第24話

文字数 3,090文字

 雨は音も無く ——玻璃姫の叛乱 検査入院・九日目 午前

 きょうは午前中から何もすることがなくて、見舞いもなくて、ヒマで退屈で、こわい。
 味付けの薄い朝食をすませたあとから、ずっと『マイ フェバリット ユーミン』をかけっ放しにしているの。それでも、こわい。
 あの年、三月末で、私はあなたと同じ職場のアルバイトを辞めた。雇用期間が切れて、何か月か間をあけないと再雇用できない会社の決まりだったのヨネ。だから四月からは、平日あなたに会えなくて、すごく寂しかったのを覚えているワ。
 そんな四月のある朝、私、夢を見たの。いやな夢。夢の中で私は泣いていたの。理由も分からないまま。
 そのころ好きだった、ユーミンの『パジャマにレインコート』の歌詞を、私はすぐに思い出したワ。その歌をよく聴いていたから、逆にそんな夢を見ただけなのかもしれないケレド、「このまま離れていく」なんて絶対にイヤ、と私は癇癪を起した。
 その歌詞に反発する一心で、私はあるプランを実行することにしたの。そんなふうに私には、何か怒ったり感情的に思いつめたりしたら、冷静な判断ができなくなって、行動を止められないようなところがあったわヨネ。あなたも気づいていたでしょ。
 大学時代の同級生の結婚式に招待されていたのネ、その少し前に。で、式が行われる遠くの小さな町に、誰にも内緒にしてあなたといっしょに行って、お泊りしようっていうアドベンチャー。あのころのあなたは、何だかとても疲れて見えたので、気晴らしと慰労も兼てと考えていたのヨ。あなたには言わなかったケド、私、えらいでしょ、ふふ。
 そのプランを思いついた日から、ぐずぐずと迷って、躊躇して、ずっと考え続けていた。なぜか前のように「えい、やあ」の勢いで、無鉄砲に冒険に飛びこんでいけなくなっていたのヨ、そのころの私。勉強や何やかやで疲れていたのもあるし。お父さんやお母さんに、いや、お母さんはどうでもいいケド、お父さんに嘘をつくことがとても悪いことに思えて、心苦しかったの。
 とにかく、泣いてる不安な夢を見て、私は反発して決行を決めた。
 その日は、四月の半ばぐらいだったワネ、三豆駅から特急に乗って、一度乗り換えて、午後二時過ぎに友だちの実家のある地方都市に着いた。駅であなたと別れた私は、そのまま結婚式会場のホテルに直行した。そして、式と夕方からの披露宴に出た。
 宿にはあなたと私の部屋を別々に予約してあった。私は九時ごろまでにはチェックインし、あなたの部屋に合流する予定だったワネ。
 披露宴会場は田舎にしては立派なホールで、二〇〇人くらい招待客がいたケレド、ぜんぜん狭く感じなかった。熱気はそれほど感じなかったケド、終わるまでずっと、耳障りなざわつきが止まなかった。ときどき下品な笑い声があちこちで上がっていた。豪華だったケド、やっぱり山深い地方の結婚式って感じだったワ。
 新郎はともかく、新婦の友だちなんて一握りしかいないの。今でも思い出すワ、あの子、とてもきれいだったケド、壇上で小さくなって可哀そうだった。新郎は地元の土地持ちの旧家の長男だったケド、招待客はその親の知人ばっかり。酔っぱらって、祝辞の途中に自分が今どこにいるのか何をしているのかを忘れちゃった人もいたワ。あきれちゃったワ。
 スピーチって、静かでお行儀のいい人ばかりを前にしていると、すごく緊張して胃が痛くなっちゃう。でも、このときは二〇〇人とはいえ、イナカ者どもって感じだったんで、ちっともあがらなかったワ。あっ、ちょっと云イスギネ。
 披露宴が終わったら、すぐに着替えて、あなたが首を長くして待つ宿にさっさと向かうつもりだったのに、新婦のあの子と少ない大学の友だちに引きとめられて、断り切れなかった。帰ろうとすると、あの子、泣きそうになるんだモノ。きっと不安だったのネ。ロビーの喫茶ルームで紅茶を飲みながら、あの子を励ましたり、ハッパをかけたり、なだめたり、もう大変で、まるでお開きなどできる雰囲気ではなかったの。
 あなたの待つ部屋に駆けこむと、あなたはもう風呂もすませてビールを飲んでいた。何だか拍子抜けだったワ。荒い息をつく私を抱きとめて、あなたは「お帰り」とやさしいキスをしてくれた。怒ってはなかったケレド、全身待ちくたびれてちょっと疲れて見えた。
 あなた、覚えている? 私が持ってきていた、あの赤いネグリジェのことを。風呂から上がって、それに着替えて、部屋にもどったとき、あなた、眼を丸くしてたワネ。色っぽかったでしょ、どう、ひさしぶりにそそられた? でも、あのネグリジェを旅行に持って行って、あなたの前で身に着けようと考えたのは、そういうつもりではなかったのヨ。そのときのこと、なぜかフシギなくらいお覚えているワ。目の覚めるような突飛なことをして、何かを変えたかったの。私あのころ、自分の周りにいやな流れのようなものを感じていたの。どう云ったらいいかしら、流されるのが怖くて、それを凍らせて止めたかったの。
 布団はもう敷かれていたので、二人は一つの布団に入った。あなたの口からもれるアルコールの匂いが、私の眉をしかめさせたのを覚えているワ。興醒めとまでは感じなかったケド。あなたは前と同じようにやさしく抱きしめてくれた。キスは情熱的だった。あなたは気を遣ってやさしく入ってきてくれた。なのに、去年の秋冬とは何かが違っていた。
 私はあえぎ、思わず「わたしの男」と前と同じ云葉を口にしたケレド、一つになった感じはなかった。昨秋の叛乱の日々、抱きしめ合っていつも感じていた、二人は一つだというあの特別な感覚は戻ってこなかった。どこへ消えてしまったの? どうしてなの? って、心もとなくて悲しかった。私は懸命にあなたと一つになろうと、あなたにしがみついた。あなたの動きに合わせて腰を動かした。終わったときも、笑おうとしていたワ。そして、もっともっとあなたと一つになろうと、あなたの胸に潜りこむようにしがみついて、私は何とか眠りに入ることができた。
 朝早くに、眼が覚めてしまった。あなたは気づかずに、ぐっすり寝入っていた。音はなかったケレド、雨が降っているような気配があった。私は静かに布団から出て、雨に誘われるように縁側に出た。カーテンをあけると、霧雨の細かい粒が外に満ちていたワ。
 朝は仄白かった。どこかでいつか見た風景だと、既視感があった。不安な既視感だった。私はいつのまにか、ほの白い細雨のなかに、浮かぶ何かを探していた。何を探しているのかは判らなかった。見つけられもしなかった。いつのまにか私は泣いていた。何で泣いているのか自分でも判らなかった。涙はまるで出ないケレド、確かに私は泣いたの。
 どのくらいそうやって私は佇んでいたのかしら。雨を見て泣いていたのかしら。近づいてくるあなたに全然気づかなった。あなたはきっと静かに恐る恐る歩いてきたのヨネ。あなたは何も言わず、後ろから私の赤いネグリジェの体をやさしく抱いた。やさしいのは確かだったケレド、それ以上にあなたはそのとき私を怖がっていたのじゃない? 今思い出してそれが判った。あなたという人は、人を、人との関係を、その強く濃密な関係を怖がる人だったのヨネ。だから私にも、強い言葉をかけることや、心のままに向き合うことができなかったのネ。あのころの私はそれをやさしさだと思っていた。私は少しだけびっくりして振りかえった。
「この雨、かすかに山の匂いがするわね」と私は云った。
 あなたはつらそうな表情をして、振り向いた私の額に強くキスをした。
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