第3話

文字数 5,159文字

 初恋、あるいは玻璃の呪縛 2

 最初に見つけたのは、あの頃の彼女だった。なにを血迷ったか、左近将監(さこんのしょうげん)宗茂はとっさに「玻璃姫(はりひめ)降臨!」と叫びかけた。が、なんてことがあるはずはない、とすぐに心にひきつった声を上げるにとどめた。石段の上に見つけた女は青いウレタンマスクをつけ、鼻から下半分が隠れていた。彼はその上半分の、眼と瞳と眉と目尻のしわだけを見て、三十数年前に付き合っていた頃の姫だと認めたのだ。いや、それだけというのは正確ではない。その眼元から拡がって、体全体をおおっている、これこそ玻璃姫だという形と印象も大きかった。
 昨年の秋、あることがあって、宗茂はあの頃の玻璃姫に会いたいと思うようになった。体の奥から逆流してきた欲望の、その勢いの強さに驚いた。もう六十近くになっているはずの、いまの玻璃姫に会いたい気持ちはみじんも起こらなかった。ただただあの頃の「叛乱」軍にその痩身を投じたきまじめな姫に、こがれるように会いたかったのだ。以来、その思いは今も続いている。そういうこともあってか、石段の上の女に玻璃姫の面影を見てしまったのだった。けれどすぐに宗茂は、いやいや、うり二つの若い女だろう、と自分の認知を修正してしまう。
 ところがその舌の根も乾かぬうちに、こんどは、ああ、もしかしたら玻璃姫の娘なのかもしれないな、と合点するふうに思ったのだった。姫に娘と息子がいることは風のうわさで聞いていた。そうか、眼元が驚くほどにそっくりなのは親子だからなのか。やや細長の眼が笑うと、眼尻にしわができる。それも同じだ。その眼尻のしわをふくめて笑う眼元の可愛さは、同一人物のものとしか思えない。だからこそ、宗茂の眼にとまったのだ。
 宗茂は、その若い女の後ろのどこかに初老の女がいるような気がした。玻璃姫の面影の一部をうっすらと残している女の顔を探したが、いなかった。いるはずがないかと湿った声で心に呟く。
 よく見ると、玻璃姫の愛娘(宗茂はそう信じて、不思議なくらい少しも疑わなかった)の横に、三十歳をいくつか越えたくらいに見える男が立っている。石段にぎゅうぎゅう詰めの恰好だったので、横にいれば自然寄りそうふうに見える。だが、この二人の間には特別の親密さが感じられた。宗茂はそう見た。若い男は細面のさっぱりとした顔立ちをしていた。きちんと手入れされた肌と髭のそりあとの清潔さなど、堅い職業の雰囲気を発している。なのに、黒髪は今どき珍しい、肩にかかるほどの長髪だった。
 ちなみに、娘の髪型は切りっぱなしのワンレングスボブふうのショートだった。毛先を外ハネにカールさせている。母親の姫も付き合っている間ずっと、髪型はショートだった。ただ姫の方は毛先を内側に丸くカールさせていた。歩調を合わせて歩き、時どき顔を見合わせて話したりしているので、二人はやはり知り合いなのだろう。ボーイフレンドだろうか、恋人だろうか、若い夫だろうか、気になった。玻璃姫の息子かとも思うが、二人の後ろにある種一体感をもって立っている、大学生ぐらいの青年がそうかと思う。
 じっと見ていると、眼と眼がぶつかった。
 娘は不審げに眼を細め、眼尻を上げた。何故私のことをそんなにまっすぐに見ているのですか、と詰問するきつい表情でもあった。瞳は上質の黒ダイヤのようにひんやり澄んでいた。ふっとその中に逡巡がゆれた。読書好きでこれまで五十年近く眼を酷使してきたのに、宗茂の視力は還暦をすぎても、まだ一・五をキープしていた(蚊は少し飛んでいるが)。神など信じてはいなかったが、この奇跡についてだけは神に感謝してもいいと思った。少しして、娘はその固さをふっと解き、気よわげに眼をそらした。その伏せぎみの瞼の上にかげりがかかった。
 ああ、あの最初のデートのときに玻璃姫が浮かべた(かげ)と同じかげりだ。宗茂はあの日を想い出し、空を見た。うす青い空から、誰かは忘れたが、日本の女性ジャズ・ヴォーカルが甘く軽やかに歌う、ジャズ・スタンダードの『Close Your Eyes』が降ってきて、聞えた気がしたのだ。

 喫茶店は赤煉瓦造りの外壁がおしゃれで、内装も徹底して古い洋館風に装飾してあった。店内には、ジャズの『Close Your Eyes』の甘い歌声が流れていた。一九八六年の晩秋の夕暮れだった。どちらから誘ったのかはもう忘れたけれど、二十七歳の宗茂と二十五歳の玻璃姫はデートの場所として、紅茶がおいしいと評判のその店を選んだ。宗茂は姫に、評判のチーズケーキをおごる約束をしていた。なのに、彼女はオーダーのとき、きょうは食べたくないと固い口調で断った。ポットでたのんだダージリン紅茶がくるまで、二人は黙りこんだ。ポットとティ・カップがテーブルに置かれると、彼女は慌てて二人の茶碗に茶をそそいだ。そして、そくさくとストレートの紅茶を口に含んだ。一呼吸おいて飲みこむと、ふうーっと吐息を吐いた。そして顔を上げて、「あなたといっしょに来てて、こんなことを言うのも変だけど——」と言った。溜めこんでいた何かを吐き出すような勢いで、玻璃姫は彼の眼を見て言った。だが、それも長くは続かず、すぐに眼を伏せた。その瞼の上に翳がさざ波立った。「わたし、誰も好きにならないことにしているの」と姫は続けた。「傷つくのいやだから」
 紅茶の爽やかで華やかな香りがその瞬間、二人の間を切り裂くように漂いながれ、距離を作った。
 はあ、それじゃあこれからぼくらは何をしようとしているの、と訊こうかと思った。けれど、宗茂の口をついて出た問いかけは「それじゃあ、一生、一人でいるの?」というものだった。
「結婚はするわ。条件をみたす人に出会えたらネ」姫は初めての二人だけのデートで、そんなことを言った。
 やっかいな女人(ひと)だなと引き気味に思った。でも、実際のところ「条件」とか「結婚」とかいう言葉はまだ自分には早すぎて関係ないと聞き流した。
 男の反応などお構いなしに、玻璃姫は言うことは言ってさっぱりしたとばかりに、優雅な手つきで茶碗を口許まで運ぶ。その細くしなやかな指の爪には、少し濃いめの桜桃色のマニュキアが光っていた。
 でも、平凡なのもいやよね、と姫はカップをソーサーにもどすと唐突にぽつりと言った。姫は時どきこんな、どの言葉とつながっているのか分からない、迷子の言葉を口にした。
 帰りの電車の中で、喫茶店での彼女の言葉を思い出し、姫はおそらく気を遣いすぎる女人(ひと)なのだ、と宗茂は理解した。のちには、色んなことに気を遣いすぎる、と思いを更新した。それにしても、付き合う相手が自分のことを好きになってくれなかったときのことを心配して、あんな予防線を張るなんて、気を遣うにも程があると呆れた。確かにその後、付き合っているあいだ中、姫は何にでも先にさきに気を遣って、防御の手を打っていったものだった。
 たしかに姫の心は、薄い玻璃(はり)で形作られたこわれやすい宝箱みたいだった。ほんの小さな傷でも入ったが最後、ガラスの箱全体にひびが走り、粉々に砕けてしまう。一つの見逃しや注意力の欠如が危険な小さな傷をつける。だから、過剰なまでに防御しないと姫は不安だったようだ。(「玻璃姫」という呼び名はこの心の材質にちなんで付けたのだった)やっぱりやっかいな女人(ひと)だ。 

 『蜘蛛女のキス』という映画を二人で観た。最初のデートから十日が経っていた。同性愛者の女装男性と政治犯の交流を描く、あまりカップルでわいわいと感想を語り合えるような映画ではなかった。玻璃姫が誘った。映画館を出ると、歩いて繁華街のおでん屋に行った。そこで、姫は日本酒をなめながら言ったのだ。
「わたし叛乱しようかしら?」
 宗茂はそのときは、叛乱って何に?と訝しく思ったけれど、面倒くさくてその意味は訊かなかった。ただ深く考えずに、「確かにもう、叛乱を起こしてもいい歳かもしれないね」とビールを飲みほして言った。姫はあと三か月で二十六歳だった。だが、分かり切ったことだけれど、叛乱にふさわしい時期などというものはない。何ていい加減なんだと内心自嘲しながら、好物の厚揚げを切りとって口に運んだ。あとで、この前姫の口にした「平凡なのもいやよね」という言葉を思い出し、それはこの叛乱の意味の精神的な一面であったのだろう、と思った。
 そうね、と姫は言った。「子どものころ、お父さんに花瓶を投げつけたことがあるの」
「きみにとってそれは、叛乱だったの?」と宗茂は訊いた。一人娘だと聞いていた。だったら、父母は姫を可愛がりすぎたことだろう。それはそれで、彼女を縛り付けたのかもしれない。そして今も束縛を感じていて、また叛乱しようというのだろうか。
 いや、姫はお父さんを信じきっていた。後で追々分かったことだけど、おそらく小さいころからお父さんだけを信じてきた。まあ、よくあるファザコンのお嬢さんといえば、そうなのだけれど、姫の場合はそれが少し度を越していた。姫の物事や行動の判断基準はほとんど「お父さんなら」という仮定の思考であった。自分よりもお父さんを信じているのだ。だから、玻璃(はり)のように壊れやすいのではないか、と宗茂は察していった。が、どんなに信じ切っていても、お父さんはいつもいつも彼女の前に盾として立ち続けるわけにはいかない。だから、大人になった姫は一人の時、玻璃の自分の心だけで先に先に予防線を張らざるをえないのだ。そういう生き方しかできない、かわいそうだけど。
 そうね、あれは叛乱だったのかもしれないわね、と姫は言った。「叛乱のジャブってところかしら。でも結局、強いパンチをくり出すまで続けられなかったけど」
 それはそうだろう、大好きなお父さん相手では、と宗茂は思った。けれど口に出しては言わなかった。「そういう叛乱もあるんだろうね」と言った。
 姫が口にした「叛乱」の意味はその時点ではよく判らなかった。お父さんや家族に関係があるのかもしれないけれど、そういうのとも違う気がした。おそらく姫自身、明確な対象に対して叛乱しようと言ったわけではなかったのではないか、と宗茂は後になって思った。とにかく叛乱して何かを変えたい、変わりたいという気分が先走っていたような気がする。
「お父さん、そのときとても悲しい顔をしてた」と姫は言った。「それから私をやさしく抱きしめてくれたわ、だから続けられなかった」と懐かしむように言うと、ガラスの猪口の日本酒に口を付けた。
 店を出ると、二人はどこに行こうとも決めずにとにかく歩きだしていた。夜の街の冷気が酒気にほてる頬に気持ちよかった。自然と姫の家のある方に足は向かっていた。宗茂はタクシーを停めて姫を帰らせようとは考えなかった。姫もタクシーで帰るとは言わなかった。二人とも歩きたかった。ネオンと街灯と車のライトが不均等に照らしだす夜の街を歩き続けた。男はいつのまにか姫の肩を抱いていた。人がいると、彼女は彼の腕からしなやかにするりと抜け出した。そして、また男の腕の中にひょいともどって抱かれた。話すことなど何もなかった。
 灯りのほとんど消えたビルのあいだの狭い夜空に、オリオン座が貼りついていた。オリオンの肩のベテルギウスと脚のリゲルが玻璃(はり)の砕片のようにきらめいてきれいだった。歩きながら、姫と一緒に見上げた。時折、二人は見つめ合った。玻璃姫の黒く澄んだ瞳はふるえて、いまにも割れてしまいそうに見えた。そのままの眼で姫は笑った。何て可愛いのだろう、と彼女に魅かれていく自分に気づいた。腕に力をこめた。
 姫の家の近くまで来たらしかった。高速道路の高架が国道の上を直交しているその下で、姫は歩みを止めた。もっと一緒にいたいけど、きょうはここで、と姫は言った。声は震えていた。寒さのせいだけではないだろうと宗茂は思った。じゃあ、車を止めようか、と訊く宗茂に、「好きよ」と姫は小さな声で言った。男の腕をとり、肩から胸の辺りに顔を埋めた。〈傷つくから、ひとを好きにならない〉と言った姫が、夢中で自らの女人(おんなびと)を男に投げ出そうとしていた。また強く抱きしめた。しかし、姫らしく唐突な言い様だったので少し慌てて、何と応えたらいいか言葉に迷った。
 通りかかった車が冷やかしのクラクションを鳴らして走り去った。
「あなたは?」と姫は少し苛立つふうに訊いた。
 宗茂はまだ、姫のことを好きになり始めたばかりだった。自分自身の気持ちにまだ自信が持てなかった。「好き」といった後の関係から逃げないかも分からなかった。自信など関係なかろうに、彼もバカ正直でやっかいな男だった。
「好きだ——」姫の髪に頬を押しあてて、宗茂はようやく言った。「ということにしておこう」
 店を出てから四十五分歩いていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み