだ報道されず、クルーズ船での感染が報道されるのももう少し後だ。一月末ごろから日本国内でもマスク不足が目立つようになり、コンビニ店員がマスクをする新聞記事が出たのは二月に入ってだった。この初詣の時期には新型コロナの予防のためにマスクを付けている人は、まだほとんど見られなかった。当然「三密(密閉・密集・密接)」を避けようとの意識もまだなかった。
「どうしますか、お参りは後にしますか?」と左近将監宗茂が提案した。様子をみて後でまた来ようというのだ。もしそのときにも参拝客がへっていなければ、初詣はパスするか、後ろの方から頭だけ下げればいいとの、横着なニュアンスもふくまれていた。
 祇園社が占拠している北の丸跡から本丸跡へと通じる細い道を、三人は芋の子を洗うような人の流れにもまれて、歩いて行った。稲荷社の狐の像の前まで来たとき、宗茂が「あれ、見えますか?」と左手前方の本丸石垣を指さした。隣を歩く、島根県松江から来た尼子筑前守さんの注意をひいて、見るようにうながしたのだ。その本丸石垣を注視し、宗茂の指さす辺りを見ると、斜めに線が走っているのが眼に付く。
 ああ、面白いですね、初めて見た、と尼子筑前守さんが興味を示す。「あの線は、石垣の角隅の線ですね。境目がはっきりと見てとれる」と言うと、携帯電話のカメラでその石垣の境目を撮影した。
 そうです、そうです、と宗茂は満足げに相づちをうつと、「あれは、元あった石垣に、後から入ってきた藩が新しい石垣を継ぎ足した跡なのですよ」と解説を加えた。
 本丸跡への入口には簡単な鉄製の門が造られていて、朝夕に祇園社の職員が開閉している。本丸側が多門口門跡である。構造は典型的な内枡形虎口だった。虎口とは城の出入り口のことをいい、ふつう門がある。この多門口門の場合は、本丸の北側の出入り口ということになる。内枡形虎口というのは、虎口の内側に石垣などで囲んだ方形(四角形)の空いた場所を設け、内側の門を左右にずらして設ける構造だ。そうすることで、攻め方が一の門を入っても直角に曲がらないと二の門へ行けないため、その空間で立ち往生するところを前方や横側の石垣の上や櫓から強力な攻撃ができたのだ。三豆城の多門口門の枡形虎口も、入ると左右と前面が石垣で囲われ、右直角に曲がらなければ先に進めない。
 おお、立派な桝形虎口でござるな、これは、と尼子筑前守さんが興奮気味に言った。本丸側に入る寸前で、中を覗き込むように身をのりだし、そしてまた写メル。
「多門の門は、当時はあのあたりにあったようですよ」と夜討之大将さんが右手奥の地面の石を指さしながら言った。自慢げな声だ。「あれが、門の礎石だということです」
 ほら、あれ、あの焼跡も見てくださいよ、とこんどは宗茂が割ってはいる。枡形に入って、左の、摸造櫓が上に建つ高石垣の上部の石が黒く焼け焦げているのだ。それを見上げながら、「幕末の戦争で、この三豆城を自焼して逃げたときに焼けた石垣だと言われています。時の藩主は幼君だったため臆して逃げたのだと伝えられてますが、今では立派な作戦だったとの評価もされてますね」と教えた。尼子筑前守さんはまた写メル。
 人の流れは蝸牛の移動みたいにのろかったので、三人は城の遺構をなめるように存分に見、談論を楽しみながら進むことができた。
 桝形に入ると、右に曲がって突き当りに、こんどは左折して本丸跡に上る石段がある。石段は角度が急で、高さは五メートルぐらいあった。幅は2メートルくらいで、太い鉄パイプの手すりが真ん中に取りつけられていて、石の道を左右に分けていた。そのため、自然と宗茂から見て、右が登りで、左が下りという人の流れができていた。しかし、危ないことに変わりはなく、下りの人たちはみな恐る恐る降りてくる。登るのもきつく骨が折れるので、ゆっくりとしか列は進まなかった。杖をつく老人も二、三人まじっていたので、なおさらだった。まだ初詣の余韻も続いていて芋の子を洗うような人出で、流れに一度入ると、止まることも戻ることも、抜けだすこともできない。
 宗茂は門の礎石の上に立ったとき、その石段の最上段に何げなく眼をやった。
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