第13話

文字数 5,340文字

 初恋、あるいは玻璃の呪縛 7

「畑山城も立派な城のようでござるな、宗茂さん」と尼子(あまご)筑前守さんがこんどは、左近将監(さこんのしょうげん)宗茂に話をふった。
 えっ? と宗茂は我に返るふうに訊き返した。「すみません、少し考え事をしていたものですから、何の話ですか?」幸せそうに笑っている玻璃姫の愛娘の顔から、眼を尼子筑前守さんのほうに向けて言った。
「こんどオフ会で川尾城の次に攻略する、畑山城のことでござるよ」
 ああ、畑山城ですね、と宗茂はあわてて確認するが、すぐには話を続けられなかった。
「あのカンパク軍一万の大軍に城を囲まれ、兵糧攻めされて、国衆は千人足らずで三十数日間の籠城戦に耐えたという、堅城ですからね」と夜討(ようち)之大将さんが救い舟を出してくれた。「国指定史跡にもなってますし」
「本丸をとり囲む空堀がすごいんですよね」と左近将監宗茂は何とか記憶の底から畑山城の少ない知識を引っぱり出して、ようやく話しに加わることができた。
「今の地表面から六メートルでしたかね、それくらい掘り下げて、堀底が幅一メートルくらい」と、〈堀〉派の夜討之大将さんとしては黙ってはいられない様子だ。「見られたらすぐに分かりますが、あの急な傾斜、ぜったいに登れませんよ」
 夜討之大将さんと尼子筑前守さんはそのあとも、オフ会で城攻めする城址の話題で盛り上がっていたが、宗茂は何気ないふうをよそおって眼を姫の娘に戻した。すると、彼女は待ち受けていたように彼の眼をにらみ返した。上質の黒ダイヤのような瞳の奥に静かに凛と光る光があった。その眼光はただ強いというのではなく、凛として清々しく張り詰めている。その光を中心に小波のようなものが広がり、体と佇まいを引きしめている。そのうえ周りの空気までを整わせている、と宗茂は恐れ入った。
 そういえば、この娘も急な石段を下っているのに、体の中心にしっかりとした芯を持っていてシャキッと立って歩いているな、と宗茂は見返した。彼女の佇まいは、不安定なぐらつきをどこにも感じさせなかった。ああ、このきりっとした立ち姿はあの写真の玻璃姫のそれとそっくりだ。

 一枚の写真が脳裏に映った。それは、姫の本質をほうふつとさせる写真であった。姫からもらった写真で、友人か親類の結婚式によばれたときに、式場のホテルのロビーで撮ったものらしかった。薄桃色の地に桜の花びらを散らした振袖を着た、若く美しい玻璃姫がすっくと立っている。凛とした気配をみなぎらせて。宗茂はプロのカメラマンだったので興味をもって見たのだけれど、この撮影者はカメラの扱いに慣れ相当な腕前を持つか、あるいは美術的なセンスに優れた者だろうと思った。余裕のいたずら心からだろうか、わざわざ縦長にして、しかもカメラを斜めに傾けているのだ。さらに上半分には豪華なシャンデリアのある天井を広く配して、右下四分の一の区画のなかに、傾いて立つ姫をちいさく納めている。奇妙な構図ではあったけれど、見ていて、不思議と違和感がなかった。斜めに傾いて立つ振袖姿の姫もしゃんと背筋を伸ばし、不安定なぐらつきをどこにも感じさせないのだ。
 姫は無理なく「形」よく立ち、やや眼線を外しながらもしっかりと眼を開けて、レンズを見ている。その姫自身のうちにも、構図の揺らぎ(乱れ)を押さえて静かに「秩序」を整えようとする何かが、隠れているように思われた。自然と、その空間をきっちり律してしまう何かを、姫は持っている。お嬢さんをお嬢さんたらしめるものがあるとすれば、その何かこそがそれではないか、とその写真を見たとき、感心するふうに思ったのを覚えている。それはまた、姫の姫たるゆえん、姫を姫として在らしめている何かなのだろう。
 しかし、この姫の姫たるゆえんの何かは、彼女の体と精神の「形」と「秩序」をシャキッと聡明に、薄く緊張感をただよわせて保ってはいたけれど、おそらくその代償として、一方の、生活のいろんな面で「乱れ」を拒否することを彼女に強いた。生活の表面の部分では「乱れ」ないことはそれほど問題にならない。むしろ清々しくきりっとしていると世間的に姫の評判を高めただろう。けれど、精神と体の深い部分で「乱れ」を拒絶しすぎたため、心を無理やり縛りつけて自分を苦しめることになったようだった。
 付き合いを重ねるうちに、宗茂には姫のその苦悩がありありと見えるようになった。もっとも姫を苦しめた「乱れ」の拒否はセックスのそれだった。それは極めて象徴的であった。回をかさねるにしたがって、姫のヴァギナは少しずつ濡れるようになってきていた。それでも、そこを見られたり、指や舌でそこを愛撫されたりすることは、恥ずかしがって激しく嫌がった。
 ある日の二回目のセックスの最中に、つけっぱなしにしていた有線から民謡が流れだしたことがあった。高音の女の声が天井を突き抜けるように発せられ、長く続いた。姫はその歌声に笑いの火ぶたをきられ、暴発するふうに笑いだした。宗茂のペニスはそんな彼女の中で、しばし途方に暮れてしまう。笑いが収まっても、ペニスは疲れと笑いの毒気に萎え、固くはもどらなかった。もう無理だと観念し、ペニスをぬこうとする彼に姫は言った。
「そのままでいいの? 大丈夫なの?」おろおろとした声だったけれど、笑みの余韻も見え隠れしていた。
 宗茂は怒りもせず非難する気もなかった。けれど、姫の中途半端な気遣いにいたずら心をさそわれて、「きみのここは、どうなの?」と言って女人(おんなびと)の下腹に手を伸ばした。しかしその指は、湿った繁みにふれる前に、「そこは、だめ!」という怒声にはたき落されてしまった。幼女の懸命な声のようだった。ごめんと言って、彼はすごすごとコンドームを外した。
 その拒絶はセックスの体位についてもそうで、後背位などは誘うことはおろか、その言葉を口にすることさえできなかった。後ろから男に自分には見えない秘所を見られ、犬の交尾のようにペニスを挿入されることが恥ずかしく、その羞恥に耐えられなかったのだろう。けれどその裏には、正常位こそが文字どおり唯一正しい体位であり、それ以外は秩序に反し「乱れ」だと感じる姫独特の感覚があるのではないか、と思われた。その「乱れ」を、姫の姫たるゆえんの何かが拒否しているのだろうと漠然と思っていた。そして、その拒絶があるかぎり姫は心の縛りを解き放てない。ましてや、男と一緒に最高潮の快感を感じ、無我夢中の忘我の境地に達することもないだろう。「不感症なのではないか」という姫の不安もおそらく消えないだろう。やり直しの恋の最中、いろいろ考えるうちにそんなふうに思うようになった、何となく。それはとても悲しいことだけれど、姫を姫として在らしめているその何かは、彼にとって最後まで正体不明の何かだったので、他人が外から溶かすか突き崩すことは至難のことに思えた。「乱れよ」と促すことは言うはやさしいが、一緒に乱れる覚悟が伴わねばならず、どうすればいいのか宗茂には見当もつかなかった。最後まで為すすべがなかった。
 さらに言えば、乱れることに寛容になれれば、玻璃の心の緊張も相当にほぐれたことだろう。この世に在ることの不安も少しは軽くなったのではないか、そして、もっと乱れることができれば、姫は叛乱をずっと易々と進められたかもしれない、と後に思った。姫の叛乱は、意識の上では家や家族、特に過干渉な母親の束縛やしがらみに対する叛乱だったのだろうけれど、その裏には実は、乱れることのできない、自分自身の玻璃の心に対する叛乱が潜んでいるのだと、同じころやっと気づいた。叛乱の「乱」は精神と体の「乱れ」に通じているのだ。そして、叛乱できる者はおそらく自分と他人を信じることができる者なのだ。人を信頼できるからこそ乱れ叛抗することができるのだろう。もしそれが真実ならば、セックスでもほかの生活の面でも乱れを拒否しがちな姫には、最初から叛乱など無理だったということになる。しかし、そう言い切ってしまうことはあまりにも哀しい。

 いま人ごみにもまれる玻璃姫の愛娘の気配にも、あの姫の姫たるゆえんの何かが感じられる。今もそれが、宗茂の眼を威圧するふうに押している。あなたには私の乱れを支えることなどできないのよ、と。

 写真といえば、クリスマスイブに二人の写真を撮った。姫の見つけてきた若者向けのレストランでクリスマスメニューを食べたとき、店員がサービスで撮ってくれたものだった。このあと年末は大変あわただしい事態になったので、取りに行けずにいるうちに、忘れてしまった。幸せの絶頂に危なげに立っていた二人がどんな顔で写っていたか、いまでもとても興味をそそられるけれど、残念ながら見ることはできず記憶にしまうこともできなかった。
 なぜかそのレストランの店内や食事中の二人の様子は、記憶がすっぽり抜け落ちている。店員が写真を撮ってくれたことと、姫がこんな話を始めたことだけかすかに覚えている。
 従妹にあなたのこと話したの、と姫が唐突に話し出した。「車の免許がないとか、爪楊枝をくわえる癖があるとか、食事のマナーを知らないとか、優しくしてもらっても重苦しくないとか」
「最後のはのけて」と宗茂は言った。「直さなくっちゃならないことだらけだな」
「従妹はわたしの変わり様をみて、あっけにとられていたわ。でもすぐに、『よっぽど好きなのねえ。お(ねえ)のいってた理想とはてんでちがうのに、でも好きだなんて』ですって」
 理想とはてんで違う男と生きていこうとすることは、姫にとって叛乱なのだろうと思いながら、宗茂は言葉を見失った。
 お母さんが言うの、怒らないでね、と姫も少し黙ったあとで続けた。「あなたはわたしの家の財産が目当てで、わたしと付き合っているんだって」
「財産目当てはよかったな」
「あの二股かけてた歯科大生は絶対、財産目当てだったわ」と姫は言った。「うふ、むしろあなたには、そのくらいの野心があったほうが、性格が強くなっていいのにね」
 それでも、私、反対されないような気がするわ、と姫は言った。二日後に、姫の家を訪問することになっていた。姫の母の査定を受けるために。姫の言葉が、何の根拠もない希望的観測、つまりは嘘であることは分かった。だからか、その希望を聞いてなおさら不安になった。
 店を出て、ホテルに行った。
 ことが終わって、宗茂の裸の胸に寄りそって休んでいた姫が、わたしのどこが好き? と訊いた。眼、と答えた。眼だけ? と姫は詰問するふうに言い、いたずらっぽく眼尻で笑った。その眼に宗茂は口づけした。姫は二歳児のように眼を大きく見開いて、黒い瞳を輝かせた。
 好きよ、もっとキスして、と姫は言った。
 二人は唇をかさね、むさぼりあった。
 男は乳首を強く吸った。だめ、と女人(おんなびと)はあえいだ。男が接吻をしながらその舌をはわせ、乳房の横を下っていくと、姫はくすぐったいと笑い出した。のけぞる姫の乳房の脇を、男はお構いなくなめていると、やめて、と姫は男の体の下に手を入れて、ぐっと伸ばした。引き離した男のわきの下を、仕返しよと言って、くすぐってくる。男も笑いをこらえられなかった。いつかの海岸での、車中のくすぐりっこを思い出した。それは性交と同じくらい激しく、二人とも息を上げていった。汗をかき、息も切れてきたので宗茂は、降参、降参、と言って、姫の体から下りた。姫も彼の言葉を耳にすると、憑物が落ちたようにピタッと動きを止め、ゆっくりと向こうをむいた。息が荒く、こちらに向けられた背中が大きく動いていた。
「背中をさすってちょうだい」と姫が言った。
 宗茂は乾いた背中をやさしくさすった。
「そう、気持ちがいい」
 しばらく背中をさすり、それから後ろから姫の体を抱いた。二人はしばらくじっとしていた。姫はなかなか男のほうに顔を向けなかった。震えてはいなかった。しかし宗茂の胸には、彼女の不安が背中を通って伝わってくるようで、長いあいだ腕をほどくことができなかった。ようやく姫は男のほうに体を向けた。どこも濡れてはいなかったけれど、泣いた後の顔をしていた。宗茂は急に恋しくなって、体を起こして唇を合わせた。
 姫は唇を外すと、人はなぜキスなんてするのかしらと訊いた。姫らしい唐突な問いかけに、瞬時には答えられなかった。一瞬の空白のあと宗茂は、愛しい人を食べてしまいたいんじゃないかな、と言った。そして、「こんなふうに」と口を大きく開けた。「がおー」と姫の口から鼻にかけて喰らいつく振りをした。姫は姫で大げさに驚く演技をする。そして、不安をふり払うように明るい声で、「本当にそうかもね、大好きな愛する人は本当においしそうだもの」と言った。笑って抱き合うと、「食べちゃうぞお」と叫んで男の唇をふさいだ。
 長い口づけをして宗茂は姫の中にまた入って行った。この日は三十分延長した。
 駅北口のバス駐車場に車を停めてくれるように、宗茂は頼んだ。静かだと思ったのに、スキーツアーの若者たちが集団でバスを待っていた。
「ここなら、ゆっくりサヨナラのキスができると思ったのに」と彼は不安そうに言った。
 姫も疲れたのか無言だったけれど、愛らしい微笑で応えた。
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